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6/26/2023, 7:11:37 AM

【繊細な花】

 お嬢様は心も体も、まるでガラス細工のように繊細なかたでございました。ふわりと広がる銀の髪に淡い銀の瞳、色素の薄い唇や肌。触れれば壊れそうなほどに細い四肢。
 そのお嬢様が咲かせた花は、まさにガラス細工のように繊細で、この世に二つとない、誰も知らぬ花でございました。
 わたくしは公爵家の専属医ですから、お嬢様の病については、後の人にも引き継げるよう、詳細な記録を残しております。
 狂い花の病――人体から花が咲きやがて死に至る奇病はかねてより知られておりましたが、お嬢様はこの病に罹り、わずか十九歳にして、花とともに命を落としたのでございます。
 狂花病は若い女性だけが罹る病で、恋心によって発症すると言われております。
 ああ、恋、そのような不健全な心の働きが、どうして人間に植え付けられているのでしょう。かつて人間を創りし神が、人体に施したこの理不尽なる心の不思議。古き時代の書物をあたると、恋はつがいを見つけるためのもの、と書かれておりますが、恋をしたからと言って、つがいになれるとは限りません。どうしてもつがいが欲しいときは、恋などせずとも、神殿の仲介でつがいになれましょう。そちらのほうが、理不尽な病に身を焦がすよりも、簡便で安全で確実、わたくしたちはそう学んでおります。
 恋は狂花病のほかにも、さまざまな病を呼び寄せます。それゆえ、わたくしたちの国では、はなから恋を禁じております。そもそも、恋自体が、ひとつの病でございますゆえ。
 かつては「恋につける薬はない」などと言われていたようですが、研究が進み、わたくしたちは恋の特効薬を得られるようになりました。たとえ恋心を生じたとしても、その薬を数日続けて飲めば、心は平静すっきり、恋の熱など冷めるようになっております。
 ですから、公爵家専属医として、わたくしはお嬢様の恋心にいち早く気づき、薬を処方すべきだったのです。手遅れになる前に、恋の病を消しておくべきだったのです。
 しかし、お嬢様はたいへん巧妙に恋心を隠しておられました。「消されたくなかったから」と。「あなたにそれを消されるなんて、私、耐えられないわ」と。
 ええ、その結果がこのような事態になっては、わたくしがなにを言ってもあとの祭り。お嬢様の恋心を見逃した専属医など、公爵様がお許しになるはずもございません。わたくしはこの命をもって、取り返しのつかぬ過ちをお詫びする所存でございます。


 お嬢様の恋のお相手がどなたかは、まだ知られておりません。公爵様は躍起になって探しておられますが、お嬢様のほうが一枚うわて、その恋心は、鍵のかかる日記にすら残されておりませんでした。
 公爵様はたいへんお嬢様を可愛がっていらっしゃいましたので、お嬢様がまだ歩けぬうちから、どんな殿方も近づくことを禁じておりました。二つ上や五つ上のご兄弟ですら、対面が叶わなかったそうです。公爵様の対策はいき過ぎの感もありますが、この国の男女はそうやって、若いうちは対面せぬように過ごしております。学校も生活も住む地区も、なにもかもが分たれております。二十歳になってようやく、男女が顔を合わせることが許されるのです。二十歳を越えれば、狂花病をはじめとした恋を主因とする病は、発症率が極めて低くなりますから。
 お嬢様は甚だ蒲柳の質でございまして、もともと、二十歳を越すのは難しいと言われておりました。師の引退と同時に専属医を引き継いでからの二年間、わたくしは毎日のようにお嬢様のご様子を伺い、咳の病なら咳に効く薬を、頭痛の病なら頭痛に効く薬を、熱の病なら熱に効く薬を処方しておりました。お嬢様はいつも脈が早く、熱っぽい日が続いていたのですが、いま思えばそれは、恋の病のせいだったのかもしれません。
 お嬢様は、体調のよろしいときでも自室のベッドに横たわり、運動をするということがありませんでした。ベッドで上半身だけを起こし、天蓋の隙間からベランダの外を眺めては、ただぼんやりと時を過ごしておられました。お嬢様の肌は日に当たるとかぶれるので、外に出られぬのは仕方のないことではありましたが、普段のご様子は、まるで、自らを檻に閉じ込めているかのようでありました。お嬢様には、生きる気力というものが見受けられなかったのでございます。
 師から引き継いだ話によれば、二十歳まで生きるのが難しい体と知ってから、お嬢様はずっとこのように動かず、まるでベッドに根を生やした植物のように過ごしていらっしゃったとのこと。繊細なお嬢様のこと、医師の宣告に絶望し、あらゆるものを諦めて、死を待つばかりのお心であったのだろうと、お察しいたします。
 ですから、お嬢様に花が咲いたとき、わたくしは――専属医としてはあるまじきことですが――喜ばしく思ったのです。ただ二十年を屍のように生きて朽ちるよりも、最期に溢れんばかりの花を咲かせて散っていくほうが、美しきお嬢様に相応しいと――そう思ってしまったのでございます。そのためならば、どうして恋を禁じることができましょうか。恋の病は、狂花病は、お嬢様に花を咲かせるために存在していたのではないかとすら思いました。
 とはいえ、お父君の公爵様は、恋を許しておりません。
 お嬢様に花を咲かせた犯人を探し出してどのようにするおつもりかと公爵様に問えば、「殺して娘と一緒に埋める」とのお怒りよう。いいえ、怒りではなく、公爵様なりの、お嬢様への愛でございましょう。憎き相手とお嬢様を一緒にするおつもりなのですから。
 しかし、犯人が見つかるはずもないのです。殿方を探しているあいだは。
 お嬢様のおそばには、過去から現在に至るまで、公爵様を除いて、女性しかいないのですから。


 お嬢様の発症は、十九歳の誕生日を迎えられて間もなくの、冬のことでございました。
 わたくしは一日の休暇をいただいて、つがい探しの申請のために故郷の神殿へと赴いておりました。二十五歳ともなれば、そろそろつがいが必要だろうと、公爵様に勧められたのでございます。
 夜半を過ぎて故郷の神殿から公爵邸へ戻ると、侍女長が青い顔で待っておりました。お嬢様が熱を出したとのこと。わたくしは外套を脱ぐことも忘れ、慌ててお嬢様のお部屋に駆けつけました。
 お嬢様は眠りに落ちることなく、わたくしを待っておりました。
「ああ、よかった、戻ってきてくれたのね」
 お嬢様はとても心細そうに声を震わせました。わたくしの掌を所望し、嬉しそうに頬を擦り寄せました。お嬢様の熱が、雪の降り始めた外から帰ってきたわたくしの指先を、じんわりと温めました。思っていたよりも熱が高かったので、わたくしは自室から薬箱を持ってくるよう、侍女に頼みました。
「神殿に行ったと聞いたわ。つがいは見つかりそう?」
「二、三日中には、とのことです」
「つがいになったら、あなたはここを辞めてしまうの?」
「いいえ、お嬢様。わたくしは引き継がせるべき弟子もまだとっておりませんし、出来うる限り長く公爵家にお勤めさせていただきたいと思っておりますよ」
 お嬢様の顔がぱっと輝きました。
「それならよかったわ。私、最後はあなたに看取ってもらいたいもの」
「そのようなことはおっしゃいませぬよう。お嬢様がその気になれば、しわしわのお婆様になるまで生きることもできましょう」
 お嬢様は首を横に振りました。
「私、そんなに長く生きたいとは思わないの。二十歳になれば、神殿代理の国王様の仲介で、つがいが決まるわ。その後はすぐ、知らない男の人の家で、飾られて過ごすことになるの。どうせ子供は産めないし、ここにいるのと、なにも変わらないわ」
 まるで熱に浮かされたかのように、その夜のお嬢様は饒舌でございました。
「私、男性とつがいになんかなりたくない。あなたがほかの人とつがいになるのも嫌。だから今日一日、とても苦しかったの。私、つがいになるならあなたがいい」
 そのときです、お嬢様の胸元から、溢れるように花が咲いたのは。
「ああ、とうとうあなたに知られてしまったわ」
 お嬢様は笑いました。その口元からも、花が溢れ落ちました。お嬢様そのもののような、透き通った花びらの、見知らぬ花でございました。
「これまで隠していたぶん、もう止まりそうにないわ」
 熱で潤んだ瞳が、わたくしを見あげました。
「あなたが好きなの。あなたがここに来た二年前から。いま思うと一目惚れだったんだわ。毎日、あなたのことを考えていたわ。どうやったらあなたにずっとそばにいてもらえるのか、あなたに私を見てもらえるのか、そんなことばかりを。私、自分が病弱で良かったと、いまは心から思ってるわ。だって、あなたにたくさん診てもらえるもの」
 お嬢様が喋るたびに、花が溢れます。燭台の光できらきら輝く花と、その花に縁取られたお嬢様をあまりの美しさに目を奪われて、わたくしは言葉を失っておりました。恋心を秘めれば秘めるほど美しく咲き乱れると言われる花の病。お嬢様が咲かせた花は、この世のどんな花よりも輝かしいものに思えました。
 そして、その花を咲かせたのは、わたくし――
「真っ直ぐに私を見てくれるあなたの黒い瞳が好き。ふとした拍子に微笑むあなたが好き。長い黒髪がふわりと揺れるのが好き。細くてひんやりした手が好き」
「おやめください、お嬢様、それ以上喋っては――」
「優しく、まるで壊れものを扱うかのように私の脈を測る手が好き。触れられるだけでドキドキしてしまうの。薬を水に溶くときの真剣な顔が好き。私のことをノートに記録するとき、ときどき遠くを見るような目をしてペンをくるりと回すその仕草が好き。あの目でなにを考えているの? いつもどんなことを考えてるの? もっとあなたのことを知りたい」
 お嬢様のベッドは、夥しいほどの花で埋まりました。こんなに一気に花を溢すのは、好ましくない事態です。お嬢様の体力では、あっという間に命が尽きてしまいます。
「いけません、お嬢様。いまはお眠りください。わたくしがついておりますから」
 来るべきお嬢様の死に恐怖すると同時に、わたくしの目はずっと花に惹きつけられてやまなかったことを、ここに正直に告白いたします。わたくしはきっと、心のどこかでその花を欲していたのでしょう。たとえ、お嬢様の命と引き換えであっても。いいえ、お嬢様の命と引き換えだからこそ。
 絹を裂くような悲鳴が耳を打ち、わたくしはようやく我に返りました。
 振り返ると、真っ青な顔で震える侍女がいました。足元に薬箱が落ち、薬包が散乱しています。
 お嬢様はすでに、花の中で深い眠りに落ちていました。
「公爵様と奥様、それからご兄弟の皆様をお呼びください」
 侍女に告げたわたくしの声は、細く掠れておりました。


