【あいまいな空】
意識は明瞭、コックピット内の酸素も安定している。バイタル問題なし。
加速度圏を抜け、水平にしていたシートを起こす。
モニターで後方の映像を確認する。真っ黒な宇宙空間の中、灰色の雲をまとった地球がくっきりと浮かび上がっている。
地球からの脱出成功、これで晴れて自由の身だ!
シートベルトを外しざま、飛び上がってガッツポーズをとった。
そんな自分の姿が、コックピットのスクリーンに反射で映り込む。
おろしたてのパイロット服はぶかぶかで、不自然なほどに似合っていない。
(あれ、ヒゲも三日ぐらい剃ってないし、髪もボサボサじゃん。俺、こんな感じだっけ……)
首をかしげたそのとき、船内に警報が鳴り響いた。
正面モニターいっぱいに映し出された、巨大な隕石の陰。
避けきれない、ぶつかる!
頭を抱えて縮こまった。耳をつんざく轟音とともに、意識は黒い影に覆われた。
はっと目が覚める。――なんだ、夢か。
全身の緊張を解いて息をつき、警報、もとい枕元のアラームを叩いて止める。
上半身を起こして、もう一度深く息をつく。夢の記憶は、ひと呼吸ごとにあいまいになっていく。ばくばくと波打つ鼓動や、肌に張り付く冷や汗の感触は残っているのに、どんなシチュエーションの夢だったか、もう思い出せない。
ベッド脇のカーテンを開ければ、あいも変わらずどんよりとした曇り空だ。きっと雨が降るだろう。今日も行き帰りに防護服が必要だ。クリーニング済みのもの、まだ残ってたっけな。
ヒゲを剃って身支度を整え、防護服を着込み、寮を出る。職場はここから徒歩五分、宇宙船の発着ベースだ。
ベース内に入り、整備士用のロッカールームに向かう途中で、白い制服をきりりと着こなしたパイロットたちとすれ違う。ふっと、夢の記憶が回帰する。あの制服を、自分は不格好に着ていたような気がする。
(パイロット、憧れだもんな……)
本当の職業は、しがない整備士だ。同じ宇宙船に関わる業務でも、花形のパイロットと裏方の整備士では、給料にも待遇にもイメージにも権威にも、雲泥の差がある。
(俺も乗りてぇなぁ……)
パイロットたちのように宇宙船に乗って、どこかに行けたらいいのに。どこに行きたいかは、わからないけれど。
ただ漠然とした「行きたい」という思いだけが、胸をきゅっと締め付ける。
(あれ、俺、泣いてる……?)
頬を濡らす冷たい感触に驚き、慌てて顔を袖で拭った。
顔を上げると、いつの間にか同僚と肩を並べて立っていた。整備を終えた宇宙船がブースから出て行くのを、二人で見送っている。
あれは火星行きの新しい船だ。もう完成していたのか。
「火星の空って、どんなだろうな」
同僚がつぶやく。
「赤いらしいな」
「へぇ、イメージ通りだ」
「それで、夕焼けは青いんだってさ」
「へぇ、見てみたいな。地球でも、もう青い空は見られないもんな」
それなら、こんど自分が宇宙船に乗るときに誘ってやろう――でも、こいつ、誰だっけ。同僚の名前と顔を思い出そうとしていたら、ベース内に警報が鳴り響いた。同時に、周囲の明かりがふつりと消える。
「なんだ!?」
「巨大隕石が落ちてくるぞ!」
同僚はそう叫んで、どこかに駆けだしてしまった。一人、電源の落ちた真っ暗な整備ブースに、警報音とともに残される。
ふいに、今朝見た夢の記憶が蘇る。隕石、あれは正夢だったのか――
身がすくんで立ち尽くしたところで、上から迫る大轟音に、意識が呑まれた。
はっと目が覚める。――なんだ、夢か。
全身の緊張を解いて息をつき、警報、もといアラームを叩いて止める。
上半身を起こして、もう一度深く息をつく。夢の記憶は、ひと呼吸ごとにあいまいになっていく。ばくばくと波打つ鼓動や、肌に張り付く冷や汗の感触は残っているのに、どんなシチュエーションの夢だったか、もう思い出せない。
カーテンを開ければ、昨日と同じ、あいまいな空模様だ。そのうち雨が降るだろう。今日も傘が必要だ。昨日使ったやつ、ちゃんと乾かしておいたっけ。
アパートを出ると、コンクリートの湿った匂いが鼻をついた。
匂いのせいか、ふっと夢の記憶が回帰する。永久に晴れない灰色の空、蒸し暑い防護服、頬を濡らした涙。
ぽつりと、頬に雨の気配を感じた。慌てて傘を広げる。
安いビニール傘は、なんだか頼りない。雨が触れた頬を、ゴシゴシと拭う。防護服を着なくて大丈夫だっただろうか――防護服って、なんだっけ。
……そもそも自分はいま、どこに向かおうとしてたっけ?
ふいに、街中にけたたましい警報の音が響いた。近くのスピーカーが「隕石です!」と叫ぶ。ビニール傘を透かして頭上に目を向けると、黒い影がすぐそこに迫っていた。
思わず頭を抱えて縮こまった。耳をつんざく轟音とともに、意識は黒い影に覆われた。
はっと目が覚める。――なんだ、夢か。
緊張を解いて息をつき、警報、もといアラームを叩いて止める。
「…………」
上半身を起こし、額を押さえる。頭がくらくらしている。
長い夢を見ていた気がする。夢と現実の境界があいまいで、どこからどこまでが本当の記憶かわからない。いまはちゃんと現実だろうか?
起き上がってベッド脇のカーテンを開ければ、あいも変わらず憂鬱そうな灰色の空だ。きっと雨が降るだろう。
外出の予定はないから、自分には関係ないけれど。
……本当に?
窓ガラスに淡く映る自分が、首をかしげた。
本当に、外出の予定はなかったっけ?
どこかに、行こうとしてなかったっけ?
なにか大切なことを忘れているような気持ち悪さが、吐き気となって込みあげてきた。
遠くで、警報のようなベルがジリリと鳴った。
はっと目が覚める。――夢、だった……?
