【天国と地獄】
「わぁ〜!」
その場所へ足を一歩踏み入れたとたんに、紗夜香さんが歓声をあげた。
色とりどりに咲き誇る花々の間を、色とりどりの鳥たちが飛び交っている。まるで天国のような光景――って、さっき読んだパンフレットに書いてあった。実際の天国とは、きっとかけ離れているんだろうけど。でも、僕は天国なら、このドーム内の光景のほうが親しみやすいと思う。綺麗な花は、僕も大好きだ。
ここは地元の動物園で、色鮮やかな花と鳥たちが有名なテーマパークでもある。僕たちは今、その花と鳥のドームに足を踏み入れたところ。そして、僕の横で目を輝かせて周囲を見回している網代紗夜香さんは、結婚相談所のお見合い相手。地元で二百年以上続いている布団問屋の娘さんだそうだ。一方の僕は、天涯孤独のしがない地方公務員。しかも、顔に醜い傷痕がある。はっきり言って、彼女と釣り合うとは思えない。相談所のお姉さん、なにを考えて僕たちをマッチングさせたんだろう?
「結城さん、ほら、あの飼育員さんのところ、鳥が集まってますよ、行きましょう」
紗夜香さんが僕の手をとり、引っ張っていこうとする。えっ、初デートなのに、こんなにすんなり手を握られちゃっていいの?
彼女に会ってから高鳴りっぱなしだった心臓が、ますます早鐘を打った。うるさすぎて、もう心臓に杭でも打ち込んで黙らせたいぐらい。彼女にこの鼓動が知られたらどうしよう。
僕の武骨な手をぎゅっと握りしめた、華奢な手のひら。折れそうに細い指先。驚いた僕の顔を振り返り、小首をかしげる仕草。続いて、ふふっ、と悪戯っ子みたいに吹き出す表情。いちいちあまりにも可愛すぎて、不安になってしまうほど。なんでこんなに可愛くて無邪気な二十五歳の子が、結婚相談所に登録してるの? なにを間違って、三十歳のおっさんの目の前にいて、あまつさえ手を握ってくれてるの? もしかしてここ、本当に天国なの? それとも、美人局みたいな地獄に続いてるの?
近くでペンギンたちの徒競走でもはじまったのか、ちょうどオッフェンバックの『天国と地獄』がドーム内に流れだした。運動会やテレビの動物たちのかけっこでよく聞いたあの曲だ。鳥を目指して小走りになった紗夜香さんと、それを追う僕にぴったりの曲でもある。かけっこのコミカルなイメージが染み付いた曲調は、どのあたりが天国でどこが地獄なんだか、よくわからない。でも、『天国と地獄』というタイトルだけなら、僕の心境そのものと言える。
というのも、僕は羽毛アレルギーだ。鳥に近づいただけで地獄がはじまるのは、目に見えている。なのに、僕を引っ張る紗夜香さんの幸せそうな笑顔には逆らえない。だって、一目惚れだったんだ。
「で、あえなくフラれた、と」
職場の机に突っ伏す僕に、主任がニヤニヤと無遠慮な言葉をかけてくる。いや、僕は顔を伏せているから彼女の顔は見えないけど、ぜったいニヤニヤして僕を見下ろしている。そういう意味で、僕はこの上司を信頼している。
「うちでは羽毛布団を作っているから、羽毛アレルギーのかたはお断りしているの、ごめんなさい」
デートのあいだじゅうズビズビ鼻を啜ることになった僕は、帰り際のバス停で紗夜香さんからはっきりそう言われた。初デートでいきなりこの動物園を指定したのも、アレルギーの有無を確かめるためだった、と。そんな選別方法ある!? ……なんて、そのときは思ったりもしたけれど。今ならわかる、あれはとっさに思いついた嘘の断り文句だ。しかたない、もともと網代紗夜香さんと僕とじゃ、釣り合わなかった。彼女も、僕を断る口実を見つけられて、さぞやほっとしたことだろう。
ああ、彼女と触れ合ったあのつかの間の時間は、まさしく天国だった。だけど、今の僕の心境は、地獄そのものだ。