 狂花病発症から五日、お嬢様はときどき目を覚ましてはゆるゆると花を溢し、花とともに終わることの幸福をわたくしたちに告げながら、やがて静かに息を引き取ったのでございます。
 公爵家が所有する広い丘の中央に、お嬢様は埋葬されました。そう、わたくしがいま目指している丘でございます。
 わたくしはお嬢様の墓の前で自害をする予定でした。公爵家の皆様はお嬢様を除いて全員健康体でいらっしゃいますし、男性の専属医もおりますから、しばらく女性専属医がいなくても大丈夫でございましょう。わたくしの想いは、すでに遺書としてノートに書き残しておきました。神殿のつがい仲介も断りました。後ろ髪を引かれるようなことは、もうなにもございません。
 ちらちらと雪が舞う中、うっすら白くなった丘を、一歩一歩を踏みしめて登ります。ふと、爪先に落ちた雪に違和感を覚え、立ち止まりました。
 私の足元から、花が溢れていました。雪のように透き通った、美しい花が。
 恋が伝染するという報告はしばしば耳にしますが、狂花病が伝染した例は、これまで聞いたことがございません。では、ここにある花はいったいなんでしょうか。わたくしの胸は高鳴りました。と、同時に、胸元からぽろぽろと花が溢れ落ちました。
 口元から自然と笑みが、いえ、花が溢れました。――ああ、なんという幸福でしょう、お嬢様と同じ花が、わたくしの体に咲くなんて。
 互いに女性なればこそでしょうか、お嬢様の狂花病が、わたくしにも伝染していたのです。わたくしは狂花病の発症期を過ぎていましたが、二十歳を越えても発症の可能性が極めて低いというだけであって、完全に発症しないというわけではありません。むしろ、こうなることを望んでいたからこそ、自ら因子を呼び起こしたのでしょう。この日、このときのために。
 歩みを再開し、雪の中に花を溢しながらお墓の前に辿り着くと、そこにはすでに、一輪の花が咲いておりました。花の周りだけ、不思議と雪が溶けています。透き通る花弁が風に揺らされ、しゃらしゃらと繊細な音を奏でます。
 まるで、お嬢様の笑い声のように。
 もしかして、わたくしを待っていてくださったのでしょうか。高鳴る鼓動とともに胸から大量の花を溢し、わたくしはお墓の前に跪きました。手を伸ばし、そっとお嬢様の花に触れます。
――温かい。
 ガラスのような涼やかな見た目に反し、その花は熱を持っていました。雪に冷えていた指先が、じんわりと温もりを取り戻していきます。手に頬を擦り寄せるお嬢様を思い出して、目から花が溢れました。
 ああ、お嬢様、いまならわかります。お嬢様はこんなにも優しく、繊細な恋心を抱いていらっしゃったのですね。
 わたくしの一挙手一投足を見つめ、わたくしとともに過ごす時間を密やかに喜びながら、決して誰にも気づかれぬよう胸底に想いを秘め、夜毎にその想いを取り出しては、微熱とともに大切に育てていた――最後の最後に、そっとわたくしに耳打ちする日だけを夢見て。あの運命の日よりもずっと前に、お嬢様の花は育ちきっていたのですね。
 お嬢様、わたくしも、いつしか花を育てておりました。初めてあなたにお会いしたとき、折れそうな首筋に、哀しげなその瞳に、心を掴まれておりました。熱に苦しんでわたくしを頼るあなたに応えるほど、熱に潤んだ瞳を見つめれば見つめるほど、愛しさは募りました。あなたの腕にそっと触れて脈を測る静かなひとときに、幸福を覚えておりました。
 あなたに花を咲かせたのが、ほかの誰でもない、わたくしでよかった。わたくしはずっと、あなたの花を欲していました。なんの目的もなく、ただ公爵様の愛によってのみ生かされているあなたが、ご自身の意志で、力で、この世に産み出すことのできる唯一のもの。もしそれがこの世に降臨したならば、どんなふうに花開くのか、そんな考えに捉われておりました。そのために、お嬢様の目を惹きつけようと、立ち振る舞っておりました。できることならわたくしに恋をして欲しいと、そんな願いを秘めておりました。
 お嬢様、わたくしたちは、二人で一つの花を育てていたのですね。
 わたくしの告白とともに花はとめどなく溢れ、お嬢様のお墓を取り巻きました。丘は一面の雪の代わりに、一面の花で埋まりました。
 わたくしはお嬢様の花を胸の内側に囲うようにして、横たわりました。自害用に持ってきた短剣は、結局不要なものでした。
 お嬢様の花と、この身から溢れ出る花を抱いて、わたくしはお嬢様と一緒になりましょう。――ああ、恋、この不健全にして理不尽な心の働きが、わたくしたち二人を引き合わせてくれたのです。今生でつがいになるよりも深く、美しく、永遠に、わたくしたちは結ばれることでしょう。
 耳元でしゃらしゃらとお嬢様の笑い声が聞こえます。お嬢様の温もりがわたくしを包みます。愛しき人とともにある幸福に抱かれて、わたくしは深い眠りに落ちました。
 
 ※ ※ ※

 公爵家の若き専属医が行方不明になってからほどなく、公爵令嬢の墓で驚くべき発見がありました。
 墓を戴く丘が、花畑になっていたのです。ガラス細工のように繊細な花が、一面に咲き乱れていました。透明な花びらが、太陽の光をきらきらと弾いています。風が吹き抜けるたび、誇らしげに、しゃらしゃらと音を鳴らします。
 公爵令嬢の花でした。狂花病の花が土に定着したのは、これがはじめてのことです。花の存在はすぐに多くの人々に知れ渡り、研究せんと欲する医師たちが、公爵家に押し寄せました。
 しかし、公爵は花畑の丘を頑丈な檻で囲い、人の侵入を拒みました。愛娘の花が誰かに摘まれたり踏み荒らされたりすることを、許しませんでした。
 そんな親心を知ってか知らずしてか、花は実を結びました。種は風に乗って檻をすり抜け、世界中に広がりました。
 やがて公爵家が滅びたあとも、国が滅びたあとも、花は各地で咲き栄えました。
 それがいま、あなた様の目の前にある、美しくもありふれた、しかし不思議な花の由来です。季節を問わず咲き、繊細な見た目と微かな熱を持つこの花の名は、「恋心」狂花病が撲滅され、恋の自由があるこの時代にあって、花の伝説を信じるか信じないかは、あなた様のお心に委ねましょう。