音を止めようとして枕元を探るが、ベルの本体はベッド脇に立つ者の手にあった。細長い指先が、優雅な動きでベルを止める。ベッド脇のテーブルにベルを置く。
「おはよう。目が覚めたな」
彼女が顔を覗き込んでくる。
「お、おはようございます……」
彼女の整った顔の向こうに、無機質な白い天井が見える。
ベッドから身を起こそうとして、頭にごちゃごちゃとコードがついていることに気づく。白衣を着た彼女が、丁寧な手つきでコードを外していく。
「さて、君の夢をいくつか見せてもらったよ」
彼女はそう言って淡く微笑むと、近くの椅子に腰掛けた。手元のタブレットを操作しはじめる。
その姿を見て、これまでの記憶がどっと押し寄せてきた。
(あ、こんどこそ現実だ……)
身を起こし、はだけた診察衣の前を合わせ、ベッドの端に腰掛けて居ずまいを正す。
ここは、夢を使ったカウセリングを謳う医療機関だ。白衣の女性は、担当の精神科医。二十代の若造だと言っていたから、自分と同年代かもしれない。普段の真顔はなんとなく怖いが、笑うと顔全体がふんわり柔らかくなる。
この病院に来たきっかけは、彼女だ。通勤途中、横断歩道の待ち時間、ふと灰色の空を見上げたら、急に涙が溢れて止まらなくなった。防護服越しでは、目を拭えない。どうしようかと慌てていたら、後ろから肩を叩かれた。「君、顔色悪いね。なるべく早めにここに来てくれ」そう言って名刺を渡してきたのが、同じ防護服に身を包んだ彼女だった。
名刺には病院名だけが書かれていた。住所を見たら、職場のすぐ近くだった。さらにネットで調べたら、診察の予約は一カ月先まで埋まっていた。直近で予約をとって、あり余っている有給で都合をつけ、ここに来た。複数いる医師の中で彼女が担当になってくれたのは、幸運な偶然だった。
ちなみに職場は宇宙船の発着ベースではない。そもそも整備士なんかじゃなかった。それよりもっと手前の製造業――宇宙船の部品を製造する工場の、しがない作業員だ。整備ブースどころか、発着ベースの敷地にも、入ったことはない。
住んでいる場所は、職場から徒歩五分の独身寮。たった五分の距離を、毎日のように、蒸し暑い防護服で通っている。雨の降りそうな日は、汚染物質から身を守る防護服が欠かせない。
夢の中で広げたビニール傘は、まだ地球が汚染されていなかった日の記憶だ。あのころの雨は、ただの水で、無害だった。
夢の終わりに毎回襲ってくる隕石は、子供時代のトラウマ。あの日以来、地球も生活も、なにもかもが変わってしまったから。
隕石災害は父と母を奪い、自分を天涯孤独にした。
「君は現状にずいぶん閉塞感を抱いているようだな」
タブレットから顔を上げ、女医が言った。
「はい……」
わかりきったことだ。
どんなにパイロットに憧れようとも、憧れを掴めるような技能や頭脳は持ち合わせていない。高校一年で両親と祖父母を亡くし、勉学を諦めて就労した。あれ以来、工場の部品を生産するための部品、という立場から、抜け出すことができない。
「それで、私からの提案なんだが」
ふいに、肩に手を置かれた。
「私と一緒に、火星に行ってみないか」
「……は?」
「私も見たいんだ。青い夕焼けを」
「はぁ……」
まじまじと見つめ返してしまう。女医は怖いぐらいの真顔だった。
「ん、青かったら焼けてないな。いや、高温のガスバーナーの火という可能性も」
「いや、あの……」
「自分でもわかってるんだろう? 君は地球から抜け出さない限り、病む」
「……そ、そうですね……」
そうだ、すべてはあの空のせいだ。あのあいまいな色の空が、どこにも行けない、何者にもなれない自分の現実を突きつけてくるから――
「まあ、実際多いんだよ、君のような人は。そろそろ『地球閉塞症候群』とか病名がついてもおかしくないぐらいにね。あんなふうに、四六時中空を覆われてちゃあね」
ばん、と、大きく肩を叩かれた。
「それなら、突き抜けてみようじゃないか、あの空を! 火星に向かって!」
診察室の上部、小さな明かり取りの窓を指さして、女医は朗らかに笑った。
「……い、いや、火星っていっても、次の宇宙船はまだ製造中ですよ……。部品だって、まだ納品しきれてないのに……」
「だから、さっさと完成させて行くんだよ。君が部品を作った宇宙船で」
「俺が、部品を作った、船で……」
すっと胸が開けたような気がした。
そうか、そんな可能性もあるのか。
この船、俺の作った部品が使われてるんだぜ、なんて誇らしげに言いながら、火星までの船旅を楽しむこともできるのか。
火星移住は、特殊な訓練や健康診断をくぐり抜けてライセンスを獲得した者だけの狭き門だ。しかし、ただの観光旅行なら、門戸は一般人にも開かれている。
火星旅行ぶんの有給ならいつでもあり余っている。趣味もなく彼女もいない自分には、休む理由なんてなかったから。
火星旅行ぶんの貯金もある。趣味もなく彼女もいない自分には、生活費以外の余計な出費なんてなかったから。
しかし、工場作業員のしょぼくれた給料では、スペースパスポートの許可が下りるかわからない。
火星行きのチケットだって、毎回とんでもない競争率だ。抽選に当たる勝算はほぼゼロ。
行きたい、とはやる気持ちが、行けそうにもない現実に、押し負けそうになる。
だいたい、彼女が「一緒に行こう」と言ってくれたのだって、患者を元気づけるための冗談だろう。出会ったばかりの美人女医と冴えないいち患者の旅行なんて、夢物語にもほどがある。
だけど。閉塞していた思考に一度でも可能性の風穴を穿たれてしまったら――夢を見ずにはいられない。
一人旅でも充分。可能性が限りなくゼロに近くてもいい。自分が部品を造った船に乗って宇宙に出られるかもしれない、そう考えるだけで、なんだかわくわくしてくる。
「お、血色が戻ったな。その調子」
女医がニヤリと、悪友のような笑みを見せる。