だって、さっき回ってきた出動要請のターゲットの顔写真が、忘れもしない、僕が一目惚れした彼女その人だったのだから。
書類の写真を見るなりいきなり頭を抱えて机に突っ伏した僕から、主任が先週の動物園デートの話を聞き出したのが、ついさっきのこと。そして今、僕は無粋で失礼な主任にニヤニヤ笑われているわけだ。
いつまでも突っ伏して職務放棄しているわけにはいかないので、僕はしぶしぶ顔を上げた。主任に目をやれば、ほら、やっぱり。黒いパンツスーツの足を組んで隣の机に行儀悪く腰掛け、ショートカットがサマになる綺麗な小顔で、僕を見下ろしながらニヤニヤしている。
「討伐対象の吸血鬼に失恋済みとはねぇ」
「どうりで、やたら魅力的なわけですよ……。吸血鬼なら納得です……」
「君がフラれたのは、吸血鬼狩り専門の警察官だと気づかれたからだね。銀の匂いが染み付いちゃってるんだろうな。君のほうこそ、相手が吸血鬼だと気づかなかったのかい?」
「ぜんぜん気づきませんでしたよ……」
僕はすこぶる耳がいいので、その気になれば人の鼓動を聞き分けられる。つまり、鼓動がない吸血鬼のことも見抜ける、いや、聞き抜ける? とにかく判別できる。とはいえ、普段はそこまで聞き耳を立てていないし、あの日は、僕自身の鼓動がうるさすぎた。
今回、彼女が吸血鬼だと判明したのは、隠密調査員がバーで彼女の唾液の採取に成功したからだ。そして、人の世に紛れる吸血鬼がいるとわかったからには、僕たち警察官は彼女を狩らねばならない。
「だいたい、どういう奇跡ですか、吸血鬼と吸血鬼ハンターのお見合いマッチングって」
僕が愚痴ると、主任がニヤリと笑う。あ、いやな感じ。
「最近の男性不審死の調査対象に、もともと彼女が含まれていてね。で、ちょうどいい接触ポイントに君がいた、というわけだ。君が尻尾を掴んでくれればその日のうちにカタがつくだろう、ということで、相談所に働きかけてマッチングしてもらった」
「ひ、ひどい、僕の婚活心を弄んだ……っ!」
「なんだ、婚活心って。ほら、以前にも婚活パーティーで獲物漁りしてた吸血鬼がいただろ? あれ以来、上層部も婚活現場に着目しててね。私としても、不埒な吸血鬼どもを炙り出すための猟犬として、君にはとうぶん婚活しててほしいと思っているよ」
「とうぶんなんて、いやですよ。さっさといい人を見つけて、家庭を持って安らぎたいんです」
「家庭を持ったところで、この仕事をしている限り、安らぎとは無縁だねぇ。ほら、立ちたまえ、わざわざ君を指名した出動要請だぞ」
「失恋相手を狩らせるなんて、僕に対して無慈悲すぎやしません?」
「君に尻尾を掴ませなかったぐらい強力な吸血鬼だとしたら、命を賭けたお見合いの相手が務まるのは、この部署じゃ君だけ、ということだよ。今回は、私もサポートに入る」
最後の一言で、急に身が引き締まった。主任まで駆り出されるなんて、そうとう戦い慣れた吸血鬼ってことだ。
「この任務が終わったら、辞表出しますからね!」
「ああ、ぜひとも無事に終わらせて、元気な辞表を見せてくれたまえ」
黒いスーツをピシッと着こなして警察手帳を見せると、話が早くなるので助かる。やっぱり、見た目と権威は大事だ。とくに、僕のような、相手を怯ませる顔面を持っているともなれば。
「ああ、毎回ツレが違うのに、初めて来た、みたいな反応をしてるあの女の子ね。さっきドームに入っていったのを見たよ」
僕と主任は、対象の吸血鬼を追って例の動物園に来ていた。彼女はまたしても婚活デート中で、またしても花と鳥のドームに相手を連れ込んでいるらしい。まさか本当に羽毛アレルギーチェックをしているわけでもないだろうに。そろそろ職員さんたちに顔を覚えられているんじゃないだろうか……と思ったら、案の定だった。
