【狭い部屋】(300字)
最初は、広めの部屋だと思っていた。
駅から遠いおかげで安く購入できた、マンションの一室。2DK。一人暮らしには贅沢なほど。仕事用の書斎も確保できて、完璧だと思っていた。
ところが、アイツが転がりこんできたせいで、なんとなく手狭に感じるようになった。砂のトイレ、餌場、水飲み場、キャットタワー、ふかふかの寝床。アイツと暮らすためには、いろんな家具が欠かせない。ちなみにアイツというのは、猫の名前だ。
さらに、猫に釣られた恋人まで住み着くようになって、部屋は一気に狭くなった。
そんな窮屈暮らしも、今日で終わり。
三人と一匹の家族には狭すぎる部屋に、私たちはとうとう、別れを告げる。今まで、ありがとう。
【正直】
「正直に申し上げますと、この国はもう終わりです」
突然地球から召喚されたセーラー服の女子高生は、魔法陣の外側にぽつんと立っていた女性からそう告げられて、ただただ困惑しました。
「はぁ。あなたのお国の事情とかすごくどうでもいいことなんですが、お約束なので聞きましょうか。なにがあったんです?」
いかにも魔女です、という帽子を被った女性は答えました。
「王様が、結婚詐欺師に騙されました」
「は?」
「それで、すべての者が誠実で正直であるようにと、魔女の力を借りて国全体に“正直魔法”を掛けました」
「あっ……。え、もしかして王様バカなの? そんなことしたらみんな喧嘩だらけになっちゃうじゃん。誰か止める人いなかったの?」
「さすがは異世界の勇者様、その炯眼たるやお見事です! そう、王様はバカすぎて側近がおらず……いえ、今のは聞かなかったことにしてください。ええと、正直魔法のせいで、みなさんが正直な物言いをするようになった結果、あちこちで諍いが絶えなくなり、国内がボロボロになってしまったのです。しかも、王様の周囲の人たちはみんな王様のことをバカだと言っちゃうので、不敬罪で捕まって、国政が立ち行かなくなってしまいました。さらに、隣国がこの隙につけいって、我が国を乗っ取ろうとしています。隣国からの間者はすぐ自首してくれるので助かっていますが……」
「なるほど、先ほどから私の正直な感想がダダ漏れなのも、魔法のせいなのか。いつもならオブラートに包むのに。で、なんで元凶の正直魔法を解かないんですか?」
女子高生が呆れ顔で尋ねると、女性はわっと泣き出しました。
「解けないんですぅ! 王様からの依頼で張り切っちゃって、一世一代の大魔法を使ってしまったから、私より強い魔女が命賭けないと解けないぐらい強力なんですぅ!」
「……あっ、あなたがその魔女なんだ? で、あなたもバカだったんだ? もしかしてこの国、バカしかいない?」
「そんなわけないじゃないですか! 私は成功報酬に目が眩んだだけです! というわけで異世界の勇者様、どうかこの国をお救いください! 貴方様なら、異世界召喚の際に時空の女神様からお餞別でなんらかのチート能力を授けられているはず! その力を使って、正直魔法を打ち破るなり隣国を退けるなりなんなりと、都合のいい展開を!」
「お断りします」
「どうして!」
「だって、見も知らぬ異世界の見も知らぬバカな国のために、どうして華の女子高生である私が尽力しなくちゃいけないんです?」
「そ、そこはチート能力でちゃちゃっと」
「ちゃっちゃとできるタイプのチートじゃないので諦めてください。じゃ、私はこれで」
女子高生は魔法陣を出て、部屋の扉に向かって歩き出しました。そこをすかさず、魔女の放った魔法が絡めとりました。
「げっ、触手!? なにすんのよ変態! コスプレ痴女!」