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〈書く習慣〉で書いたお話はこれで30本、当初の目標を達成しました。
苦手な短編の練習用にとはじめた〈書く習慣〉でしたが、30本コツコツと続けられたのは、これまでいただいた「いいね」のおかげです。♡のひとつひとつにやる気を支えられてきました。ありがとうございます。

1本書くたびに学ぶことが多く、実りある練習になりました。未熟な点もいくつか浮き彫りになりましたが、それらを克服しながら、たくさんの楽しい物語を作っていけるように精進していこうと思います。
最終目標は、300字以内でも楽しめるような物語を書くことです。

今後は他の原稿に注力するため、12月上旬まで長いおやすみに入ります。
ただ、面白そうなお題に出くわしたときは、息抜きも兼ねてごく短いものを投下するかもしれません。
そのときにまた出会えましたら嬉しいです。
お話を読んでくださり、ありがとうございました。

6/23/2023, 4:38:01 AM

【日常】リライト2023/06/25

※ 構成を見直し、後半だけ書き直しました。ネタばらしを一番最後に持っていきました。

 日常というものは、いったい何日続けば日常と見做されるのだろう。
 たとえ非日常な日々であっても、何度も繰り返されれば、それが日常になるのだろうか。
 最初、私は――いや、私と大学の友人たちは、非日常を求めていた。だから二泊三日のささやかな夏休み旅行を計画したのだ。宿泊先は某避暑地、自然あふれるログハウス風の高級貸別荘。六人で泊まれる広さで、なんと、プールと露天風呂が付いている。うだるような都会の夏の日常を離れ、爽やかな非日常を味わうには、もってこいの場所だった。
 一日目、昼食後に大学前で待ち合わせをして、友人の車二台に分かれて出発した。サービスエリアで休憩したり運転を交代したりなどのイベントを挟みつつ、三時間ほどで貸別荘に着いた。さっそく、持ち寄った肉でバーベキュー大会。満腹になったあとは、露天風呂を満喫。全員女子だから、気兼ねなく私たちだけで風呂を独占できた。
 二日目は、食パンとバーベキューの残り物でサンドイッチの朝食を作った。デザートは有名店のフルーツジャムを垂らしたヨーグルト。ジャムは友人の持ち込みだ。その後は水着に着替えてプールですこし遊んだ。昼にはプールから上がり、車で雰囲気のいいレストランに出かけた。ついでに近くの観光名所をいくつか回った。夕飯の材料を買い込んで貸別荘に戻り、みんなでカレーを作った。深夜まで酒を飲みながら、露天風呂や星空観察を楽しんだ。
 三日目のことは、知らない。
 私は今日も残り物サンドイッチとフルーツジャムのヨーグルトで朝食を摂った。その後は水着に着替えてプールに飛び込んだ。今は友人が運転する車に揺られている。これから行くレストランのメニューは、すっかり頭に入っている。流れる景色をぼんやり見つめながら、今日はどれを頼もうか、などと考えている。
 この〝今日〟がいったい何度目の〝二日目〟になるのか――そんなことは、もう考えたくなかった。
 私は今、非日常が日常化したループの中にいる。

 古今東西のループものを思い返すと、たいてい主人公だけが記憶を保持している。となれば、このループものの主人公は私だろう。延々と続く〝二日目〟の記憶をすべて保持しているのだから。そして、友人たちがループしていないのは確認済みだ。「ループ? そんなわけないでしょ」「そういう夢を見たってこと?」「SF本読みすぎ!」みんなは朗らかに私の相談を笑い飛ばした。
 ループものなら、ループから抜け出すためのきっかけがあるはずだ。救えなかった人を救うとか、心残りに気づいて解消するとか、主人公が成長して悔い改めるとか、ループを作っている原因を排除するとか。
 友人は全員ぴんぴんしているので、〝救えなかった人〟はいない。解消すべき心残りも未練ない。この素敵な旅行が終わってほしくない、なんていう未練は、二回目のループの時点で消え失せた。いまは心残りどころか、この贅沢な日常に辟易している。
 ループを作っている外的な原因があるとしても、さっぱりわからない。もしや土着の超常現象に巻き込まれたのではないかと考え、友人と別行動をして、民俗学的な伝承の調査に明け暮れた日々もあった。――とくになにもなかった。この土地でループを示唆するような記録はなく、そういったことを起こしそうな怪異の伝承もなかった。
 となれば、必要なのは私の成長か。あるいは悔恨か。自分はこれまで真人間のつもりでやってきた。犯罪に手を染めたことはないし、誰かの強い恨みを買った覚えもない。なにかを悔い改める必要はないはずだ。しかし、本人がそう思い込んでるだけで、じつは極悪人ということもあり得る。私は覚悟を決め、酒の力も借りて友人たちに自分のダメなところ、反省すべき点を伺った。友人たちも酒が入り、遠慮のない口を利ける状態だったが、みんな「えー、そんなこと気にする? 本当に真面目だなぁ」「あえて言うなら、堅物? 真面目すぎ?」「もっと気楽でいいのに」「冗談がよくわからないとかあるけど、やだなーとか思ったことないよ」「むしろあたしらの中で一番大人だよね」「礼儀正しいし、見習うとこいっぱいあるしで、尊敬してるよ」などとありがたい言葉ばかりで、私を悪く言う子はいなかった。いろんな意味で泣けた。
 その後もループ打開のために様々なことを試した。寝ないで翌日を待つとか、失踪を装って宿に帰らず自宅に帰るとか。しかし、どれもだめだった。真夜中の三時を過ぎれば、勝手に意識が落ちてしまう。目覚めれば、いつもの辟易とする天井だ。
 いよいよ追い詰められて、私は最悪のパターンを想定した。すなわち、抜け出すきっかけなどない無限地獄。肉体は毎日若返っているので、寿命による死は訪れない。となれば、ここから脱出するためには、もう、自死しかないのでは――そんな考えが付き纏い始めていた。
 もっと最悪なのは、死んでもまた生き返ってループするパターンだ。それに気づいてしまったときの絶望はいかばかりか。抜けだすこともできなければ、死ぬこともできない。ただただこの非日常な旅行を日常として繰り返すだけの存在。いったいなにがいけなかったのか、どこで間違えたのか、そんな苦しみに苛まれながら生かされ続ける日々。考えただけで、気が狂いそうになる。
 しかし、もう他の方法を思いつけない。私の死――その実験ですべてを終わりにできる可能性があるなら、この命と引き換えでも試してみる価値はある。
 約四百回目のループを数えたあたりで、私は覚悟を決めた。プールで泳いだあと、腹痛の仮病を使って、一人だけ貸別荘に残った。台所から包丁を拝借し、庭に出た。部屋を汚したくなかったので、死ぬのは外、と決めていた。震えて動かない手と数分格闘し、とうとう、首を切った。不思議なことに、痛みは感じなかった。これまで身をすくませていた死の恐怖も、同時に断ち切れたように思った。手を、首を、胸元を濡らす生温かさに、体全体を包まれるような安心感を覚えた。ああ、これでやっと、解放される――意識は眠るように途切れた。