「……おかげさまで……明日から、ちょっと頑張れそうです」
「ああ。チケットが取れたらぜひ教えてくれ」
「……本当に、先生もいらっしゃるとは……」
その後、火星行き宇宙船の乗客エリアで、自分が呆然と立ち尽くすことになろうとは、夢にも思わなかった。
「医師特権というやつだ」
二年ぶりに再会した女医は、涼しげな顔で乗客席に座り、長い足を組んでいる。
「しかも、俺が先生の隣の席なんて……」
「運がよかったな」
女医は意味ありげにニヤリと笑った。
「……同行者、俺でいいんですか?」
「そもそも、私は最初のときから君をナンパしたつもりだったが?」
「へ?」
「いいから、さっさと座れ」
女医は男友達のような仕草で、肩に腕を回してきた。
「さあ、出発だ! 人生のバカンスを楽しもうじゃないか!」
二人の手にはいつの間にか、乾杯用のビールジョッキが握られていた。
※ ※ ※
「悪夢のループを抜け出して、幸せな夢に移行したようだな」
タブレットで患者の夢の映像記録を確認し、担当の女医は微笑んだ。
「予定時間超過してますよ、そろそろ起こさないと……」
看護師の青年が覚醒用のベルを手に取る。女医はそれを片手で制した。
「もうちょっとだけ寝かせてやれ」
「先生の昼食時間、なくなりますよ?」
「ここで摂るよ。適当なデリバリーを寄越してくれ」
「まったく、いつも患者優先なんですから。少しはご自身も大切にしてくださいね」
看護師は呆れ顔を隠さずに、診察室を出て行った。
女医はふっと笑った。目の前に横たわる患者の眦から、そっと涙を拭う。
「優先したくもなるさ。彼の中の私が、幸せそうだからな」
明かり取りの小さな窓に目を向ける。今日も地球の空は塞ぎ込んだ灰色だ。だが、いつかは抜け出せるだろう。その夢を支える者たちの一人が、いまここで、新しい夢を見ているから。
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明日と土日は、書く習慣おやすみします。
【あじさい】
別れる男には、花の名前を教えておくといい。
そうすれば、季節が来るたび、自分のことを思い出さずにはいられないだろうから。
川端康成だったか、そんな意味のことを言ったのは。
彼女のことだ、花なんてまったく意識していなかっただろう。
そもそも、俺たちはそんな関係ですらない。
でも、彼女はひとつの花の名前を、俺の中に残していった。
彼女に教わるまでもなく、もともと馴染みのある花だったけれど。
六月になると、あの満開の笑顔とともに、どうしても思い出さずにはいられない。
今年も、家の庭にアジサイが咲いた。
俺の家は古い平屋だ。ひい祖父ちゃんの代から建っているらしい。襖で区切られたいくつもの和室と、軋む縁側と、アジサイの咲く庭園がある。
家も庭も広いので、法事や祝い事など、なにかにつけて親戚が集まる。俺が彼女に出会ったのも、そうした集まりの中でのことだ。
彼女は俺の三つ上の従姉だったから、ものごころついたときにはもう出会っていたはずだ。しかし、記憶に残っていない。彼女を初めて認識したのは、彼女が十三歳のときだった。
仏間の棺桶の前でむせび泣く親父や母さんの姿がいたたまれず、俺は一人で庭に降りていた。アジサイが満開の季節だった。グラデーションで色とりどりに咲く花のそばに、真っ白なセーラー服を着た少女が佇んでいた。いまにも泣きそうな重い灰色の空の下、アジサイと彼女だけが清涼な光を纏っていて、目を奪われた。
よく見ると、彼女はアジサイの葉っぱを貪っていた。
「それ、おいしいの?」
思わず声をかけてしまった。彼女は振り向き、緑色の歯でニィッと笑った。
「不味いよ。アジサイの葉っぱって、毒があるんだって」
「えっ」
なぜ自ら毒を? 死ぬ気か? 止めるべきか? 大人たちを呼ぶべきか? どうやって? いろんなことが、一瞬で脳裏を駆け巡る。
「あ、毒と言っても死ぬほどじゃないよ。具合が悪くなるだけ。だから、実際に体がどんなふうになるのか、確かめたくって」
「……馬鹿なのか?」
「あはは、紙一重ってよく言われる」
当時、カミヒトエがどんな意味か知らなかったが、こいつは馬鹿がつくほど好奇心旺盛なやつだ、というのはよくわかった。
その後の読経の時間に彼女は嘔吐し、救急車で運ばれていった。いま思えば、大迷惑なやつだった。
彼女のしでかしはあまりにも印象的で、俺は親戚の集まりがあるたびに、彼女の姿を探すようになった。そして、まだ彼女が生きていることにほっとした。
アジサイ服毒事件から二年と二ヶ月後、彼女は法事でもなんでもないのに、一人で俺の家に来た。
大きくて細長いダンボール箱を夜の縁側に持ち出し、中身を組み立てている。その様子があまりにも嬉しそうだったから、気になった。俺は寝床にしていた仏間から出て、鼻歌混じりの彼女に声をかけた。
「なにをしてるんだ?」
彼女は満開の笑顔で振り向いた。
「これ、天体望遠鏡! 本家の叔父さんが誕生日プレゼントで買ってくれたの!」
彼女にとっての本家の叔父、それはつまり、俺の親父のことだ。
俺は今年の誕生日プレゼントをもらっていないのに、親父のやつ、親戚の子には気の利いた誕生日プレゼントを贈っているらしい。かるい嫉妬を覚えて、彼女を睨んだ。
「なんでわざわざうちで組み立てるんだ? プレゼントなら、自分の家に持ち帰ればいいのに」
「うち、都心だしベランダ狭いから、あんまり星の観測に向いてないの。ここは庭が広いでしょ。だから、しばらくここに望遠鏡置かせてもらうことにしたの」
彼女は俺の睨みなど意にも介さず、鼻歌を再開して手際よく天体望遠鏡を組み立てていく。
「今日はちょうど、この方向にあじさいが見えるはず」
「アジサイ? もう終わってるだろ」
いまは八月だ。庭のアジサイの花はとうに枯れ、葉っぱしか残っていない。まさか、また葉っぱを食べる気か?