「しかたありません、かくなるうえは、あなたを生贄にして正直魔法を解くしかありません。次の満月まで、あなたを捕らえさせてください」
「正直者で助かる〜。じゃあ、私はさっさと逃げて、しばらく異世界旅行を満喫したあと、悠々と元の世界に帰るね」
「ふふふ、元の世界に帰る方法なんてありませんよ。この召喚魔法も私の一世一代の大魔法! 世界を繋ぐゲートは一方通行ですし、もう閉じました!」
「それがね、私がもらったチート能力って空間転移だから、ここから簡単に逃げ出せるし、いつでも好きなときに自分の家に帰れるんだよね。超ラッキーな能力もらっちゃった……あっ、ギリギリピンチのときにかっこよく覚醒したフリで使いたかったのに、もう手の内明かしちゃったじゃん! やっぱ迷惑だね、この正直魔法。他の国行こっと」
シュン、というかすかな音とともに、女子高生の姿は消えてしまいました。
「そ、そんな……。あんまりです、時空の女神様……」
魔女はへなへなとその場にへたりこみました。
後日、隣国の王太子と婚約したというセーラー服のふしぎな少女が、世界中から集めた魔女たちの力で正直魔法を打ち破ったうえで王様に無血開城を要求したのは、別のお話です。
そのとき、国民たちは魔法の強制力がなくとも、正直にこう語ったと言われています。
「正直、まっとうで人間的な暮らしができるなら、統治者なんて隣国だろうと異世界の少女だろうと誰でもいいんですよ。そう、バカでさえなければ……」
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ちなみに政治的な意図はまったくありません。普遍的な童話です。私はノンポリです。
『キノの旅』にありそうですよね、正直者の国。
【終わりなき旅】(300字)
彼女から溢れ落ちた涙は、シャワーの水とともに排水口へと飲み込まれた。
他の排水と混ざり合いながら下水道を流れ、下水処理施設で浄化されて、川へと流れ出る。ほどなく海へと辿り着き、潮に乗ってたゆたう日々が過ぎるも、やがて陽に照らされて蒸発し、雲となって、今度は風に流されるまま空をさすらう。いずれその身の重さに耐えきれなくなれば、地上へと落下する。
「あ、雨」
その一滴に、皺だらけの手の平を差し出したのは、遠い日に涙を溢していた彼女。
帰還したかと思いきや、水滴はすぐに振り払われる。地面に染み、長い時間をかけて地下水と合流する。あるいは、蒸発して再び雲の一部となる。
その旅は、終わることを知らない。
【天国と地獄】
「わぁ〜!」
その場所へ足を一歩踏み入れたとたんに、紗夜香さんが歓声をあげた。
色とりどりに咲き誇る花々の間を、色とりどりの鳥たちが飛び交っている。まるで天国のような光景――って、さっき読んだパンフレットに書いてあった。実際の天国とは、きっとかけ離れているんだろうけど。でも、僕は天国なら、このドーム内の光景のほうが親しみやすいと思う。綺麗な花は、僕も大好きだ。
ここは地元の動物園で、色鮮やかな花と鳥たちが有名なテーマパークでもある。僕たちは今、その花と鳥のドームに足を踏み入れたところ。そして、僕の横で目を輝かせて周囲を見回している網代紗夜香さんは、結婚相談所のお見合い相手。地元で二百年以上続いている布団問屋の娘さんだそうだ。一方の僕は、天涯孤独のしがない地方公務員。しかも、顔に醜い傷痕がある。はっきり言って、彼女と釣り合うとは思えない。相談所のお姉さん、なにを考えて僕たちをマッチングさせたんだろう?
「結城さん、ほら、あの飼育員さんのところ、鳥が集まってますよ、行きましょう」
紗夜香さんが僕の手をとり、引っ張っていこうとする。えっ、初デートなのに、こんなにすんなり手を握られちゃっていいの?