 目覚めて真っ先に視界に入ったのは、飽きるほど見知った天井だった。
 私は深く絶望した。
 死は救いではなかったのだ。私は生き返り、またこうして別荘での非日常な日常を始めようとしている。
 あまりのことに手先が冷えていくのを感じながら呆然と天井を見つめていたら、同室の友人の様子がおかしいことに気づいた。毎朝、七時きっかりの目覚ましで起きて「おはよう! よく寝たね!」と明るい声とともにベランダのカーテンを開ける彼女が、さっき目覚ましを瞬殺したと思ったら、またベッドに逆戻りしている。
「うう、飲みすぎちゃったー。水、とってー」
 隣のベッドからくぐもった声が聞こえてくる。
 そんなに飲むようなことがあっただろうか? はるか過去の思い出になった旅行一日目の記憶を引っ張り出す。BBQは楽しくて、たしかにビールが進んだが、彼女はそこまで飲んでいなかったはずだ。翌日があるからと、みんなで飲みすぎないようにセーブしていた。
――まさか。
 彼女にペットボトルを渡したあと、私は急いでスマホを確認した。嫌になるほど見た数字の並びが、ひとつだけズレていた。
 旅行の三日目に。
――抜け出せた!?
 では、昨日はどうなった? 私が死んで、騒ぎになったはずだ。でも、私は生きている。しかも、お酒の感覚が体に残っている。私が〝二日目〟の夜に酒を飲んだのは、初回と二回目のループ、それから、一回ヤケになって倒れるまで飲んだ日ぐらいなのに。
――もしかして、最初の〝二日目〟の続き?
 私は膝から床に崩れ落ちた。
「えっ、大丈夫? もしかして、二人揃って二日酔い? これは他のみんなもヤバそうだな……」
 ループ脱出のきっかけは、私の死で正解だった。なぜ私が死ぬ必要があったのかわからないが、とにかくこれで、抜け出せたのだ。こんなことなら、もっと早く死んでおけばよかった――いや、これは本来ならよくない考えだ。死を成功体験として記憶してしまったら、今後、なにかあったときにたやすく死にかねない。でも、次に同じようなことがあれば、私はきっと、早く楽になる道を選ぶだろう。
 その後は二日酔いの友人を看病しつつ、元気なメンバーで残りのカレーで朝食を摂り、荷物をまとめ、管理会社にチェックアウトの連絡をした。そしてついに、私の牢獄と化していた貸別荘をあとにした。
 アルコール分解済みの元気なメンバーが車を運転して、アウトレットモールや土産屋などを回り、夕方、とうとう大学の前に帰ってきた。
 推定四百日ぶりに見る大学の門が、こんなに胸を打つものだとは、思わなかった。
「え、めっちゃ泣いてる」
「そんなに楽しかった? わかるけど!」
「ねー、離れがたいよねー。また行こうよ、このメンバーで!」
 なにも知らずに私を取り囲む友人たちの優しさが、さらに涙を誘う。
 でも、いつまでも泣いているわけにはいかない。私は急いで涙を拭い、友人たちへ、旅行のお礼を述べた。
「ほんと楽しかったよねー!」
「写真アップしとくから!」
「次会えるの、休み明けだね!」
「またねー!」
 手を振りあい、それぞれ帰宅する方向へと、足を踏み出す。
 やっと、もとの日常に戻るときが来た。
 だけど、ここに来る前、自分はどんな日常を過ごしていたんだっけ。もはや思い出せない。そもそも、自分に日常なんてものがあっただろうか。
 解散場所から、数歩離れる。振り返ると、友人の車はなく、徒歩の友人たちの姿もなかった。帰る方向が同じ友人も、隣を歩いていたはずなのに、消えていた。
――あ、役目が終わったんだ。
 そう気付いた瞬間に、私の存在も、そこで途切れた。

 ※ ※ ※

「どうですか、安藤さん、平成レトロな大学生の夏を追体験! プール・露天風呂付きログハウスで、友人たちと充実した非日常を楽しんじゃおう! 味覚完全再現付き! の仕上がりは」
「そんなテンションでタイトル全部読みあげないでくださいよ、開発番号で言ってください」
 通信を繋げたデバイスの前で、安藤は苦笑した。
「今ちょうどテスト完了したところです」
 安藤はバーチャル旅行会社にリモートで勤めているプログラマーだ。会社が販売しているシミュレーション型旅行パックのプログラミングを担当している。AIで構成したリアルな旅行体験が好評で、会社の業績は順調に上がっている。
「前回のエラーは、他のところに入るはずのループ処理が二日目全体にかかっちゃってたせいです。それ以外では問題なくテスト完了できました」
「安藤さんにしては珍しい、初歩的なミスでしたね」
「デスマだったんで……。無理だっつーのに急がせやがって。まずは人手増やせや」
「はは、素の言葉が出てますよ。急な発注五個、一気に仕上げてくれて助かりました」
「しかしAIとはいえ、テスト用の仮想人格には可哀想なことをしました」
 先ほどループエラーが出た旅行パックは、平成レトロブームに乗っかって開発された、昔懐かしい旅行プランを再現するもの。ターゲット層は、平成時代に大学生だった四十代から六十代。自由設定の友人AIを最大五人まで追加できて、大学生に戻った気分で旅行を楽しめる。レトロなガソリン自動車の運転も体験できる。
「でもおかげで、今後同様のことがあったら最速でエラー吐くようにAIの調整ができましたから。今度同人格使うとき、役に立つと思います」
「ありがとうございます。それじゃ、あとはマネージャーに回しておきますね。お疲れさまでした」
「はいどうもお疲れさまでした。……さて、今日は閉店! 夕飯作ろ」
 通信機のマイクを切って、デバイスの画面も閉じ、安藤は大きく伸びをした。そして、彼の日常を再開した。


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“書く習慣”で書いたお話は、本にまとめて来年の文学フリマ等で販売する予定ですが、本にはリライト版を載せる予定です。
それはさておき、いつもいいねをありがとうございます。たいへん励みになります。
(2023/06/25)

ループものって難しいですね!
土日は書く習慣おやすみします。
(2023/06/24)

6/22/2023, 6:51:46 AM

【好きな色】

「お好きな色って、ありますか?」
「え、いきなり色の質問……? ええと、ぼくは緑ですねぇ。植物の緑に囲まれると、癒されます。こう見えて、アウトドア派なんですよ」

「お好きな色って、ありますか?」
「紫かな。紫の似合う美しい女性に、つい目を奪われてしまうんですよ。あなたのような」

「お好きな色って、ありますか?」
「白。どんな色にも染まる、あるいはどんな色にも染まらない。そういう柔軟性と強さを兼ね備えているところがいいよね」

「お好きな色って、ありますか?」
「#d3d3d3、これ一択ですよ。淡い灰色を表す色コードなんですけどね、目に優しくてボクのエディタの背景ぜんぶこれっていうか、デュフ、この色に設定できないエディタはぜんぶゴミと思ってるんですけどね(以下略)」

「……あの女性、前回もいましたよね。また全員に好きな色を尋ねて回ってますよ」
「こうなると婚活パーティー荒らしだね。彼女が来るとあの容姿で人気一強になるから、ほかの女性陣が気の毒だよ」
 ホールスタッフと司会の会話が、僕の耳に入ってくる。
「前回マッチングしたはずなのに、うまくいかなかったんでしょうか」
「前回は渋々選んだ感じだったからなぁ。きっと、彼女にとって正解の色があるんだろうね。それを答える人じゃないと嫌、みたいな……」
「条件が緩いんだか厳しいんだか……。今日こそ、彼女のハートを射止められる男性が見つかるといいですね」

「お好きな色って、ありますか?」
「えっ、好きな色ですか。赤、かな……?」
 その答えを聞いた瞬間、彼女の目の色が変わった。
「どういった赤がお好きですか?」
「どういった赤……? えーと、強くて、情熱的な赤が好きですね。あと、夕焼けの赤もいいですよね。そうそう、絶景夕焼けスポットがあるので、こんど一緒に見に行きませんか?」
「……いえ、けっこうです」
 彼女はとても残念そうに首を振った。

 そしてついに、僕の前に彼女がやってきた。
「お好きな色って、ありますか?」
「ダントツ赤ですね」
 僕が答えると、ふたたび彼女の目の色が変わった。文字通り、黒から、赤へ。ほんの一瞬の出来事だったけれど。
「どういった赤がお好きですか?」
「まるで血のような赤です。深紅というか、濃いめで、色気のある赤が好きですね」
 後半は、ちらりと見えた彼女の目の色を、そのまま答えた。
 いきなりがしっと両手を握られた。白魚のような彼女の両手の中に、僕の両手がある。思わず顔がかっと熱くなる。
「私もです! 私もそういう赤が好きなんです! あなたのようなかたを探していました! マッチングには、ぜひ私の番号を書いてください!」
「え、あ、はい……?」
 まさかこんなにも簡単に、彼女に気に入ってもらえるなんて。拍子抜けだ。
 ホール内のスタッフ全員、いや、参加者までもが、僕たちを見てざわめいている。
 彼女は入場時から、男性陣の注目の的だった。紫色のすらりとしたワンピースで妖艶な肢体を惜しげもなく晒し、ちょっとした仕草にまで洗練された美しさを見せる。そういうところが魅力的というか、蠱惑的すぎる。そしてなにより、顔がいい。
 顔に醜い傷痕がある僕では、あまりにも月とスッポン。だけど、彼女は僕の傷を見て引かなかったし、「その傷は?」なんて尋ねもしなかった。醜い容姿も、危険の多い警察官という職業も、どうでもいいらしい。スタッフたちの会話通り、好きな色の一致、それだけが、彼女をときめかせる理想の条件だったようだ。
「ぼ、僕でよろしければ……」
「もちろん! あなたがいいんです!」
 彼女と過ごすこれからの時間を考えて、僕の心臓はどくんと大きく波打った。握りしめられた両手は、緊張のせいで冷たくなっていた。