「あじさいは終わってないよ。四十年動き続けてるんだよ」
「動く……?」
根っこや葉を蠢かせたアジサイの化け物が、脳裏をよぎる。
「人工衛星の名前が、あじさい、なの」
なんだ。庭のアジサイが化け物になったわけじゃないのか。
「ずっと望遠鏡で見てみたかったんだ。肉眼でも見えるらしいけど、星と区別つけられる自信ないし」
望遠鏡はもう組み上がったようだ。手元の方位磁針やスマホの画面を忙しく見比べつつ、三脚やレンズの位置をずらしている。
「あじさいの打ち上げは、四十年前の今日だったんだよ。私の誕生日と同じなの! 測地のための人工衛星でね、太陽光やレーザーを反射するぴかぴかの板で覆われててね、アジサイの花っていうよりは、ほぼミラーボールなんだけどね」
早口で喋り倒しながらレンズを覗き込む。かと思えば急に黙り込み、真剣な顔で望遠鏡の端をいじりだす。ほどなくして、
「あった、あったよーっ! 見えたーっ!」
幼児のようなはしゃいだ歓声をあげる。
振り向いた彼女の視線が俺を捉える。きらきらと瞳を輝かせた、満開の笑顔。まるで水をたっぷり浴びたアジサイの花のような。
「ほら、君も見てみなよ!」
手招きされ、ふらり、と近づいてしまう。
「あっ、そういえば君、本家の陽太郎くんだっけ? まだこんなに小さかったんだ?」
彼女が頭を撫でようとしてきたので、俺はさっと避けた。
「ソラちゃん、一人でもう組み立てちゃったのかい?」
「あっ、叔父さん、原稿集中してるときに騒いですみません、お構いなく!」
「気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。僕にも見せてくれるかい?」
「もちろん!」
彼女の歓声に釣られてか、にこにこ顔の親父が部屋から出てきたので、俺は逃げるように自室に戻った。
その後、彼女は天体観測のために頻繁に家を訪れるようになった。望遠鏡を覗いてははしゃぐ彼女を、俺は自室から眺めるだけだった。彼女の前に姿を晒すのが怖かった。きっと、いつまでも子供扱いされてしまうから。
やがて、彼女の足はぱたりと途絶えた。親戚の集まりにも、姿を見せなくなった。
天体望遠鏡は、蔵に仕舞い込まれた。
何年か後、親父と妹の会話で、彼女が宇宙飛行士の選抜試験に合格したことを知った。それからさらに数年後、彼女は意気揚々と宇宙に旅立っていったそうだ。「宇宙はもう、私の庭です!」そんな迷言とともに。
あじさいよりも、遠い星へ。
俺は地上の庭で、六月が来るたびにあのアジサイのような笑顔を思い出しながら、彼女の帰還と再訪を待っている。
時間の流れから取り残された俺は、十歳の姿のままだ。彼女に追いつきたくて親父の本棚で本を読み漁ったこともあったが、頭がよくなれば成長するというものでもないらしい。どうあがいても、俺は子供。彼女は俺の知らない場所で年老いていく。
だから彼女に追いつくことは諦めた。どのみち、俺はこの家から出られない。そして、宇宙はあまりにも、遠い。
ここに天体望遠鏡があれば、彼女がいる外の世界をすこしは覗けたのかもしれない。あの日、彼女の手招きに応じて望遠鏡を覗かなかったことを、後悔している。宇宙のあじさいがどんなふうに花開いているのか、そんなことも知らないままだ。だから教えてほしい。俺の前でもう一度、天体望遠鏡を組み立てて、手招いてほしい。
叶わぬ願いだということはわかっている。大人になった彼女の目は、もう俺を見つけられない。そして、宇宙のあじさいも、とうに寿命を迎えたはずだ。
俺にも寿命はあるのだろうか。あと何回、満開のアジサイを眺めることができるだろうか。
庭に立ち、篠突く雨に手をかざす。以前よりも薄くなった体は、雨の線にかき消されそうだ。だが、まだ消えるつもりはない。ずっとこの家に居座ってやる。せめて、彼女をこのアジサイの庭で迎える日までは。
親戚の葬儀はすべて、この家で執り行われる。だから、確信がある。どんなに遠く離れても、彼女は必ず、ここに戻ってくる。
※ ※ ※
「取り壊しやめるって、ほんと?」
「そうなのよ。あんたの結婚を機に、いったん更地にして建て替えたかったんだけどねぇ」
「お父さん、なんで心変わりしたんだろ」
「取り壊し決めた日、お父さんの夢枕に、陽太郎が出てきたらしいの。すごい顔で睨んできたって」
「えっ、怖っ。お兄ちゃん、成仏しないで家に憑いてるの……?」
「まだ子供だったものね。成仏なんて、わからなかったんじゃないかしら。それで、座敷童子みたいになってるのかも」
「あー、法事で集まる子たちがときどきなんか目撃してたみたいだけど、お兄ちゃんだったのかな……」
「あの子が守ってくれてるなら、ボロ屋でも大丈夫だろう、せめて私たちの代だけはこのままにしようってことになったの。私たちが死んだら、あんたは好きなようにしていいから」
「ふーん、ま、お兄ちゃんがいるなら、私も残しておこうかな。この家と庭、けっこう好きだし」
縁側に並んだ母と娘が、雨上がりの庭を眺める。満開のアジサイは雫に濡れて、きらきらと輝いている。
【好き嫌い】
好きか嫌いかなんて、他人からはわからない。
桃が好きだとか、葡萄が嫌いだとか、わざわざ自己申告でもしない限り、人に知られることはない。
だから、私が真司を好きか嫌いかも、他人にはきっとわからない。
真司が私のことを好きか嫌いかも、他人である私には、わからない。
私と真司はいわゆる幼馴染で、家が近所だったから子供のころはしょっちゅう一緒に遊んでいた。中学生になったころからお互いよそよそしくなって、外ですれ違っても挨拶すらしなくなった。地元の高校で同じクラスになってからは、中学時代なんてなかったかのように、またちょっと会話するようになった。そんな間柄。
一部のクラスメイトには、私たちが幼馴染だと知られてる。「じつは好きだったりしない?」「付き合わないの?」という話が、当たり前のような顔をして出てくる。そんなときは、「思い出補正な友情はあるけど、恋愛的に好きってわけじゃないから」と返してる。真司側も、「俺、そもそも女嫌いだし」と言ってるらしい。私もどちらかといえば男嫌いなので、真司の気持ちはなんとなくわかる。
私たちのいる世界が少女漫画だったら、きっと真司はイケメンで成績優秀でスポーツ万能でモテモテの王子様、私は平々凡々で取り柄のない女の子だけど幼馴染特権で真司とラブラブ、みたいな展開になるんだろうけど、ここは現実なので、そうもいかない。
真司はイケメンというわけではないし、昔はバスケやってたけど今は帰宅部だ。勉強は好きじゃないから成績は悪いほう。モテる要素は見当たらない。それに、動きはガサツだし言葉は乱暴だしで、私の嫌いな男性像に近い。
私は顔こそ平々凡々だけど、成績は学年一位、しかも地元の名家の跡取り娘だったりするもんだから、自分で言うのもなんだけど、高嶺の花みたいな扱いをされている。
いまどき政略結婚なんて流行らないけど、それでも将来は親が決めた結婚相手と一緒になるのが無難だろうな、と思っているから、恋愛なんてするだけ時間の無駄。そんな悟りの境地に達している。
「百花また一位だったんでしょ? すごいね、その成績なら、もっといい高校行けたんじゃない?」
「ほんと、なんでこんな掃き溜め高校にいるのさ」