彼女に会ってから高鳴りっぱなしだった心臓が、ますます早鐘を打った。うるさすぎて、もう心臓に杭でも打ち込んで黙らせたいぐらい。彼女にこの鼓動が知られたらどうしよう。
僕の武骨な手をぎゅっと握りしめた、華奢な手のひら。折れそうに細い指先。驚いた僕の顔を振り返り、小首をかしげる仕草。続いて、ふふっ、と悪戯っ子みたいに吹き出す表情。いちいちあまりにも可愛すぎて、不安になってしまうほど。なんでこんなに可愛くて無邪気な二十五歳の子が、結婚相談所に登録してるの? なにを間違って、三十歳のおっさんの目の前にいて、あまつさえ手を握ってくれてるの? もしかしてここ、本当に天国なの? それとも、美人局みたいな地獄に続いてるの?
近くでペンギンたちの徒競走でもはじまったのか、ちょうどオッフェンバックの『天国と地獄』がドーム内に流れだした。運動会やテレビの動物たちのかけっこでよく聞いたあの曲だ。鳥を目指して小走りになった紗夜香さんと、それを追う僕にぴったりの曲でもある。かけっこのコミカルなイメージが染み付いた曲調は、どのあたりが天国でどこが地獄なんだか、よくわからない。でも、『天国と地獄』というタイトルだけなら、僕の心境そのものと言える。
というのも、僕は羽毛アレルギーだ。鳥に近づいただけで地獄がはじまるのは、目に見えている。なのに、僕を引っ張る紗夜香さんの幸せそうな笑顔には逆らえない。だって、一目惚れだったんだ。
「で、あえなくフラれた、と」
職場の机に突っ伏す僕に、主任がニヤニヤと無遠慮な言葉をかけてくる。いや、僕は顔を伏せているから彼女の顔は見えないけど、ぜったいニヤニヤして僕を見下ろしている。そういう意味で、僕はこの上司を信頼している。
「うちでは羽毛布団を作っているから、羽毛アレルギーのかたはお断りしているの、ごめんなさい」
デートのあいだじゅうズビズビ鼻を啜ることになった僕は、帰り際のバス停で紗夜香さんからはっきりそう言われた。初デートでいきなりこの動物園を指定したのも、アレルギーの有無を確かめるためだった、と。そんな選別方法ある!? ……なんて、そのときは思ったりもしたけれど。今ならわかる、あれはとっさに思いついた嘘の断り文句だ。しかたない、もともと網代紗夜香さんと僕とじゃ、釣り合わなかった。彼女も、僕を断る口実を見つけられて、さぞやほっとしたことだろう。
ああ、彼女と触れ合ったあのつかの間の時間は、まさしく天国だった。だけど、今の僕の心境は、地獄そのものだ。
だって、さっき回ってきた出動要請のターゲットの顔写真が、忘れもしない、僕が一目惚れした彼女その人だったのだから。
書類の写真を見るなりいきなり頭を抱えて机に突っ伏した僕から、主任が先週の動物園デートの話を聞き出したのが、ついさっきのこと。そして今、僕は無粋で失礼な主任にニヤニヤ笑われているわけだ。
いつまでも突っ伏して職務放棄しているわけにはいかないので、僕はしぶしぶ顔を上げた。主任に目をやれば、ほら、やっぱり。黒いパンツスーツの足を組んで隣の机に行儀悪く腰掛け、ショートカットがサマになる綺麗な小顔で、僕を見下ろしながらニヤニヤしている。
「討伐対象の吸血鬼に失恋済みとはねぇ」
「どうりで、やたら魅力的なわけですよ……。吸血鬼なら納得です……」
「君がフラれたのは、吸血鬼狩り専門の警察官だと気づかれたからだね。銀の匂いが染み付いちゃってるんだろうな。君のほうこそ、相手が吸血鬼だと気づかなかったのかい?」
「ぜんぜん気づきませんでしたよ……」
僕はすこぶる耳がいいので、その気になれば人の鼓動を聞き分けられる。つまり、鼓動がない吸血鬼のことも見抜ける、いや、聞き抜ける? とにかく判別できる。とはいえ、普段はそこまで聞き耳を立てていないし、あの日は、僕自身の鼓動がうるさすぎた。