「お時間あれば、どこかに寄りませんか?」
 無事マッチングを果たし、僕と彼女は二人で会場を出た。あからさまにほっとした顔のスタッフが、祝福の言葉とともに見送ってくれた。
「僕としては、人目につきにくい……いえ、あまり騒がしくなくて、落ち着いたところがいいな、と思ってるんですが」
 近くにいい場所がないかと、スマホの地図アプリを開く。こんなことなら、いい感じのスポットを事前にチェックしておけばよかった。
「それなら、ホテルに行きませんか?」
「……は?」
 耳元で囁かれた言葉に、スマホを取り落としかける。
 そ、それはもちろん、望むところではありますけど……!
 さては美人局か、裏に誰かいるのか、という思考が一瞬脳裏をかすめる。だが、美人局をする女性がわざわざ〝好きな色〟という条件でマッチング相手を探すだろうか。普通は、もっと男性を引っ掛けやすい条件を出すはずだ。「赤」が好きな男性はけっこういるけど、それは戦隊モノの主人公の影響で、きっぱりした情熱的な赤をイメージしての「好き」だ。わざわざ「血のような赤が好き」と言い出す男性なんて、中学生男子ぐらいだろう。あとは、吸血鬼。
「えっと……あ、いや……そりゃ、僕はかまいませんけどね? いいんですか?」
「ええ、もちろん」
 彼女はにっこりと胡散臭い笑顔を作って、僕の腕に細腕を絡ませた。そしてその十分後、僕たちはラブホテルのベッドの前に立っていた。
「ま、まずは……シャワーを……」
 こういった場に慣れていない僕は、しどろもどろで形式的に促す。しかし、彼女はすがるような妖艶な目つきで、僕の首に腕を回してきた。
「わかるでしょ? いますぐあなたが欲しいの」
 彼女が寄りかかってくる力のままに、ベッドへと押し倒される。
「あなたの、血が」
 彼女の目の色が変わった瞬間を見逃さなかった。
 首に突き刺さりそうだった牙を、手の甲で弾く。正確には、手の甲で彼女の顎を撃ち上げ、同時にもう片方の掌底で彼女の鳩尾を押しのけて、力任せに引き剥がした。
「ど、どうして……」
 僕が身を起こすと、彼女は顎と鳩尾を押さえ、ひどく傷ついた顔でよろめいていた。
「あなたも吸血鬼でしょ? 私、あなたの眷属になると言っているのよ? 前の主はとっくの昔に死んだわ。主が死ぬと眷属も弱るって知ってるでしょ? 私、同族の血を取り込まないと、もうすぐ死んじゃうのよ?」
 紅い目を潤ませて懇願してくる。くらり、と理性が傾きそうになる。
「……吸血鬼って、みなさんすごく綺麗じゃないですか。で、僕の顔を見てくださいよ。吸血鬼に見えます? 治癒力の高い吸血鬼が、顔に傷痕を残します?」
「変装じゃないの? 慎重な仲間なら、そうやって吸血鬼じゃないように見せかけるでしょ」
「あいにく、僕は純粋なる人間で、この傷は本物です」
 僕はベッドから離れ、彼女と間合いをとった。
「あなたが同族の匂いも銀の匂いもわからないぐらい弱ってることはわかりました。でも、どんな哀れな吸血鬼であろうと、これは僕の仕事なので」
 スーツを開き、生地の裏から手のひらサイズの十字架を抜き取る。十字架の先端は尖り、杭になっている。素材はもちろん銀だ。匂いで吸血鬼にバレないようコーティングされてるけど、敏感な吸血鬼にはすぐ気づかれてしまう。
「……あっ、警察官って……そういうこと……」
 そう、吸血鬼退治専門の下っ端警察官だ。今日は非番で、ガチで婚活パーティーに参加してたんだけどな。見つけちゃったら、おびき寄せて退治するしかない。
「というか、なんで婚活パーティーに参加してたんです? そんなところに男性吸血鬼がいるわけないでしょう」
「えっ、そ、そうなの? 男性の吸血鬼って、いつも女性を探してるから、こういうところにいるかと思って……。マッチングアプリとかと並行して探してたのに……」
 彼女は恥ずかしそうに頬を染め、おろおろと目線を外した。
 まさか、その蠱惑的な見た目で、中身は天然なのか? ギャップがすぎる。吸血鬼の好きな色は血の赤、と思い込んでる時点で、彼女のピュアさは感じていたけど。僕の中の理性がくらくらと揺れる。
 彼女の態度に翻弄されて、僕に隙が生まれた。
「ふふっ、油断したわね!」
 吸血鬼特有の長い爪が鼻先を掠める。戦闘慣れした身体が無意識にのけ反ってなかったら、また顔に傷を作られるところだった。
 のけ反りざま、背後に両手を突いてバク転の勢いで彼女を蹴り飛ばす。
 こうなると思って、いちばん広い部屋を選んでおいてよかった。
 彼女の軽い体は吹っ飛んで、壁にぶつかった。しかし、さすがは吸血鬼。ダメージなどなかったかのようにすぐさま体勢を立て直し、また飛びかかってくる。僕はまだ床に手と膝をついたまま、立ち上がりもしていないのに。
「あんたが人間ならただの餌よ! 大人しく吸われてちょうだい!」
「えっ、やだよ」
 思わず素の声が出た。
 同時に、下からの回し蹴りで彼女の足を払う。立ち上がっていなかったのは、彼女の次の攻撃を誘うための罠だ。僕に被さるように転倒しかけた彼女の顎を、十字架を握り締めたアッパーでぶち上げる。
「……くっ」
 彼女は頭を押さえて、膝をついた。吸血鬼にも脳震盪はあるらしい。一瞬だったけれど。
 僕がゆっくり立ち上がると、彼女もすかさず立ち上がり、さっと間合いをとった。一筋縄ではいかないと察したのだろう。それはそう、ぱっと見は細身で小柄な僕だって、血反吐はきながら格闘技の訓練を受けた、プロの警察官なんだから。
「前回のパーティーでマッチングした人も、アプリでマッチングした人も、そうやって吸っちゃったんですか?」
 僕が一歩踏み出すと、彼女は一歩下がった。
「当然よ、干からびるまで吸い尽くしてやったわ!」
「うわ、ここ最近の男性の失踪事件の犯人、見つけちゃったかも……」
 彼女の家を捜索したら、何体かミイラが見つかるかもしれない。あとで婚活パーティーの主催から彼女の情報を聞き出さなくちゃ。
 僕がもう一歩踏み出すと、彼女はさらに一歩下がった。
「ちなみに、これまで殺した人数は?」
 さらに一歩。
「数え切れるわけないでしょ」
 さらに一歩。彼女は壁際に追い詰められた。それ以上近づくなと言わんばかりに、長い爪を構える。
「それを聞けてよかった、危うくあなたに求婚するところでした」
「え、きゅうこ――」
 彼女が目を泳がせた一瞬を見逃さなかった。僕は縮地で彼女の懐に飛び込んだ。身を低くして爪を掻い潜りつつ、体当たりの勢いで、まっすぐに杭を打ち込む。
 吸血鬼の心臓に。
 とっさに僕の背へ突き立てようとしていた爪が、両腕とともに、だらりと落ちる。爪の先端は僕のスーツを引き裂いていた。
「ちなみに、僕が本当に好きな色は、銀です。職業柄、ね」
 杭の先が心臓を仕留める手応えは、何度経験しても慣れるものじゃない。だけどこの杭がなければ、吸血鬼と対等に戦うことはできない。僕の命綱だ。好き、というよりは、依存してるのかもしれない。
「でも、あなたが着ていた紫色も、けっこう……」
 杭を握りしめた両手を包むように、灰がさらさらと崩れていく。紫色のワンピースごと。
 相手が吸血鬼じゃなかったら、と何度思ったことか。何度、彼らの美貌に惑わされたことか。そして、何度裏切られたことか。
 吸血鬼が人間を餌として見ている限り、僕たちが相容れることはないのに。
 彼女がすべて灰になったのを確認し、提携先の清掃業者に電話をかけた。いつも通り、灰の片付けを依頼する。
 洗面所に行き、手に残った灰を洗い落とす。目を上げると、醜い傷痕が鏡に映る。
「……あーあー……へこむなぁ……」
 洗面台の下にへなへなとしゃがみ込む。
 清掃の人を待つ間に報告書作らなきゃ。主任にはまたからかわれるんだろうな。「非番でも吸血鬼をほっとけないなんて、君はほんっと真面目ちゃんだねぇ」って。
 だって、彼らはあまりにも美しすぎる。ほうっておけなくなるほど。
「非番のときってスーツ代申請できたっけ……? 次の婚活パーティーも、申し込まなくちゃな……」
 もしまた弱った吸血鬼が潜り込んでいて、その美しい唇と蠱惑的な瞳で好きな色を尋ねてきても、二度と「血のような赤」なんて答えない。僕は心に誓った。

