【落下】
「生まれ落ちる、って言うじゃん。だからあたしの人生、落下から始まって落下で終わるんだよ。ずっと落ち続けてるみたいで、かっこいいじゃん」
そう言って彼女がやすやすとフェンスを乗り越えたので、わたしはとっさに翼を広げて、彼女の体を宙に攫った。
中学校の屋上から、まっすぐ上を目指して、力強く羽ばたく。
「……えぇ……」
ある程度飛翔したところで、彼女の口からため息が漏れて聞こえた。
「あたしを止めに来たクラスメイトがまさか鳥人間だとは思わないじゃん?」
「鳥人間じゃないです、天使です」
「天使ってほんとにいるんだ?」
「人口一万人につき一人、配備されています」
「レアキャラじゃん。クラスメイトの女子が天使な確率、レアすぎるじゃん」
「ちなみに天使なので、性別はありません。似合うほうの制服を選んだだけです」
「あ、それでやたらとぺたん……なんでもない」
翼に煽られて、わたしたちのセーラー服の襟が、そろって翻る。
「あたしを助けたのは、天使の仕事の一環?」
「いいえ。わたしたち天使の仕事は、人間の世界を記録することだけ。個人に深入りはしません」
「じゃあ、なんで助けたのさ」
「たまたま、クラスメイトだったので」
彼女を助けた経緯を告げることに、わたしは不思議な気恥ずかしさを覚えていた。
「ずっと、君を目で追っていました。君がボロボロの体引きずって、屋上に上っていくのを、見てしまったので」
「ストーカーじゃん」
「ストーカーじゃないです、天使です」
「ところで高度ヤバくね? 落ちたらマジヤバなんですけど」
「落ちようとしていた人がそれを言いますか」
彼女の不安が少しでもでもやわらぐようにと、抱き締める腕に、力をこめる。
「わたしの翼が人目につくと面倒なので、垂直に飛んだだけです。寒さも空気も、わたしが放つ光の中にいれば大丈夫です。怪我も治ってきたはずです」
「あ、そういや、蹴られたり切られたりしたとこ、もう痛くないや」
会話しているあいだにも、わたしたちはぐんぐん上昇していく。中学校はもはや豆粒だ。すがすがしいほどの晴れ日でよかった。地球の丸みがよく見える。
どうしてこんな高みまで飛んできたのか、自分でもよくわからない。彼女に地球を見せたかったから? 彼女を地球から攫ってしまいたかったから?
「このまま太陽に近づくと落ちるやつじゃん」
「わたしはイカロスじゃないです、天使です」
天使の翼は太陽の熱でも溶けないが、腕の中の温もりに、心が蕩けそうになる。
人間に深入りしない、というのがわたしたち天使の掟なのに、それを破ってしまったのは、きっと、彼女をこの腕で抱き締めたかったからだ。彼女の命があるうちに、その温もりを感じたかったからだ。
彼女の纏う血が、泥が、わたしのセーラー服を汚している。それさえも、わたしが彼女を助けた記録の大切な証に思えて、なんだか嬉しい。
教室の片隅で、彼女はいつも汚れていた。泥まみれだったりゴミまみれだったり。顔には痣が絶えなかった。机もロッカーも、落書きだらけだった。
平凡な人間たちが群れる教室で、彼女だけが特別な存在に思えた。記録を続けるうちに気になり、いつしか目で追うようになった。
深入りしてはならないという戒めが、かえって、わたしの中の彼女の存在を深めていった。彼女を追っていた目は、彼女から離せぬ目になった。
彼女は今日も、同じクラスの男女グループに蹴られていた。カッターで足や腕を切られていた。よくない言葉で罵られていた。人間たちのそうした行動を自動的にストレージへと記録しながら、わたしは彼女の美しさに目を奪われていた。
幼い人間たちが笑いながら去ったあと、血の混じった唾をぺっと吐き出し、「臆病者どもが」とつぶやく彼女は、世界に一人だけの、特別な輝きを持った人間に見えた。足を引き擦りながらも屋上を目指して階段を上っていくときの、迷いのない一歩一歩が、高みに向かう聖者のように見えた。
ああ、だからわたしはこんな成層圏の高みまで、彼女を連れてきたのだ。
胸の昂ぶりとともに体が上昇してまうほど、わたしは彼女が好きだ。人間で言うところの、恋をしている。
「……いや落下してんじゃん」
気づけば自由落下が始まっていた。成層圏に滞在していたのはほんのつかの間、また対流圏に逆戻りだ。
「恋に落ちた天使は、翼を失う、という決まりがあるのです」
わたしが彼女に向ける目はずっと変わっていないから、恋の自覚が、翼を失うトリガーだったのだろう。
「それってもしかして、あたしがあんたの太陽ってこと?」
「そうですね」
「あはは、いいじゃん、悪くないね」
嬉しそうな声が、耳をくすぐる。
わたしを抱き返す彼女の腕に、力がこもる。
心はかつてなく高く舞い上がった。
悪くない、と言ってくれるのが嬉しい。
彼女と抱き合っていられるのが嬉しい。
わたしの翼を捥いだのが、彼女で嬉しい。
彼女と一緒に落ちていけるのが、嬉しい。
耳元で風が高く唸る。わたしたち二人、もつれ合い、絡まり合うようにして、風とともに落下していく。音速の勢いだ。このまま地球に激突すれば、わたしたちの体はきっと、一つになれる。性別のないわたしの体でも、彼女と混ざり合うことができる。