今回、彼女が吸血鬼だと判明したのは、隠密調査員がバーで彼女の唾液の採取に成功したからだ。そして、人の世に紛れる吸血鬼がいるとわかったからには、僕たち警察官は彼女を狩らねばならない。
「だいたい、どういう奇跡ですか、吸血鬼と吸血鬼ハンターのお見合いマッチングって」
僕が愚痴ると、主任がニヤリと笑う。あ、いやな感じ。
「最近の男性不審死の調査対象に、もともと彼女が含まれていてね。で、ちょうどいい接触ポイントに君がいた、というわけだ。君が尻尾を掴んでくれればその日のうちにカタがつくだろう、ということで、相談所に働きかけてマッチングしてもらった」
「ひ、ひどい、僕の婚活心を弄んだ……っ!」
「なんだ、婚活心って。ほら、以前にも婚活パーティーで獲物漁りしてた吸血鬼がいただろ? あれ以来、上層部も婚活現場に着目しててね。私としても、不埒な吸血鬼どもを炙り出すための猟犬として、君にはとうぶん婚活しててほしいと思っているよ」
「とうぶんなんて、いやですよ。さっさといい人を見つけて、家庭を持って安らぎたいんです」
「家庭を持ったところで、この仕事をしている限り、安らぎとは無縁だねぇ。ほら、立ちたまえ、わざわざ君を指名した出動要請だぞ」
「失恋相手を狩らせるなんて、僕に対して無慈悲すぎやしません?」
「君に尻尾を掴ませなかったぐらい強力な吸血鬼だとしたら、命を賭けたお見合いの相手が務まるのは、この部署じゃ君だけ、ということだよ。今回は、私もサポートに入る」
最後の一言で、急に身が引き締まった。主任まで駆り出されるなんて、そうとう戦い慣れた吸血鬼ってことだ。
「この任務が終わったら、辞表出しますからね!」
「ああ、ぜひとも無事に終わらせて、元気な辞表を見せてくれたまえ」
黒いスーツをピシッと着こなして警察手帳を見せると、話が早くなるので助かる。やっぱり、見た目と権威は大事だ。とくに、僕のような、相手を怯ませる顔面を持っているともなれば。
「ああ、毎回ツレが違うのに、初めて来た、みたいな反応をしてるあの女の子ね。さっきドームに入っていったのを見たよ」
僕と主任は、対象の吸血鬼を追って例の動物園に来ていた。彼女はまたしても婚活デート中で、またしても花と鳥のドームに相手を連れ込んでいるらしい。まさか本当に羽毛アレルギーチェックをしているわけでもないだろうに。そろそろ職員さんたちに顔を覚えられているんじゃないだろうか……と思ったら、案の定だった。
「そういえば、イカす傷の兄さん、こないだあの子と一緒に来てなかったっけ? 君もなんらかの被害者かい?」
……僕まで覚えられていた。たしかに、鼻の上を通って顔を真一文字に横断する爪痕は、よく目立つ。吸血鬼相手に不覚をとった若かりし日の自分が恨めしい。
職員専用の裏口からドームに入れてもらい、生い茂る葉の陰から彼女の姿を探す。主任はキョロキョロしているけれど、僕は耳を澄ます。深く――深く、聴覚の奥底へ。ドーム内に反響する鳥たちの声。人間たちの歓声。おしゃべりの声。葉が騒ぐ音。空調の風のざわめき。そして、生き物たちの小さな鼓動。呼吸音――会話やささやかな動作音が伴っているはずの、命の音がない、そんな違和感の出どころを探る。
「あ、いましたよ、フクロウの止まり木のそばです」
「ここからじゃよく見えないのに、本当に猟犬並みに鼻が利くね、君は」
「鼻ではないですけどね……」
主任が葉の陰からざっと立ち上がる。僕もそれに続く。
「では、あとは手筈通りに」
僕たちは顔を見合わせ、頷きあった。