6/20/2023, 6:58:21 AM

【相合傘】

「体育館で跳ねるボール。目玉がギョロリと動く美術室のアポロン像。家庭科室で飛び回る包丁。廊下をうろつく人体模型。勝手に曲を奏でる音楽室のピアノ。一段増えて十三段になる屋上への階段。……現在集まっている情報は、以上です」
 部室の黒板に箇条書きをしていた女子が、チョークを置いて振り向く。ついでに眼鏡をくいっと上げる。
「うーん、どれもありきたりで、ぱっとしないわね……」
 新聞部部長の河合菜奈は、パイプ椅子にもたれて腕を組んだ。
「しかも、七不思議には一個足りねぇし……」
 河合の隣で、同じように腕を組んだ副部長の相原浩也が唸る。
 夏休み前に発刊する夏季号で、学校の七不思議を特集しよう――先週の会議でそう決まったところまではよかった。しかしこの学校、設立からまだ四年と歴史が浅く、七不思議のネタがない。手当たりしだい生徒たちに聞き込みをして集めた結果が、たった六つの、どこの学校でもありそうな、手垢のついた怪談だ。
 新聞部の狭い部室では、河合と相原のほかに、六名の部員たちも唸っていた。
「ほぼ真夜中に勝手に動くタイプで、ネタ被りも甚だしいし……」
「夜中になると部屋から出てきてこっそり台所漁る引きこもりのうちの兄みたいな生活してるわよね、怪談って」
「おいそれ以上はやめておけ」
「真夜中勝手に動くシリーズなら、二宮金次郎像が校庭百周する、とかどうでしょう?」
「うちの学校にそんな像はないし、絵面がもはやギャグ漫画なんよ」
「薪背負った金次郎ちゃんに百周もさせるとか、鬼畜の所業では?」
「そうだそうだ、怪談になんの恨みがあるってんだー」
「そもそも、歩きスマホならぬ走り読書は、危険行為ですよ」
「そもそも、じゃねーよ、そもそもなんで金次郎を走らせることになってんだよ」
 部員たちはめいめい好き勝手なことを口にして、話がいっこうにまとまらない。河合はべつの話題を投げることにした。
「そういえば、鉄板のトイレネタはないの? うちにもいるでしょ、花子さんの一人や二人」
「うーん、一人ぐらいなら、うちの学校に移住してくれる可能性もなきにしもあらず、ですが……」
「目撃談、ないんだよなぁ」
「うちの学校のトイレ、毎日お掃除のかたが入るから、白くてピカピカですもんね。花子さん好みの住環境ではないでしょう」
「花子さんすら駆逐される時代か……」
 河合は頭を抱えた。
「もう、いい感じのトイレネタをでっち上げるしかなくね?」
「いや、それは記者として恥ずべき行いだから」
「さすが部長、そういうのは厳しいな」
「トイレなら、ひとつだけ心当たりがあります」
 長机の端で手を挙げた者へ、いっせいに視線が集まる。さきほど板書していた眼鏡女子だ。二年生の太田春子、字が綺麗なので、会議の書記を任されている。
「なになに、聞かせて!」
 河合は目を輝かせて身を乗り出した。
「では、女子トイレの相合傘について、お話しますね」
 新聞部全員の耳目を集め、太田は静かに語り出した。


 三階の女子トイレの一番奥の個室には、ときどき相合傘の落書きがあらわれる。
 最初は、学年で人気のイケメン男子と、同学年の女子だった。ハートで飾られた相合傘の記号とともに、二人のフルネームが書かれていた。
 人気のイケメン男子と付き合いはじめた女子生徒の浮かれたマウンティングか、はたまた叶わぬ恋を落書きで慰めたものか。あるいはほかの生徒による悪戯か。
「部長はどれだと思います?」
「え? そうね……浮かれ女子はいちいちトイレみたいな辛気臭い場所には書かないでしょ。書くなら黒板の隅とか机とか窓でしょ。叶わぬ恋なら、よけい、どこにも書かないでしょ。人に見つかってからかわれたらおしまいだもの。だから、悪戯かな?」
「ご明察。そうです、名前を書かれた女子には心当たりがなく、相合傘は悪戯だったようです」
 人気イケメン男子と並んで名前を書かれた女子生徒は、落書きが見つかったその日のうちに噂になった。翌日、トイレの落書きは消えていた。渦中の女子生徒が消したのかもしれない。鉛筆書きだったので、消しやすかったようだ。
「いや、普通に考えて、掃除の業者さんが仕事してくれただけじゃね?」
「人気イケメン男子を好きなほかの子が、嫉妬に狂って消した可能性も」
「どれでもいいから、まずはハルちゃんの話を聞きましょうよ」
 相合傘の効果は、噂の三日後にあらわれた。名前を書かれた女子が、人気イケメン男子と本当に付き合い出したのだ。
「あっ、お互い意識しちゃったやつだ」
「もうそれ悪戯じゃなくて、やんちゃな恋のキューピッドなんよ」
「さすがイケメンは手が早い……」
「でも、七不思議って言うからには、めでたしめでたし、にはならないんでしょ?」
「ええ、ここからが本題です」
 太田はくいっと眼鏡を上げる。
 しばらくして、例の個室に、再び相合傘の落書きがあらわれた。人気イケメン男子の名前と、その彼女ではない別の女子生徒の名前が書かれていた。女子生徒の名前はすぐ噂になって出回った。落書きが消えた翌日、人気イケメン男子は、新しい噂の女子と付き合い始めた。
「……待って。それ、たんに男の子側が移り気なタイプってことはない?」
「噂になるとすぐ、『もしかしてあの子俺のこと好き?』って気になっちゃうやつかー」
「それでお付き合いにもってけるの、さすがイケメンよね。っていうか、前の子はどうしたのよ、前の子は」
「あっ、ここからが怪談というわけね。続けて、ハルちゃん」
 人気イケメン男子を新たな彼女に奪われた最初の女子生徒は、あっさり諦めたという。彼の美しさは私には荷が重すぎた、推しが一瞬付き合ってくれただけでも人生幸せだった、これからはこの思い出を胸に強く生きていく、と。
「よく訓練されたファンね……」
「もはや洗脳なんよ」
「顔さえよければ女の子傷つけても許されてしまうの怖いよね、という現代の怪談か?」
 その後、人気イケメン男子とは関係のない、違う男女の組み合わせの相合傘があらわれた。それも翌日には消されたが、噂になった二人は交際に発展した。そんなことが数回続いたので、三階の女子トイレの一番奥は「誰かに鉛筆で相合傘を書いてもらってから消すとお付き合いができる個室」として、二年生の一部で密かに流行っている――
「いや、怪談じゃねーじゃねーか!」
「ただの恋愛成就パワースポットだった」
「そこは怖い話期待しちゃうだろ! トイレなんだから!」
 騒ぐ新聞部員たちの前で、太田は冷静にくいっと眼鏡を上げた。
「非科学的なことも、不思議のひとつ。七不思議のすべてが怪談である必要はないでしょう」
「たしかに……」
「それもそうかも……」
 部長の河合と副部長の相原が、そろって納得しそうになっている。
「ちなみに人気イケメン男子のその後ですが、一ヶ月後に五股が発覚し、全員からビンタを食らっていました。ついでに、最初の子からも、推し降り宣言とともにグーで殴られていました。彼女と付き合った時点で三股してたそうで」
「ただのクソ野郎だった」
「民法七三二条の敵じゃん」
「やはりそやつの存在こそが怪談か……」
「見てきたように言うけど、ハルちゃん、もしかして」
「ええ、うちのクラスのことです」
「今度そいつ取材させて?」
 河合が目を輝かせて長机に身を乗り出す。
「おまえ、イケメンに興味あんのかよ」
 横から相原の茶々が入る。
「カオには興味ないわよ。クズ野郎の生態と恋愛遍歴に興味あるだけよ」
「しかし、ゴミ野郎が五股かけていたとなると、相合傘のおまじない効果も怪しいものですね」
「相合傘からすれば、付き合うのがゴールかもしれない」
「少年漫画脳か」
「こういうのって、相合い傘自体に効果があるわけじゃなくて、噂をたてて、お互いを意識させるための儀式ってことでしょう」
「落書きを消す、までが儀式のサイクルに入っているのは、トイレの美観を損ねず合理的だよね」
「でも、不思議だなぁ。付き合ってないうちからヘンな噂立ったら、逆にぎくしゃくしそうなものだけど」
「どのカップルもすんなり付き合ってるのは、相合傘のおまじないがそういう効果のものだと思い込んでるからじゃないかな?」
「最初のイケメンがすんなり付き合いましたからね。しかも二回、立て続けに」
「なるほど。五股野郎もたまにはいい仕事するな」
「もともと噂になるような間柄じゃないと、誰かに相合傘描かれたりしませんよね。だから、勝算の高いカップルばかり描かれて、そのままくっついたんでしょう」
「嫌がらせで、眼中にもない男と相合傘される可能性もあるけどね。ほかの男性とくっつけて恋のライバル蹴落とすとか」
「そういうのもありそうだし、実際の成婚率は七割程度じゃないかな。噂に尾鰭がつくには充分だろ」
「しかも、五股野郎のように、すぐ別れることもできますからね。お試し感覚で付き合ってみようかな、という気になりやすいのでは?」
「わかるー。私も、もしフリーな人の名前書かれたら、試しにちょっと付き合ってみようかなってなるー」
「つまり、相合傘の話は不思議でもなんでもなく、ただのスリーセット効果やウィンザー効果やピグマリオン効果を掛け合わせたものだった、と……」
「待って部長、急によくわからない専門用語出てきた」
「気にしないで。それっぽいこと適当に言ってるだけだから」
「相原、私の台詞を勝手に取るな」
 河合が睨むと、相原は肩をすくめてぺろりと舌を出した。
 ふふっ、と、なぜか太田が笑う。
「部長と副部長、ほんと仲良いですね」
「ハルちゃん、それは誤解だからね?」
「で、どうする? ハルちゃんの話、怪談じゃないし不思議が解かれちゃったけど、七不思議に加える?」
「ほかにネタもないし、いんじゃないかな」
「うん。推測だけで結論を作るのは記者としてよくないし、ほかの七不思議と同様、ちゃんと取材もしておこう。五股野郎も混ぜて」
「夏まで、まだ時間ありますからね」
「というわけで、特集の具体的な内容が決まりました。本日は解散!」