成績表が配られた日のお昼休みは、あまり好きじゃない。みんな私のことを口にするから。
「だってうちから一番近いし、昔からこの制服が好きで、絶対ここにしたいって思ってたの」
「わかるー、あたしも同じ! 制服好き!」
「可愛いもんねぇ。百花も女の子だねぇ」
真司の成績ならこの高校だろうな、なんて考えていたことは、誰にも言わない。父が選んだ高校を断固拒否していまは親子冷戦中、なんてことも秘密だ。大人になったら真司も私もべつべつの進路で簡単には会えなくなるのだから、せめて高校ぐらいは同じところに通いたい、なんて、思っていたとしても、おくびにも出さない。
私がなにも言わなければ、他人はなにも知らないまま。それが一番平和で、面倒がない。
お弁当を食べ終えて、私は友人グループから抜け、体育館二階の観覧席に向かう。
体育館では、男子生徒がバスケで楽しげに遊んでいる。それを二階の端の観覧席から見下ろして、ぼんやりしている、いつもの黒い後ろ頭。
「真司」
声をかけると、ちょっと嬉しそうに振り向く。
昔のように、しんちゃん、とは、呼べなくなってしまった。真司も、もも、と呼んでくれることはなくなった。
私は真司から一つ席を空けて座る。
「来月のクラスマッチの種目、まだ決めてないでしょ。早く提出するようにって、先生が言ってた」
「なんだよ、面倒くせぇな」
真司が舌打ちする。そういう乱暴なところが、私は嫌いだ。
「早くしないとバスケにマルするぞって」
「俺バスケ嫌いなんですけど?」
「知ってる」
「伊藤の種目は?」
「私は卓球」
「意外。バレーかと思ってた」
「大勢でわいわいやるの好きじゃないし……」
「わかるわ。俺も卓球にしよっかな。ラケットの持ちかた知らんけど」
「いいんじゃない。私もそんなもんだし」
スリーポイントシュートが決まったらしく、下のほうで歓声があがる。
「あ、もうお昼終わっちゃう。じゃあね」
「おう」
たったそれだけの短い交流を、私たちはお昼休みのたびに繰り返している。一学期のはじめ、観覧席でぼんやりする真司を私がたまたま見つけてから、ずっと。
真司は怪我でバスケ部を辞めたけれど、まだバスケが好きなのかもしれない。
でも、真司の口は、バスケを嫌いだと言う。
私は自分の家が真司と釣り合わないことを中学生のときに親から聞かされて諦めたけれど、まだ真司のことが好きなのかもしれない。
でも、私の口は、真司を好きじゃないと言う。ガサツで乱暴な真司のことを、嫌いだと言う。
真司は女嫌いを公言しているから、女である私のことは嫌いなはず。
だけど、私と話すとき、ちょっと嬉しそうに、照れたように笑うのだ。
「酸っぱい葡萄なんだろうな……」
イソップの、葡萄と狐の話を思い出す。手に入れられなかった葡萄に「あんな葡萄、酸っぱくて嫌いだね」と負け惜しみを言う狐の気持ちが、よくわかる。
「百花、お昼に葡萄残してたけど、そんなに酸っぱかったんだ?」
思考をうっかり声に出していたみたい。教室移動中、隣を歩いていた友人が話しかけてきた。
「そう、酸っぱくて……もともと葡萄そんなに好きじゃないんだけどね」
「えー、あたしは好きー。もらえばよかった!」
「酸っぱいからやめたほうがいいって」
「俺も、葡萄は好きじゃないな」
ふいに、真司が隣に並んだ。
「葡萄派すくなっ」
「まだ二対一だろ」
「えっ、待って、ねえねえみんな、葡萄好き!?」
友人が前のグループに駆けていく。私と真司が並んで残される。
「俺、桃は好きだよ」
ぽつりと落とされたその言葉に、私は驚いて真司を見上げた。
真司はあからさまに視線を逸らし、歩くペースを早めて前方の男子グループに混ざろうとしている。私はとっさに、その服を引っ張った。真司が振り向く。
目を見開いて心底驚いているその顔に、怯みそうになる。でも、言わなきゃ。
ここで言わないと、私たち、酸っぱい葡萄を噛み締めたまま、大人になってしまう。
「私も」
声を振り絞った。
「私も、好きだから。……桃」
見上げた真司は、泣きそうな顔で笑っていた。
「知ってる。小さいときから、そうだったよな」
私たちはもう一度、酸っぱい葡萄を噛み締めた。
だけど、あとちょっとで、甘い葡萄に、手が届くかもしれない。
【街】
ルドルフにとって、外に出るのは三百年ぶりのことだった。誇張ではない。彼がハンターとの戦いに敗れてから、実際にそれだけの年月が経過していた。自分を封じていた忌々しい結界が消えたので、体を黒い霧に変えて、棺桶の隙間からようやく外に這い出ることができたのだ。
教会裏の墓地に封じられ、体を締め付ける結界の力に歯を食いしばり、正確な体内時計で月日を数える時間だけを過ごしていた。自分を封じたハンターへ復讐しようにも、とっくに骨になっているだろう。もう、どうでもよかった。長年の封印で、身体も精神も疲弊していた。今はとにかく、女の血を吸いたい。なるべく若い女の血だ。それさえあれば、元の力と人型を取り戻せる。憎いハンターどものことを考えるのは、そのあとだ。
外は薄曇りの真昼だった。弱い吸血鬼ならここで灰になっているだろう。しかし、太陽光はルドルフの敵ではない。ルドルフはもともと昼間の活動を好む吸血鬼だ。いくら夜目が利く吸血鬼であっても、人間と同じく、光があるほうが獲物を探しやすい。それに、明るい時間帯なら、獲物も油断している。
ルドルフは光のもとで、三百年ぶりの教会をまじまじと眺めた。墓地を有する大きな教会は、変わらぬ忌々しい威風を保って――いなかった。瓦礫の山になっていた。なにがあったかはわからないが、おかげで封印が解けたということはわかる。
(人にとってはなんらかの悲劇だろうが、俺にとっては僥倖だな)
瓦礫を横目に教会の敷地から抜け出て、ルドルフは目をみはった。街はすっかり様変わりしていた。教会前の広場は、三百年前に戦ったときと比べて狭くなっている。広場を囲っていた石造りの建物が、瓦礫になって広場になだれ込んでいるからだ。三百年のあいだに街が廃墟化したのかと思いきや、人はたくさんいる。埃と血にまみれた男たちが、大声を上げながら、懸命に瓦礫を取り除いている。
(本当になにがあったんだ? 地震か? そんな揺れは感じなかったが……)
火事も起きたのだろうか、広場を覆う焦げ臭さに、顔をしかめる。いろんな人間の血の匂いも、混ざり合って漂っている。これでは、目当ての獲物――若い女を見つけにくい。なのに、血の匂いのせいでひどく腹が減るばかりだ。
(ええい、このさい男でもいい。とにかく一滴でも血を……)
目眩を覚えながらもふらふらと血の匂いにつられて、一人の人間に歩み寄る。地面に横たわって呻いている若い男だ。傷口に巻かれた布が、茶色い血に染まっている。
「おい、野犬に狙われてるぞ! 気をつけろ!」
「追い払え!」
周囲から瓦礫の石が飛んできた。ルドルフは慌ててよけた。今の状態で大きな傷を受けたら、治癒できずにそのまま死にかねない。
(男たちは気が立っている。女たちは泣いてばかりだ。いったいなにがあったかは知らないが、ここは危険だ。獲物を漁るのはべつの場所にしたほうがいいな)
男たちの怒号を背に、広場から走り去る。
(人型であれば、こんな状況でも女の一人や二人、たやすく誘惑できるものを……!)