「そういえば、イカす傷の兄さん、こないだあの子と一緒に来てなかったっけ? 君もなんらかの被害者かい?」
……僕まで覚えられていた。たしかに、鼻の上を通って顔を真一文字に横断する爪痕は、よく目立つ。吸血鬼相手に不覚をとった若かりし日の自分が恨めしい。
職員専用の裏口からドームに入れてもらい、生い茂る葉の陰から彼女の姿を探す。主任はキョロキョロしているけれど、僕は耳を澄ます。深く――深く、聴覚の奥底へ。ドーム内に反響する鳥たちの声。人間たちの歓声。おしゃべりの声。葉が騒ぐ音。空調の風のざわめき。そして、生き物たちの小さな鼓動。呼吸音――会話やささやかな動作音が伴っているはずの、命の音がない、そんな違和感の出どころを探る。
「あ、いましたよ、フクロウの止まり木のそばです」
「ここからじゃよく見えないのに、本当に猟犬並みに鼻が利くね、君は」
「鼻ではないですけどね……」
主任が葉の陰からざっと立ち上がる。僕もそれに続く。
「では、あとは手筈通りに」
僕たちは顔を見合わせ、頷きあった。
主任が彼女の連れに話しかけて気を引いている間に、僕は背後から彼女に話しかけた。
「場所を移しましょう」
目を丸くしている彼女に、すかさず提案する。
「あなたとしても、そのほうがいいでしょう。お連れのかたに正体を知られたくないのなら」
「そうね」
僕が現れたことで、これからなにが起こるのかを察したのだろう、彼女はすぐに、ふふっと魅力的な――さらに言えば挑発的な微笑を浮かべた。
「ここで大立ち回りをして、出禁になったら悲しいものね」
彼女はすんなりと僕の手招きに応じてくれた。連れが主任と話しこんでいる間に、二人でこっそり裏口からドームを出る。
と思ったら、彼女は外に出るなりぴょんと跳び上がった。吸血鬼は身軽だ、あれよあれよという間にドームの壁面を駆け上り、姿が見えなくなってしまう。
ひょっとして、逃げたつもりだろうか。でも、僕だって、吸血鬼を相手取るために血反吐をはくほど鍛錬を重ねた警察官だ。見くびらないでほしい。彼女の後を追ってドームの壁面を駆け上るぐらいのことは、簡単にできる。
一息でかるがるドームのガラス屋根へと上りきると、少し離れたところから、彼女が呆れ顔で僕を見つめていた。
「驚いた、あなた、ずいぶん身軽なのね」
「いえ、どちらかといえば重いほうです。これでも、鍛えているので」
「細身に見えるけど、案外パワータイプってことかしら。やあね、筋肉質の血は好みじゃないのに」
逃げるのは諦めたらしい。彼女はずかずかと僕に近づいてきた。
ドームといっても、天井は平らで、ガラス屋根を支える鉄の骨組みもある。そして、人目はない。厄介な羽毛もない。吸血鬼と戦うには、うってつけの場所だ。もともとここに誘導するつもりだったから、彼女がすすんで上ってくれたのは、ラッキーだった。
「ね、今日は見逃してくれない? 私、この動物園、壊したくないの。すごく気に入ってるのよ。花も鳥も色鮮やかで、まるで、行けもしない天国みたいだから」
「天国なら、僕がちゃんと本物を見せてあげますよ」
近づく彼女を制するように、スーツの襟を開き、裏地から手のひらサイズの十字架を抜き取る。銀製の十字架の先端は尖り、杭になっている。十字架の頭を握れば、形はほぼ短剣だ。
「あなたが、天国に? つまり、血を吸わせてくれるってことかしら?」
彼女はあの魅力的な表情で、ふふっと笑った。
「だって、吸血鬼は死んだら地獄に落ちちゃうんでしょ?」
「そんなことはないと思いますよ」
それは吸血鬼を悪魔とみなす特定の宗教が言い出したことで、吸血鬼も人間も動物も、死んだらどこに行くかなんて、本当はわからない。