 翌日の始業前、太田春子がトイレの個室から出ると、河合菜奈が腕組みをして待ち構えていた。
「あっ……」
 太田が出たばかりの個室に、河合がズカズカと入っていく。そして、壁の一角に目をとめる。
「ハルちゃんの字、綺麗だからわかりやすいよね」
「…………」
 太田はうつむく。
 河合はポケットから消しゴムを取り出し、すぐに落書きを消した。
「私と相原、そんなにくっつけたかったの?」
「だって、先輩お二人とも、仲いいじゃないですか。早くくっついていただかないと、見ているこっちが焦れったいんです!」
「男女の仲良しが恋愛とは限らないし、私は外野を楽しませるために恋愛するつもりもないわよ……」
 河合は大きく溜息をついた。
「ハルちゃんが昨日の話のあとからソワソワしてたから、もしや、と思って早めに学校来て、尾けさせてもらったの。噂になる前に消せてよかった」
「もしかして部長、相合傘のこと、ちょっとは信じてます?」
「相合傘関係なく、噂になったらいたたまれないってことよ。なにも私たちのために、こんなおまじないでっち上げなくても」
「でっち上げじゃないです。本当ですよ」
 河合を見上げた太田が、眼鏡の奥でニヤリとした笑みを見せた。
「だって私、友達に書いてもらって、彼氏、できましたから」


「私と相原とかありえんし。からかわれて今のいい感じの関係崩れたらどうしてくれんのよ。向こうがその気になるわけないじゃん。あいつ校外に彼女いるんだってば。こちとらすでに玉砕済みなのよ」
 むくれながら三年の教室に戻ろうとする河合を、呼び止める者があった。
 新聞部副部長、隣のクラスの相原浩也だ。
「おはよ。今日はいつにもまして不機嫌そうだな」
「私がいつも不機嫌そうな風評被害」
「あのさ、河合、俺ら高三だから、この夏で部活終わるよな」
「そうよ。夏季号で最後になるから、書きたい記事があったら、今のうちに申請してね」
「申請っつーか、伝えておきたいことがあるんだけど。今日の昼休み、時間ある?」
 耳元を赤く染め、照れたような笑みを浮かべて視線を逸らす相原を、河合は目を丸くして、まじまじと見上げた。
「……ひとつ聞いておきたいんだけど」
「な、なに?」
「相合傘に関する最新の噂、聞いたことある?」
「いや、ないけど? なんかあったん? あ、昼は取材?」
「……なんでもない。昼、空いてるよ」


 夏休み前に新聞部から発刊された夏季号の特集は、『学校の七不思議』だった。段が増えるという噂の階段の検証や、飛び回る包丁の危険性が真面目に説かれる中、三階女子トイレの相合傘の話は、ただの子供騙しのおまじないとして、ひっそりと書かれていた。記者の名前は、「河合」。
 記事の最後にはこう書かれていた。「人の心をおまじないで無理矢理変えたところで、恋は長続きしない。そんな暇があったら、いい記事書けるように己を磨いたほうがよっぽどまし!」


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ホラーを書いてみたかったのですが、一度も書いたことがなかったので無理でしたね……。
明日はおやすみします。