小型の狼にしか化けられない現状が歯がゆい。この姿で誘えるのは、せいぜい子供ぐらいだ。しかし、街の子供は泣いてばかりで、ルドルフには目もくれない。
ルドルフが駆け抜けた大通り沿いの街は、さらに様変わりしていた。瓦礫になっているのは教会付近の一角だけで、広場からちょっと離れれば普通の街なのだが、見慣れた石造りの建物よりも、見慣れぬ建材でできた建物が多い。大通りも、石畳ではなく真っ平らな灰色になっている。道のところどころに、大きな金属の箱のようなものが置かれている。四つの車輪がついているから、現在はこれが馬車の代わりなのだろう。走っている金属の馬車も見かけた。金属の尻から、馬糞の代わりにへんな匂いをまき散らしている。
(あれこれ匂いがきつくて、気に食わぬ街になってしまったな。腹を満たしたらさっさと出よう)
三百年前は、この街を気に入って十年近く滞在していた。不老の見た目ゆえ同じ街に長居できぬ吸血鬼には、珍しいことだった。しかし、こうも街の雰囲気が変わっていては、以前のように気に入ることはできない。次の食事が、この街最後の食事になるだろう。
一通り走ったところで、足がぴたりと止まった。鼻が気づいたのだ。その匂いに。街全体を覆う焦げ臭さの中に、かすかな甘みが混ざっている。今のルドルフが渇望してやまぬもの――狼の尾が、歓喜に激しく揺れた。
(若い女が血を流している!)
獲物はすぐ近くにいる。ルドルフの足はふらふらとその方向へ誘われていく。
(なんという甘美な香り……これは極上の血に違いない!)
牙の隙間から涎が溢れ出そうだった。
果たしてその女は、人気のない路地にいた。まるでルドルフのほうが誘い込まれたかのようだ。女は左腕を押さえて路地に座り込み、ぐったりと壁に背を預けている。美しく、若い女だ。しかも、上半身は袖や襟のない薄着。血を吸うのにおあつらえ向きだ。いや、わざわざ首や手首に牙を立てて吸う必要はない。舐めるだけで充分。左腕を抑えている指の隙間から、赤い雫が垂れているのが見える。ルドルフの目に、それはなによりも美しく輝く宝石として映った。
(ああ、そういえば、この街で最初に食事した路地裏も、このあたりだったか。三百年間、よくぞ残っていてくれたものだ)
くねる細い石畳に懐古の念を覚えつつ、ルドルフは恍惚として地を蹴った。大きく開いた口は、まっすぐ、女の左腕を目指す。
しかし、飛びかかった先にはなにもなかった。着地してはっと気づくと、女がすこし離れた地面に転がっていた。体をひねって避けざまになにかを投げたような姿勢だ。その手から鎖が伸びている。鎖の先は、ルドルフの首輪に繋がっていた。
(首輪!? いつの間に……!)
「捕まえたぞ、吸血鬼ルドルフ」
じゃらり、と鎖を引っ張って、女が不敵に笑った。
「今朝のミサイルで教会が崩れたからな。おまえのことだ、三百年程度では消滅せず、きっと這い出してくると思っていたよ」
「誰だ、あんた……」
ルドルフは女を睨み、喉奥で唸った。気の強そうな吊り目も、彫りの深い鼻筋も、やや厚みのある唇も、なにもかもがルドルフ好みの若い女だ。だが、記憶にない顔だ。そもそも三百年も封じられていたのだ、人間の知り合いなどいるわけがない。なのに、女はルドルフのことを知っていて、自らを囮にして罠を仕掛けてきた。
「私のことはノーラと呼んでくれ。私の家に、おまえを封じた記録が伝わっていてな。つまり、おまえの憎き仇の子孫というわけだ」
ルドルフの全身の毛が逆立つ。
「あんたもハンターか!」
噛みついてやろうと口を開けるも、首輪がきゅっと締まって痛みが走る。
(くそっ! これじゃ結界の中にいるのと同じじゃないか!)