「ところで、最初にお聞きしておきたいのですが」
杭を逆手に構え、彼女との間合いを計る。彼女はまだ爪を見せていない。
「本物の網代紗夜香さんはどちらに?」
「あら、彼女なら、とっくの昔に土の中よ。しわしわのお婆さんになって、ね」
「それは、老衰で寿命をまっとうした、という意味ではなく?」
「吸い尽くしてやったに決まってるでしょ。なかなかの美味だったわ。たまには女の子もいいものね」
「それを聞いて安心しました」
「え?」
「遠慮なくあなたを天国に送れます」
僕はほんの一瞬で距離を詰めた。体を倒す力をそのまま移動のエネルギーに変えた、縮地。彼女の懐に入り込むなり、体当たりの力を乗せて、心臓の位置に銀の杭を打ち込む――はずが、彼女はそうそう簡単には終わらせてくれなかった。素早く避けた彼女に杭は空振りして、僕は前のめりにバランスを崩した。慌ててしゃがみ込むと、吸血鬼の鋭い爪が髪をかすめとった気配を感じた。
僕はしゃがみ込んだ勢いで彼女の足元まで前転し、跳躍を誘う。彼女が僕を避けて跳んだ隙にさっと立ち上がって、体勢を立て直す。
「驚いた。私と同じぐらいに素早いのね」
「僕も驚きました。僕と同じぐらいに素早いんですね」
最初の対峙からそっくり入れ替わった立ち位置で、僕たちは睨み合う。
僕は並の吸血鬼よりは素早い自信があったから、素早さが互角ということは、彼女はかなり強い部類に入る。主任の言うとおりだ。こんな面倒な相手、他の同僚には任せられない。
吸血鬼の武器は、俊敏な身のこなしと、あの長くて鋭い爪。車を簡単にへし折るほどの怪力。そして、多少のダメージならものともしない回復力。決着をつけるなら、一瞬で決定的なダメージを叩き込まなければならない。それも、あの俊敏でパワフルな爪を掻い潜って。
彼女の隙を生み出さなければ、僕に勝ち目はない。素早さは互角。パワーも今のところは互角。打ち合いの体力勝負になれば、無尽蔵のスタミナを持つ吸血鬼が有利。武器のリーチでも、吸血鬼が有利。五分五分どころか、九対一ぐらいで、僕には分がない。
とはいえ、まったく勝算がないわけではない。なにしろ、今日の僕には主任がついている。
かすかなワイヤーの音を耳に入れながら、僕はおもむろに足の位置を入れ替える。彼女を中心にして、円を描くようにゆっくりと周囲を回る。彼女は僕から目を離すまいとして、体の向きごと僕を追う。
かすかなワイヤーの音が止まる。僕は一気に攻勢をしかける。彼女に飛びかかって、そのまま杭と爪の打ち合いになる。短い杭一本で両手ぶんの爪を捌くのは厳しいので、スーツ内に仕込んだ籠手の出番だ。両腕を使えるなら、爪あしらいには自信がある。彼女は思うように僕を捉えられず、少しムキになっている。いいぞ、その調子。ワイヤー音はふたたび唸っている。僕はスタミナの消費も気にせず、鉄骨の上でステップを踏みながら、彼女を誘い続ける。
ギリリ、と弦を引き絞る音が聞こえる。主任が愛用している、大型の弩の音だ。
吸血鬼は、まだ気づかない。
元隠密調査員だった主任は、吸血鬼に対して気配を消すのがうまい。ワイヤーを使ってドームの端に上がって来た主任は、さらにワイヤーで愛用の弩を引き上げると、そこそこ離れた場所から吸血鬼の背後を狙って、矢を放とうとしている。
僕は吸血鬼の注意を引きつけ、向きを誘導し、主任を視界に入れないようにする役割。戦闘に夢中にさせ、主任の気配に気づかせない役割。
そして、もうひとつの役割は――
僕は吸血鬼の爪を弾いた隙に主任へと視線を向け、大きく頷いた。
その合図で、吸血鬼はようやく、弩を構えた主任に気づいた。