6/19/2023, 7:46:50 AM

【落下】

「生まれ落ちる、って言うじゃん。だからあたしの人生、落下から始まって落下で終わるんだよ。ずっと落ち続けてるみたいで、かっこいいじゃん」
 そう言って彼女がやすやすとフェンスを乗り越えたので、わたしはとっさに翼を広げて、彼女の体を宙に攫った。
 中学校の屋上から、まっすぐ上を目指して、力強く羽ばたく。
「……えぇ……」
 ある程度飛翔したところで、彼女の口からため息が漏れて聞こえた。
「あたしを止めに来たクラスメイトがまさか鳥人間だとは思わないじゃん?」
「鳥人間じゃないです、天使です」
「天使ってほんとにいるんだ?」
「人口一万人につき一人、配備されています」
「レアキャラじゃん。クラスメイトの女子が天使な確率、レアすぎるじゃん」
「ちなみに天使なので、性別はありません。似合うほうの制服を選んだだけです」
「あ、それでやたらとぺたん……なんでもない」
 翼に煽られて、わたしたちのセーラー服の襟が、そろって翻る。
「あたしを助けたのは、天使の仕事の一環?」
「いいえ。わたしたち天使の仕事は、人間の世界を記録することだけ。個人に深入りはしません」
「じゃあ、なんで助けたのさ」
「たまたま、クラスメイトだったので」
 彼女を助けた経緯を告げることに、わたしは不思議な気恥ずかしさを覚えていた。
「ずっと、君を目で追っていました。君がボロボロの体引きずって、屋上に上っていくのを、見てしまったので」
「ストーカーじゃん」
「ストーカーじゃないです、天使です」
「ところで高度ヤバくね? 落ちたらマジヤバなんですけど」
「落ちようとしていた人がそれを言いますか」
 彼女の不安が少しでもでもやわらぐようにと、抱き締める腕に、力をこめる。
「わたしの翼が人目につくと面倒なので、垂直に飛んだだけです。寒さも空気も、わたしが放つ光の中にいれば大丈夫です。怪我も治ってきたはずです」
「あ、そういや、蹴られたり切られたりしたとこ、もう痛くないや」
 会話しているあいだにも、わたしたちはぐんぐん上昇していく。中学校はもはや豆粒だ。すがすがしいほどの晴れ日でよかった。地球の丸みがよく見える。
 どうしてこんな高みまで飛んできたのか、自分でもよくわからない。彼女に地球を見せたかったから? 彼女を地球から攫ってしまいたかったから?
「このまま太陽に近づくと落ちるやつじゃん」
「わたしはイカロスじゃないです、天使です」
 天使の翼は太陽の熱でも溶けないが、腕の中の温もりに、心が蕩けそうになる。
 人間に深入りしない、というのがわたしたち天使の掟なのに、それを破ってしまったのは、きっと、彼女をこの腕で抱き締めたかったからだ。彼女の命があるうちに、その温もりを感じたかったからだ。
 彼女の纏う血が、泥が、わたしのセーラー服を汚している。それさえも、わたしが彼女を助けた記録の大切な証に思えて、なんだか嬉しい。
 教室の片隅で、彼女はいつも汚れていた。泥まみれだったりゴミまみれだったり。顔には痣が絶えなかった。机もロッカーも、落書きだらけだった。
 平凡な人間たちが群れる教室で、彼女だけが特別な存在に思えた。記録を続けるうちに気になり、いつしか目で追うようになった。
 深入りしてはならないという戒めが、かえって、わたしの中の彼女の存在を深めていった。彼女を追っていた目は、彼女から離せぬ目になった。
 彼女は今日も、同じクラスの男女グループに蹴られていた。カッターで足や腕を切られていた。よくない言葉で罵られていた。人間たちのそうした行動を自動的にストレージへと記録しながら、わたしは彼女の美しさに目を奪われていた。
 幼い人間たちが笑いながら去ったあと、血の混じった唾をぺっと吐き出し、「臆病者どもが」とつぶやく彼女は、世界に一人だけの、特別な輝きを持った人間に見えた。足を引き擦りながらも屋上を目指して階段を上っていくときの、迷いのない一歩一歩が、高みに向かう聖者のように見えた。
 ああ、だからわたしはこんな成層圏の高みまで、彼女を連れてきたのだ。
 胸の昂ぶりとともに体が上昇してまうほど、わたしは彼女が好きだ。人間で言うところの、恋をしている。
「……いや落下してんじゃん」
 気づけば自由落下が始まっていた。成層圏に滞在していたのはほんのつかの間、また対流圏に逆戻りだ。
「恋に落ちた天使は、翼を失う、という決まりがあるのです」
 わたしが彼女に向ける目はずっと変わっていないから、恋の自覚が、翼を失うトリガーだったのだろう。
「それってもしかして、あたしがあんたの太陽ってこと?」
「そうですね」
「あはは、いいじゃん、悪くないね」
 嬉しそうな声が、耳をくすぐる。
 わたしを抱き返す彼女の腕に、力がこもる。
 心はかつてなく高く舞い上がった。
 悪くない、と言ってくれるのが嬉しい。
 彼女と抱き合っていられるのが嬉しい。
 わたしの翼を捥いだのが、彼女で嬉しい。
 彼女と一緒に落ちていけるのが、嬉しい。
 耳元で風が高く唸る。わたしたち二人、もつれ合い、絡まり合うようにして、風とともに落下していく。音速の勢いだ。このまま地球に激突すれば、わたしたちの体はきっと、一つになれる。性別のないわたしの体でも、彼女と混ざり合うことができる。
「万有引力ってこういうことかー。マジまっすぐ落ちんじゃん! あと超寒い!」
 彼女の声が、風の隙間を縫って聞こえる。翼が消えたせいで、わたしたちの周囲を守っていた天使の光は薄れつつあった。
「林檎じゃなくて、自分の体で実感することになるとはねー。こんな体験、レアすぎんじゃん!」
 彼女がとても楽しそうに笑うので、わたしも釣られて笑った。
「あっ、能面ちゃんが笑ったとこ、初めて見たかも」
「能面ちゃん?」
「あんた、裏でそう呼ばれてるよ。ずっと表情変わんないから」
「人間を記録するのに、表情は無用ですから」
「いや、人間のいろんなことを記録したいなら、もっと表情出して、人と交流したほうがよくね? あたしが言うことじゃないけど」
「なるほど、そういうものですか。しかし、本日をもって、わたしはお役御免になりました。もはや、わたし自身が無用の存在ですので」
 わたしたちを守っていた光が、完全に消えた。代わりに、身を切るような寒さが、わたしたちを包む。
 ヒュッと、彼女の喉が息を吸い込む音。
 地上まであと一キロ。いよいよだ、そう思ったとき、ふいに落下のスピードが緩んだ。
「あたし、魔法使いでさ」
 腕の中で、彼女がぼそりとつぶやいた。
「二万人につき一人しか生まれない、超レアキャラなんだよね」
 彼女が国認定の魔法使いであることは、クラスメイトたちの噂で聞いていた。だけど、彼女が魔法を使ったところを見るのは、これが初めてだ。
「小学校のときは、周りからチヤホヤされてたんだけど、中学校に入って、思春期の都合とかで力出なくなっちゃってさ。あたしに力がないって知ったら、みんなの態度がだんだん変わってってさ。親まであたしを避けるようになってさ」
 わたしたちの落下スピードは、宙を漂う羽根のように遅くなっていた。
「嘘つき、とか、詐欺師、とかよく言われたけど、違うんだよ。あたしが詐欺ってたかなんて、みんな、どうでもいいんだ。あいつら、魔法使いを気味悪がってるだけなんだよ」
 泡を扱うようなふんわりとした柔らかさで、わたしたちは降ろされた。
 もとの中学校の屋上へ。
「あたしがここから飛び降りようと思ったのはさ、」
 放課後の校庭は人影がまばらで、騒ぐ者はいない。わたしたちの姿は、誰にも見られていない。まるで、世界に二人きりで取り残されたような気分になる。
「あいつらに蹴られる程度じゃ、力は再覚醒しなかったからさ。もっと確実な死の淵に立てば、ぎりぎりで魔法の力が戻るんじゃないかって、試したんだ。力が戻らなければそこでおしまい。でも覚醒できたら、あいつら見返してやろ、って思ってさ」
 彼女もわたしも、まだ互いを抱き締めたままだった。彼女の体は、微かに震えている。
 ……ああ、彼女と混ざり合うことはできなかった。それならせめて、ずっとこの時間が続けばいいのに。
「飛ぶのがあたし一人だったら、楽になっておしまいだったと思う。力が戻ったのは、あんたを死なせたくなかったからかも」
 わたしの背に回った腕に、力がこもる。温かな手のひらが、翼の消えたあたりを、優しく撫でる。
「一緒に飛んでくれて、あんがとね」
 耳元の囁きに、目眩のような熱さを覚えた。この瞬間を記録に残せないことを、心底残念に思う。
 舞い上がるような幸福感はほんのつかの間で、彼女は逃げるように腕をほどいた。
 ズタズタに切り刻まれたスカートをはたき、立ち上がる。そして、彼女は再び、フェンスへと歩み寄った。彼女の温もりが、指先から離れていく。
「ところで、あんな高度から落下体験したの、十億人に一人ぐらいの超々々レアキャラじゃね?」
 歪んだフェンスを掴み、空を見上げて、彼女は誇らしげに笑った。
「ちなみに天使は五人につき三人、翼を失うそうです。だからわたしはありふれたキャラですね」
 わたしも立ち上がって、彼女に並んだ。
「天使ってそんなチョロく恋に落ちるもんなの」
「人間のそばで仕事をしていれば、否が応でも」
「それもう、恋活しに来てるのと変わんないじゃん」
「言われてみれば」
 彼女の視線が、なにかに気づいたようにふっと地上へ落とされた。
「せっかく魔法の力戻ってきたんだし、明日からあいつらボコしてやろっかなー。見て見ぬふりが上手な先公どもも一緒にな」
「魔法使いがそういうことに力を使うと、一般人よりも刑罰が重いんでしたっけ。たとえ十五歳でも」
「そ。だからあいつら、どのみち力なんて使えないだろうって、あたしのこと見くびってんだよ」
 身を返し、フェンスにもたれかかり、彼女はもう一度空を見上げた。
「ま、あんな高さから落ちりゃ、これ以上落ちるのはもうこりごりだな」
 痣だらけの顔が、ニヤリと笑った。
「さっきの落下体験のおかげで、引力コントロールのコツ掴めたしさ、昔より楽に飛べるようになったんだよね。となると、逃げるのは簡単じゃん?」
 きらきらと輝く瞳が、わたしを捉えた。
「あんたとなら、どこまでも飛べそうな気がする。つまり、あたしら最強コンビじゃん? 超々々レアキャラ同士だし」
 傷だらけの腕が、わたしに向かって伸びてくる。
「また、一緒に飛ぼ」
 そうして、わたしたちは再び屋上のフェンスを乗り越えた。

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