主任が彼女の連れに話しかけて気を引いている間に、僕は背後から彼女に話しかけた。
「場所を移しましょう」
目を丸くしている彼女に、すかさず提案する。
「あなたとしても、そのほうがいいでしょう。お連れのかたに正体を知られたくないのなら」
「そうね」
僕が現れたことで、これからなにが起こるのかを察したのだろう、彼女はすぐに、ふふっと魅力的な――さらに言えば挑発的な微笑を浮かべた。
「ここで大立ち回りをして、出禁になったら悲しいものね」
彼女はすんなりと僕の手招きに応じてくれた。連れが主任と話しこんでいる間に、二人でこっそり裏口からドームを出る。
と思ったら、彼女は外に出るなりぴょんと跳び上がった。吸血鬼は身軽だ、あれよあれよという間にドームの壁面を駆け上り、姿が見えなくなってしまう。
ひょっとして、逃げたつもりだろうか。でも、僕だって、吸血鬼を相手取るために血反吐をはくほど鍛錬を重ねた警察官だ。見くびらないでほしい。彼女の後を追ってドームの壁面を駆け上るぐらいのことは、簡単にできる。
一息でかるがるドームのガラス屋根へと上りきると、少し離れたところから、彼女が呆れ顔で僕を見つめていた。
「驚いた、あなた、ずいぶん身軽なのね」
「いえ、どちらかといえば重いほうです。これでも、鍛えているので」
「細身に見えるけど、案外パワータイプってことかしら。やあね、筋肉質の血は好みじゃないのに」
逃げるのは諦めたらしい。彼女はずかずかと僕に近づいてきた。
ドームといっても、天井は平らで、ガラス屋根を支える鉄の骨組みもある。そして、人目はない。厄介な羽毛もない。吸血鬼と戦うには、うってつけの場所だ。もともとここに誘導するつもりだったから、彼女がすすんで上ってくれたのは、ラッキーだった。
「ね、今日は見逃してくれない? 私、この動物園、壊したくないの。すごく気に入ってるのよ。花も鳥も色鮮やかで、まるで、行けもしない天国みたいだから」
「天国なら、僕がちゃんと本物を見せてあげますよ」
近づく彼女を制するように、スーツの襟を開き、裏地から手のひらサイズの十字架を抜き取る。銀製の十字架の先端は尖り、杭になっている。十字架の頭を握れば、形はほぼ短剣だ。
「あなたが、天国に? つまり、血を吸わせてくれるってことかしら?」
彼女はあの魅力的な表情で、ふふっと笑った。
「だって、吸血鬼は死んだら地獄に落ちちゃうんでしょ?」
「そんなことはないと思いますよ」
それは吸血鬼を悪魔とみなす特定の宗教が言い出したことで、吸血鬼も人間も動物も、死んだらどこに行くかなんて、本当はわからない。
「ところで、最初にお聞きしておきたいのですが」
杭を逆手に構え、彼女との間合いを計る。彼女はまだ爪を見せていない。
「本物の網代紗夜香さんはどちらに?」
「あら、彼女なら、とっくの昔に土の中よ。しわしわのお婆さんになって、ね」
「それは、老衰で寿命をまっとうした、という意味ではなく?」
「吸い尽くしてやったに決まってるでしょ。なかなかの美味だったわ。たまには女の子もいいものね」
「それを聞いて安心しました」
「え?」
「遠慮なくあなたを天国に送れます」
僕はほんの一瞬で距離を詰めた。体を倒す力をそのまま移動のエネルギーに変えた、縮地。彼女の懐に入り込むなり、体当たりの力を乗せて、心臓の位置に銀の杭を打ち込む――はずが、彼女はそうそう簡単には終わらせてくれなかった。素早く避けた彼女に杭は空振りして、僕は前のめりにバランスを崩した。慌ててしゃがみ込むと、吸血鬼の鋭い爪が髪をかすめとった気配を感じた。
僕はしゃがみ込んだ勢いで彼女の足元まで前転し、跳躍を誘う。彼女が僕を避けて跳んだ隙にさっと立ち上がって、体勢を立て直す。