「万有引力ってこういうことかー。マジまっすぐ落ちんじゃん! あと超寒い!」
彼女の声が、風の隙間を縫って聞こえる。翼が消えたせいで、わたしたちの周囲を守っていた天使の光は薄れつつあった。
「林檎じゃなくて、自分の体で実感することになるとはねー。こんな体験、レアすぎんじゃん!」
彼女がとても楽しそうに笑うので、わたしも釣られて笑った。
「あっ、能面ちゃんが笑ったとこ、初めて見たかも」
「能面ちゃん?」
「あんた、裏でそう呼ばれてるよ。ずっと表情変わんないから」
「人間を記録するのに、表情は無用ですから」
「いや、人間のいろんなことを記録したいなら、もっと表情出して、人と交流したほうがよくね? あたしが言うことじゃないけど」
「なるほど、そういうものですか。しかし、本日をもって、わたしはお役御免になりました。もはや、わたし自身が無用の存在ですので」
わたしたちを守っていた光が、完全に消えた。代わりに、身を切るような寒さが、わたしたちを包む。
ヒュッと、彼女の喉が息を吸い込む音。
地上まであと一キロ。いよいよだ、そう思ったとき、ふいに落下のスピードが緩んだ。
「あたし、魔法使いでさ」
腕の中で、彼女がぼそりとつぶやいた。
「二万人につき一人しか生まれない、超レアキャラなんだよね」
彼女が国認定の魔法使いであることは、クラスメイトたちの噂で聞いていた。だけど、彼女が魔法を使ったところを見るのは、これが初めてだ。
「小学校のときは、周りからチヤホヤされてたんだけど、中学校に入って、思春期の都合とかで力出なくなっちゃってさ。あたしに力がないって知ったら、みんなの態度がだんだん変わってってさ。親まであたしを避けるようになってさ」
わたしたちの落下スピードは、宙を漂う羽根のように遅くなっていた。
「嘘つき、とか、詐欺師、とかよく言われたけど、違うんだよ。あたしが詐欺ってたかなんて、みんな、どうでもいいんだ。あいつら、魔法使いを気味悪がってるだけなんだよ」
泡を扱うようなふんわりとした柔らかさで、わたしたちは降ろされた。
もとの中学校の屋上へ。
「あたしがここから飛び降りようと思ったのはさ、」
放課後の校庭は人影がまばらで、騒ぐ者はいない。わたしたちの姿は、誰にも見られていない。まるで、世界に二人きりで取り残されたような気分になる。
「あいつらに蹴られる程度じゃ、力は再覚醒しなかったからさ。もっと確実な死の淵に立てば、ぎりぎりで魔法の力が戻るんじゃないかって、試したんだ。力が戻らなければそこでおしまい。でも覚醒できたら、あいつら見返してやろ、って思ってさ」
彼女もわたしも、まだ互いを抱き締めたままだった。彼女の体は、微かに震えている。
……ああ、彼女と混ざり合うことはできなかった。それならせめて、ずっとこの時間が続けばいいのに。
「飛ぶのがあたし一人だったら、楽になっておしまいだったと思う。力が戻ったのは、あんたを死なせたくなかったからかも」
わたしの背に回った腕に、力がこもる。温かな手のひらが、翼の消えたあたりを、優しく撫でる。
「一緒に飛んでくれて、あんがとね」
耳元の囁きに、目眩のような熱さを覚えた。この瞬間を記録に残せないことを、心底残念に思う。
舞い上がるような幸福感はほんのつかの間で、彼女は逃げるように腕をほどいた。
ズタズタに切り刻まれたスカートをはたき、立ち上がる。そして、彼女は再び、フェンスへと歩み寄った。彼女の温もりが、指先から離れていく。
「ところで、あんな高度から落下体験したの、十億人に一人ぐらいの超々々レアキャラじゃね?」
歪んだフェンスを掴み、空を見上げて、彼女は誇らしげに笑った。
「ちなみに天使は五人につき三人、翼を失うそうです。だからわたしはありふれたキャラですね」
わたしも立ち上がって、彼女に並んだ。
「天使ってそんなチョロく恋に落ちるもんなの」
「人間のそばで仕事をしていれば、否が応でも」
「それもう、恋活しに来てるのと変わんないじゃん」
「言われてみれば」
彼女の視線が、なにかに気づいたようにふっと地上へ落とされた。
「せっかく魔法の力戻ってきたんだし、明日からあいつらボコしてやろっかなー。見て見ぬふりが上手な先公どもも一緒にな」
「魔法使いがそういうことに力を使うと、一般人よりも刑罰が重いんでしたっけ。たとえ十五歳でも」
「そ。だからあいつら、どのみち力なんて使えないだろうって、あたしのこと見くびってんだよ」
身を返し、フェンスにもたれかかり、彼女はもう一度空を見上げた。
「ま、あんな高さから落ちりゃ、これ以上落ちるのはもうこりごりだな」
痣だらけの顔が、ニヤリと笑った。
「さっきの落下体験のおかげで、引力コントロールのコツ掴めたしさ、昔より楽に飛べるようになったんだよね。となると、逃げるのは簡単じゃん?」
きらきらと輝く瞳が、わたしを捉えた。
「あんたとなら、どこまでも飛べそうな気がする。つまり、あたしら最強コンビじゃん? 超々々レアキャラ同士だし」
傷だらけの腕が、わたしに向かって伸びてくる。
「また、一緒に飛ぼ」
そうして、わたしたちは再び屋上のフェンスを乗り越えた。
6/19/2023, 7:46:50 AM