「挟み撃ちってこと!? 甘いわね!」
間髪入れず弩から放たれた矢を、吸血鬼が反射的な動きではたき落とす。
それが僕たちの狙いだった。
木の矢にくくりつけられていた風呂敷がほどけ、中身がぶわっと周囲に飛び散った。
彼女の足元にぼとぼとと落ちる、色とりどりの花。ドーム内で咲き誇っていた、美しい花たちだ。
「え、なんで!?」
彼女が一瞬目を見ひらいた、その隙を見逃さない。
縮地で彼女の懐へ。体重を乗せて、まっすぐに。
彼女の心臓の位置に、杭を打ち込む。深く、深く。僕のありったけの想いをこめて。
「受け取れ。結城くんから君へ、天国への餞だそうだ」
遠くから、主任の声が遅れて聞こえる。
吸血鬼にとどめを刺すのも、僕の役割だ。主任はあくまでもサポートで、戦闘員ではないから。まあ、弩を持たせたら腕前はピカイチなんだけど。
「そん、な……」
彼女にぴたりとくっついた体を通して、呻き声が僕に響く。
とっさに僕へ突き立てようとしていたのだろう、長い爪が、かき抱くように僕のスーツの背中を切り裂いていた。僕の両脇から、スーツの生地が、死者の腕のようにだらりと垂れ下がった。
彼女の形をした灰が、輪郭をとどめきれずにさらさらと崩れ落ちていく。足元に咲いていた鮮やかな色たちが、またたくまに灰に埋もれていく。僕のスーツの切れ端も埋もれていく。僕は杭を落とし、彼女を掬い上げるように、灰を手のひらに受け止めた。
ドーム内ではペンギンの徒競走がはじまったのか、真下から『天国と地獄』が聞こえてくる。まさに僕の心境だ。無事に吸血鬼を退治できた高揚と、一目惚れだった彼女を手にかけた消沈で、天国なんだか地獄なんだか、わけがわからなくなってしまう。この仕事は、いつもそう。相対する吸血鬼たちは美しく、魅力的だ。顔に傷を負った醜い僕とは正反対で、だからこそ、僕はいつも彼らに惹かれてしまう。
「灰の清掃業者には連絡済みだ。今回は花も片付けてもらわねばな。言われたとおり、生け垣で間引いたぶんをもらってきたが、君もなかなか粋なことをするねぇ」
主任が僕の背後に立った。ぜったい、ニヤニヤ顔で僕を見下ろしている。顔を見なくてもわかる。僕は主任を信頼しているから。
「で、怪我はないんだな?」
「ないです」
「擦り傷もか? 相変わらず、たいしたものだな。しかし君、戦闘のたびにスーツの背中を切り裂かれるのは、なんとかならないのかい? その背中のダメージが、相手の強さの指標にはなるが……」
「相手の懐に飛びこむのが僕の戦闘スタイルなので、スーツは必要な犠牲です。だいたい、なんで戦闘用の支給服がスーツなんです? 普通、もっと動きやすい服とか斬られにくい服とかあるでしょう。防刃シャツだけじゃ不安ですよ」
「上層部の調査によると、戦闘服萌えの吸血鬼より、スーツ萌えの吸血鬼のほうがだんぜん多いから。以上」
「僕のスーツは、そんな萌えのために毎回消費されていた……?」
「ま、いいじゃないか。君はスーツの着こなしがすこぶるいい。よく似合ってるよ。これからもぜひスーツを着こなし、婚活という名目で吸血鬼退治を頑張ってくれたまえ」
軽い調子で、ボロボロの背中を叩かれた。
「職場が地獄で上司が鬼です……」
僕はようやく手中の灰を振り落とした。『天国と地獄』が突き上げるように響くドームの上で、膝を抱えて丸くなる。今日はもう、後始末を全部主任に押し付けて直帰しちゃおうかな。いや、でも、まずは職場に帰って、やることがある。
「私からすれば、優秀で職務に忠実な君をこき使えるってだけで、天国みたいな環境なんだけどねぇ」
「宣言通り、帰ったら辞表を出しますからね」
「はいはい。今回も握りつぶしておくよ」
5/28/2024, 7:36:18 AM