「驚いた。私と同じぐらいに素早いのね」
「僕も驚きました。僕と同じぐらいに素早いんですね」
最初の対峙からそっくり入れ替わった立ち位置で、僕たちは睨み合う。
僕は並の吸血鬼よりは素早い自信があったから、素早さが互角ということは、彼女はかなり強い部類に入る。主任の言うとおりだ。こんな面倒な相手、他の同僚には任せられない。
吸血鬼の武器は、俊敏な身のこなしと、あの長くて鋭い爪。車を簡単にへし折るほどの怪力。そして、多少のダメージならものともしない回復力。決着をつけるなら、一瞬で決定的なダメージを叩き込まなければならない。それも、あの俊敏でパワフルな爪を掻い潜って。
彼女の隙を生み出さなければ、僕に勝ち目はない。素早さは互角。パワーも今のところは互角。打ち合いの体力勝負になれば、無尽蔵のスタミナを持つ吸血鬼が有利。武器のリーチでも、吸血鬼が有利。五分五分どころか、九対一ぐらいで、僕には分がない。
とはいえ、まったく勝算がないわけではない。なにしろ、今日の僕には主任がついている。
かすかなワイヤーの音を耳に入れながら、僕はおもむろに足の位置を入れ替える。彼女を中心にして、円を描くようにゆっくりと周囲を回る。彼女は僕から目を離すまいとして、体の向きごと僕を追う。
かすかなワイヤーの音が止まる。僕は一気に攻勢をしかける。彼女に飛びかかって、そのまま杭と爪の打ち合いになる。短い杭一本で両手ぶんの爪を捌くのは厳しいので、スーツ内に仕込んだ籠手の出番だ。両腕を使えるなら、爪あしらいには自信がある。彼女は思うように僕を捉えられず、少しムキになっている。いいぞ、その調子。ワイヤー音はふたたび唸っている。僕はスタミナの消費も気にせず、鉄骨の上でステップを踏みながら、彼女を誘い続ける。
ギリリ、と弦を引き絞る音が聞こえる。主任が愛用している、大型の弩の音だ。
吸血鬼は、まだ気づかない。
元隠密調査員だった主任は、吸血鬼に対して気配を消すのがうまい。ワイヤーを使ってドームの端に上がって来た主任は、さらにワイヤーで愛用の弩を引き上げると、そこそこ離れた場所から吸血鬼の背後を狙って、矢を放とうとしている。
僕は吸血鬼の注意を引きつけ、向きを誘導し、主任を視界に入れないようにする役割。戦闘に夢中にさせ、主任の気配に気づかせない役割。
そして、もうひとつの役割は――
僕は吸血鬼の爪を弾いた隙に主任へと視線を向け、大きく頷いた。
その合図で、吸血鬼はようやく、弩を構えた主任に気づいた。
「挟み撃ちってこと!? 甘いわね!」
間髪入れず弩から放たれた矢を、吸血鬼が反射的な動きではたき落とす。
それが僕たちの狙いだった。
木の矢にくくりつけられていた風呂敷がほどけ、中身がぶわっと周囲に飛び散った。
彼女の足元にぼとぼとと落ちる、色とりどりの花。ドーム内で咲き誇っていた、美しい花たちだ。
「え、なんで!?」
彼女が一瞬目を見ひらいた、その隙を見逃さない。
縮地で彼女の懐へ。体重を乗せて、まっすぐに。
彼女の心臓の位置に、杭を打ち込む。深く、深く。僕のありったけの想いをこめて。
「受け取れ。結城くんから君へ、天国への餞だそうだ」
遠くから、主任の声が遅れて聞こえる。
吸血鬼にとどめを刺すのも、僕の役割だ。主任はあくまでもサポートで、戦闘員ではないから。まあ、弩を持たせたら腕前はピカイチなんだけど。
「そん、な……」
彼女にぴたりとくっついた体を通して、呻き声が僕に響く。
とっさに僕へ突き立てようとしていたのだろう、長い爪が、かき抱くように僕のスーツの背中を切り裂いていた。僕の両脇から、スーツの生地が、死者の腕のようにだらりと垂れ下がった。