せっかく三百年の棺桶牢獄から抜け出せたのに、一滴の血も吸えぬまま罠に掛かって女のハンターに首輪で捕らえられるとは、なんという失態、なんという屈辱。しかも、目の前で血のお預けを食らっているこの状況。理性をかなぐり捨て、ありとあらゆる言葉で女を罵りそうになる。
「吸血鬼ハンターなんて今どき食っていけないよ。私は街の警備兵だ。まあ、街を荒らす吸血鬼を成り行きで狩ることもあるがね」
首輪を外そうともがくルドルフを見下ろし、ノーラが満足げに笑う。
「私の先祖はおまえのことをだいぶ気に入っていたようでな。記録が詳細に残っている。おかげで、弱っているときは狼の姿になることもわかっていた。その封印の首輪は、先祖がいざというときのために用意していたものだ」
「くそっ! わざわざ結界に封じたりこんなふうに捕まえたりするぐらいなら、いっそひと思いに殺せばいいだろう!」
「先祖のハンターが殺せなかったおまえを、私が殺せるわけないね」
なにを思ったか、ノーラは鎖でルドルフを引き寄せると、狼の身体を抱きしめた。獲物の甘い匂いが狼の鼻をくすぐり、ルドルフにないはずの鼓動が、大きく跳ねる。グルルル、と意図せぬ唸り声が涎とともに漏れた。
「おまえは強い吸血鬼だ。少量の血で動ける。だから人を殺すほど吸ったことはないのだろう? 誰かを吸血鬼にしたことすらない。吸ったあとの記憶操作のケアも万全。その点では、蚊よりも大人しい生き物だな」
「誇り高い吸血鬼を蚊と並べることが、どれほどの侮辱か知ってるか……?」
怒りのためか、飢えにもがいていたルドルフの頭がすっと落ち着いてきた。
「おまえが蚊ほども人を殺していないから、祖先はおまえを殺さず、封印だけに留めた。ほかのハンターからおまえを守るためでもあったようだが、それはそれで、誇り高い吸血鬼には地獄だったろうな」
「まったくだ。ただ吸血鬼だというだけで、どうしてあんな苦しみの中に封印されなくちゃいけないんだ? それに、自分の身ぐらい、自分で守れる。あんたの街からも出ていく。無害というなら、放っておいてくれ」
「そうしたいのはやまやまだが、吸血鬼の存在は人の恐怖心を生む。完全に無害というわけにもいかなくてな。野放しにはできんのだ」
「つまり、首輪をつけて飼われろと?」
ノーラの手がルドルフの顎を撫で上げた。
「私の飼い犬は嫌か? 三食昼寝散歩付きだぞ。……いや、さすがに三食は無理だな、一日一食までだ」
「十日に一食で充分だ。だが、あんたのことは気に食わない。交渉は決裂だ」
「そうか、また墓に戻すしかないな」
「ふざけるな!」
ルドルフは唸った。が、筋肉質のノーラにがっしりと身体を押さえられていては、暴れることもできない。
(また棺桶に戻るのは嫌だ! なんとかして助かる方法はないのか!?)
「ところでおまえ、その姿なら鼻が利くのだろう? 人助けをしないか? 対価に解放と、私の血をくれてやる」
この女の血が対価、そう聞いて思わず尾を振ってしまった己が腹立たしい。女に首輪を掛けられ、鎖を握られ、四つ足で瓦礫の隙間に鼻をつっこむのは、かなり屈辱的な状況だ。黒い霧になってしまえば首輪から抜け出せるのに、首輪の力のせいで霧に変化することすらできない。
ノーラの言う「人助け」とは、瓦礫に生き埋めになっている人間を見つけろ、ということだった。狼型なら鼻が利くと思われているようだ。確かに人より鼻は利くが、それは獲物となる若い女を見つけるためのもの。男の匂いなど知ったことではない。しかし、それを告げると血をもらえなくなりそうなので、大人しく従ったふりをしている。
(俺がまだ人を殺したことがないと見くびっているようだが、この女だけは思うままに血を吸い尽くしてやるからな、覚えてろよ……!)
ルドルフが連れてこられたのは、教会前の広場とは違う地区だった。ここもいくつかの建物が崩れ、焦げ臭い匂いや焼けた血の匂いを漂わせている。瓦礫にすがって泣く女や男、子供を抱えて途方に暮れた様子の女、どうにか瓦礫をどかそうと奮闘する男たちがいる。
「この街でなにがあったんだ?」
「戦争だ。たまにミサイルが飛んでくる。そろそろ次の攻撃があるかもしれないな」
ミサイルとやらがどういうものなのかルドルフにはよくわからなかったが、周囲の惨状を見れば、破壊力の高いものだということはわかる。できるだけ多くの人を殺すために作られた、戦争用の武器に違いない。
(愚かな……。三百年経っても人間は戦争を続けているのか。そしてこの街は、そんなものに蹂躙されているのか)
「逃げないのか?」
「逃げたいのはやまやまだが、私は街を守る警備兵だからな。住民を放って逃げるほど無責任じゃないさ」
「それじゃあ、次に埋もれるのはあんたかもしれないな」
「そのときはおまえが見つけてくれるのだろう? 私の血は、おまえが白目を向いて狂うほどにいい香りらしいからな」
「…………。おい、いたぞ」
ルドルフはノーラを無視して吠えた。鼻を突っ込んだ先に、無視できない匂いを感じとったからだ。
「女、それも子供だな。隙間に挟まっているようだ」
「でかした! みんなこっちだ! 集まれ!」
「おまえのおかげで三人の子供が助かった。礼を言う」
日はすっかり暮れていた。最初に出会った路地裏に引っ込み、ノーラが笑顔を見せた。吸血鬼の夜目でなければ見られない、華やかな笑みだった。
「約束通り、解放して、血を吸わせてくれるんだろうな」
ルドルフの尾はさきほどからちぎれんばかりに激しく揺れている。
「本音を言えばもうすこし働いてほしいところだが、腹が減っては戦はできぬ、と言うしな」
ノーラは左腕に巻いていた包帯を解いた。
「あっ、もう血が止まっているか……。少し待て、もう一度傷をつける」
ノーラが腰からナイフを引き抜いた、そのときだった。
空を鳴らす奇怪な音。
「伏せろ!」
ノーラが叫び、ルドルフの頭を抱えて、地面に倒れ伏す。
周囲の悲鳴。それをかき消す轟音。また悲鳴。なにかが焼ける匂い。そして、甘美な血の――
ルドルフが目を開けたとき、周囲は夜よりも暗かった。
「重い」
ルドルフは呻いた。首から上をノーラの腕に押さえつけられていて、頭を左右に動かすこともできない。呼吸を持つ生き物だったら、窒息死しそうな状態だ。
「……ルドルフ、おまえ、予言の力があるのか?」
くぐもったノーラの声。
「あるわけないだろ!」
