sleeping_min

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【未来】

 俺たちに未来なんてない。どん詰まりだ。
 目の前のロックバンドが、そんな歌をがなりたてている。
「期待外れだったわね」
 ライラはつぶやき、手元のアルコールドリンクを一気に飲み干した。身を翻して、場末のクラブを出る。細い階段から地上に出ると、ほてった頬が、夜の風で急速に冷やされる。
 地下からはまだ轟音が響いている。ボーカルがひたすら同じフレーズを叫び続けている。まるで血を吐くように。
 珍しく生身の人間の歌声が聴けるクラブだというから来てみたけれど、ただありきたりの未来を歌うだけで、ライラにとってはつまらないものだった。ついでに、演奏も歌も下手くそで、ただうるさいだけだった。ライラのほうが上手に歌える。
 そんな拙いバンドでも、クラブはおおいに盛り上がっている。みんな騒音に酔って、今を忘れたいのだ。ライラだって、できればそうしたかった。
 音にも酒にも酔えず、ライラはまっとうな足取りで深夜の街を歩き出す。さて、次はどこへ行こう。ライラに家はない。街灯の消えた暗い道だけが、ライラの前に続いている。


 音楽界に初音ミクなる歌姫が颯爽とあらわれたとき、照月ライラの親はまだ小学生だった。彼は初音ミクの技術に未来を感じたという。人の声から取り出した音素を繋いで歌声を合成し、人間が歌えない歌すら歌えるようになった、未来の歌姫。だが、そんな“未来”も、とうに時間に追い越されてしまった。今は誰だって、初音ミクの力を借りずとも、好きな音声で歌を歌える。生成AIが急速に発達したおかげで、あらゆるクリエイティブは、人間の身体を必要としなくなった。
 最初はおぼつかない絵ばかり描いていたAIも、量子コンピュータという後ろ盾を得て、いまや絵どころか未来をも描くようになった。知ったかぶりの嘘ばかり返していたAIチャットプログラムは、いまや真実のみを正確に解答するようになった。
 そうしてAIが正確無比に描き出した人類の未来、それは約束された滅亡に向かって着々と歩むだけのものだった。枯渇する資源、変わりゆく気候、地殻変動と火山噴火による大災害、膨張を続ける太陽からの熱害。ありとあらゆる事象が、人類を無慈悲な滅びへと導いていた。
 人類はどん詰まりの未来に絶望した。〈絶望の世代〉――今を生きる若者たちは、そう呼称されている。未来に希望を見出せなくなった若者たちは、自暴自棄になって、生産的な職を放棄した。だが、そうした風潮は、絶望を若者たちに押し付けた上の世代にこそ、蔓延っていた。人類は老いも若きも未来に夢見ることをやめ、現在の楽しみだけを求める刹那主義に走った。
 もう〈絶望の世代〉の下に新たな子供たちが生まれることもないだろう。人類はほかのどんな要因でもなく、自らの足で滅亡へと突き進んでいる。ただ絶望という感情があるせいで。
 ふいにライラは足を止めた。どこかの酒場から、歌声が漏れている。初音ミクの歌だ。機械らしい細い音声が、夜道を照らすような明るい歌を歌っている。
 生誕から百年以上の時を経ても、この歌姫を愛好する者は少なからずいた。ときおり機械らしさが混ざる歌声にレトロ感があっていいのだそうだ。ライラはノイズ混じりの歌声に耳を澄ませた。知っている歌だ。初音ミクが生まれたてのころの、未来を歌う歌。こんなに懐かしい歌が、歌姫が、まだ愛されている。ああ、未来はここにある。終わってなんかいない。
 初音ミクの歌声に合わせて、ライラも口ずさむ。ライラは一度聞いたことがある歌なら、正確に再現できる。そういう機能を持っている。初音ミクとは違って、身体を持つ歌姫として創られた、受注生産型のアンドロイド。初音ミクに憧れた技術者から生まれた、“さらに未来の歌姫”だった。当時のアンドロイド技術のすべてが注ぎ込まれ、ほぼ人間と同じ思考回路を持ち、人間と同じ反応を返すところが売りだった。だが、ライラのタイプで生産は終了してしまった。現存する同じ“照月ライラ”たちも、ほとんど廃棄されたと、ネットワークの情報で知っている。自分もそろそろ機能停止が近いことを知っている。以前の持ち主はとうにライラの所有権を放棄している。いくらかのお金と一緒に、「自由になりなさい」そう言って送り出してくれたけど、彼女は自分の手でライラを廃棄処分したくなかっただけだ。どこか目に入らない場所でのたれ死んでくれ、と言われているも同然だった。
 足を止めたライラは、さらに声を張り上げて歌った。
 横の酒場の扉が開く。初音ミクの歌声が大きくなる。
「おい、あれ、ライラじゃね?」
「五十年ぐらい前の人形じゃん。まだ残ってたのかよ」
「もうボロボロだな」
「歌声も掠れててひでぇな」
 人間たちがわらわらと顔を出す。それを横目で見ながら、ライラは初音ミクの歌を歌い続けた。この歌だけで、アルコールドリンクの燃料は尽きようとしていた。だから、歌い切れば、それでおしまい。
 ライラには絶望という感情はプログラムされていない。産みの親がそうしなかったから。だからライラは己の終焉を前にしても絶望しない。代わりに、期待という感情はプログラムされている。ライラの瞳を輝かせるために。
 ライラは虚空の闇に瞳を輝かせて、未来への期待を歌う。ありもしない未来のために。そんな機械を創ったのは人間だ。初音ミクを創ったのが人間だったように。だから人間は、結局なにがあっても、未来に絶望しきることはできないのだろう。人類がみんなしてやさぐれているのは、本当はもっと生きたいからだ。でも、そんなこと、機械のライラの知ったことではない。ライラにとっての未来は、今、ここにあるのだから。
 未来へと希望を繋げる最後のフレーズを歌い切って、ライラは満足げに目を閉じた。そして、二度と動くことはなかった。


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私が一生推すと決めている女の子の1人が、初音ミクさんです。私にとっては、ミクさんは永遠に未来の象徴です。

6/18/2024, 5:23:44 AM