彼女の形をした灰が、輪郭をとどめきれずにさらさらと崩れ落ちていく。足元に咲いていた鮮やかな色たちが、またたくまに灰に埋もれていく。僕のスーツの切れ端も埋もれていく。僕は杭を落とし、彼女を掬い上げるように、灰を手のひらに受け止めた。
ドーム内ではペンギンの徒競走がはじまったのか、真下から『天国と地獄』が聞こえてくる。まさに僕の心境だ。無事に吸血鬼を退治できた高揚と、一目惚れだった彼女を手にかけた消沈で、天国なんだか地獄なんだか、わけがわからなくなってしまう。この仕事は、いつもそう。相対する吸血鬼たちは美しく、魅力的だ。顔に傷を負った醜い僕とは正反対で、だからこそ、僕はいつも彼らに惹かれてしまう。
「灰の清掃業者には連絡済みだ。今回は花も片付けてもらわねばな。言われたとおり、生け垣で間引いたぶんをもらってきたが、君もなかなか粋なことをするねぇ」
主任が僕の背後に立った。ぜったい、ニヤニヤ顔で僕を見下ろしている。顔を見なくてもわかる。僕は主任を信頼しているから。
「で、怪我はないんだな?」
「ないです」
「擦り傷もか? 相変わらず、たいしたものだな。しかし君、戦闘のたびにスーツの背中を切り裂かれるのは、なんとかならないのかい? その背中のダメージが、相手の強さの指標にはなるが……」
「相手の懐に飛びこむのが僕の戦闘スタイルなので、スーツは必要な犠牲です。だいたい、なんで戦闘用の支給服がスーツなんです? 普通、もっと動きやすい服とか斬られにくい服とかあるでしょう。防刃シャツだけじゃ不安ですよ」
「上層部の調査によると、戦闘服萌えの吸血鬼より、スーツ萌えの吸血鬼のほうがだんぜん多いから。以上」
「僕のスーツは、そんな萌えのために毎回消費されていた……?」
「ま、いいじゃないか。君はスーツの着こなしがすこぶるいい。よく似合ってるよ。これからもぜひスーツを着こなし、婚活という名目で吸血鬼退治を頑張ってくれたまえ」
軽い調子で、ボロボロの背中を叩かれた。
「職場が地獄で上司が鬼です……」
僕はようやく手中の灰を振り落とした。『天国と地獄』が突き上げるように響くドームの上で、膝を抱えて丸くなる。今日はもう、後始末を全部主任に押し付けて直帰しちゃおうかな。いや、でも、まずは職場に帰って、やることがある。
「私からすれば、優秀で職務に忠実な君をこき使えるってだけで、天国みたいな環境なんだけどねぇ」
「宣言通り、帰ったら辞表を出しますからね」
「はいはい。今回も握りつぶしておくよ」
【理想のあなた】(300字)
あなたはあたしの理想の女の子。
すべすべで雪みたいに白い肌。背中を覆う長い金髪は、朝の光を束ねたかのよう。ぱっちりしたブルーの瞳は、まるで宝石ね。その瞳を縁取る長いまつ毛も、桃色に染まった頬も、「可憐」の一言に尽きるわ。ふっくらした唇は、形も配置も理想的。レースたっぷりのふんわりドレスなんて、理想のお姫様そのものよ。
そんな理想的な容姿のあたしを、あなたの大きな黒い瞳は毎日映してくれる。毎朝ちゃんとあたしを着せ替えてくれるし、学校から帰ったら楽しげに語りかけてくれる。だから、あなたは人形にとって理想の女の子。あたしがあなたの理想のお姫様でいるのと、同じように。
ね、いつか、入れ替わってみる?
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このアプリでの作品をまとめた『#書く習慣と眠る習慣 』が、コミティアのティアズマガジンのP&Rコーナーに掲載されました。これもひとえに♡を励みに走ってきたおかげです。ありがとうございます!