ノーラが本当に瓦礫に埋まるとは思っていなかったし、自分まで埋まるとは思っていなかった。頭をノーラに庇われたおかげで、腰から下が瓦礫に潰されただけで済んでいる。痛みはとっさに遮断した。
首を動かせないので隣を伺うことはできないが、ノーラもきっと潰されているのだろう。瓦礫の先端が体のどこかに刺さっているのかもしれない。甘い血の匂いに、目眩がする――
視界がくらりと回りそうになったところへ、鼻先にぴちゃりと温かいものが触れた。
鼻腔を満たす、極上の香り。
「ちょうど、よかったな。舐めるぐらいなら、首輪も、締まらないはずだ……」
言われるまでもなかった。ノーラの声などもはや耳に入っていない。ルドルフは狼の舌を伸ばし、夢中で鼻先の雫を舐めとっていた。
甘美な目眩が体内を駆け巡る。毛がざわりと逆立つ。全身が歓喜にうち震えている。これだ、これが欲しかった。三百年、ずっと渇いていた。これっぽっちでは渇きは癒やせない。もっと欲しい。次の雫をがむしゃらに舐める。もっとだ、もっと必要だ。狼の喉元で、首輪が灰になって崩れ落ちる。ルドルフの体は黒い霧となり、瓦礫の隙間から抜け出した。霧はすぐに人型になった。古代風の長衣を身に着けた、金髪緑眼の若い男だ。男は瓦礫に手を掛けると、自分よりも大きな石の塊を次々と放り投げた。
ルドルフは埋もれていたノーラをあっという間に掘り起こした。うつ伏せで倒れているノーラは、右手にナイフを握りしめていた。左腕には、ナイフで抉られた傷があった。瓦礫に埋もれる直前、咄嗟に傷をつけたのだろう。狼の鼻先に落ちた血の正体はこれだったのだ。――ああ、あの雫をまだまだたくさん飲める! ルドルフは血が溢れる傷口にしゃぶりついた。ノーラが痛みに呻くのもかまわず、啜り続ける。
「吸血鬼は、怪力と聞いていたが……すごいな……。狼より、そっちになってもらったほうが、人助けも、捗ったか……」
腰から下が潰れ、うつ伏せで起き上がれぬまま血を吸われているにもかかわらず、ノーラが笑った。
「私はもう、助からない。血をすべて飲んでも、おまえが殺したことには、ならない、はずだ。存分に、吸ってくれ……」
「あんた、もう喋るな」
ルドルフがようやく顔を上げた。口の回りについた血を、乱暴に袖で拭う。そして、ノーラを仰向けに抱え上げた。ノーラがさらなる痛みに呻く。
「……最後、ぐらい、ノーラって、呼べ……」
ルドルフはその要望を無視した。
ノーラの首筋に牙を立てる。血を吸うためではなかった。牙の管を通して、自分の血を送り込むためだ。
「あんたを生かしてやる。俺の血を取りこんでから十年、光の射さない場所で眠り続ければ、あんたは吸血鬼として目覚める」
ノーラが大きく顔を歪めた。
「や、めろ……。血を、吸い尽くされた、ほうが、マシ、だ……」
「あんたは俺を封じた憎いハンターの子孫だ。俺に首輪を掛けたから、あんた自身も憎い。これは復讐だ。あんたに首輪を掛け返してやる」
今が夜というのが悔しかった。老若男女を夢中にさせる繊細な美貌を、この女に見せつけてやりたかったのに。光の中で自分の顔を見た女の反応を、楽しみたかったのに。
ノーラはいつの間にかぐったりと目を閉じて、深く長い眠りに落ちていた。
ルドルフはノーラの額にそっと唇を付けた。
「十年後、この街に戻ってくる。そのとき、あんたは俺の眷属だ」
大きな満月の深夜、とある街の古い墓地で、若く美しい男が一人、土まみれになってせっせと墓を暴いていた。
掘り出した大きな棺桶の蓋をずらすと、月明かりが中に眠る者の肌を照らした。死体とは思えぬほどに美しい女だった。
男の手がそっと女の額を撫でた。それが合図だったかのように、女が目を開けた。
「おはよう、ノーラ」
「街はどうなっている?」
「……第一声がそれか。戦争は終わらせておいた。街もどんどん復興している。一応、議員になって復興委員会に潜り込んだが、俺の出る幕がないぐらい、人間の力もたいしたものだな」
「そうか。なんだかわからんが、街がまだあるならよかった」
男に抱き起こされ、女は月明かりの下で華やかな笑みを見せた。
「ルドルフ、狼のほうが私好みだ」
「ふざけるな。あんたの前では二度と狼にならないからな」
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「街」……? お題とはややズレましたが、ひとつの街への執着みたいなものをお話にしました。時間がギリギリ……!
【世界の終わりに君と】
「マルサンゴーサン、被検体C-013の生命活動停止を確認しました」
機械音声の報告に、私たちがいる業務室はいっときざわついた。
「活動が鈍っていたから、そろそろだとは思っていたけど。永遠なんて、ないものね」
私はデータ整理業務を一時中断し、被検体C-013の収容ポッドに向かった。ほかの研究員たちもあとからぞろぞろついてくる。
被検体収容エリアには、研究所内にいるすべての者たちが集まっていた。みんなC-013のことを気にかけていたのだろう。
活動停止したC-013の体は、すでに機械の手によって回収されていた。生体安定剤が満たされた円筒ポッドの中には、接続先を失ったコードの端子だけがゆらゆらと漂っている。
「滅亡の瞬間はちゃんと記録できてる?」
ポッドの近くにいたC-013の担当者に確認する。
「はい、所長。C-013界は終末期も混乱なく、そのまますべての運動が停止しました」
担当者の操作で、ポッド表面のディスプレイに、被検体C-013とその世界に関する記録が表示される。
おおっ、と歓声があがった。
「素晴らしい状態だわ。時間が停止しているだけなんて。このレコードをもとにほかの被検体を起動させれば、世界を引き継ぐことができるかも」
「しかし、被検体はもう、供給がありません」
「そうだったわね。じゃあ、この世界は、ここでおしまい」
研究員たちのあいだから、落胆の声があがる。私も残念でならない。だが、ない袖は振れないのだ。
私たちは量子脳の研究をしている。人間の脳内の量子的な振る舞いを利用して、情報をコントロールしたうえで新たな世界を造る、そういう研究だ。
ポッドに収容された人間の被検体は、常時夢を見ているような状態になる。新しい宇宙の夢だ。その宇宙では、私たちがいる宇宙の何倍もの早さで時間が流れていく。一炊の夢、という言葉が生まれたように、夢を見ているときの脳の処理は高速なのだ。被検体内に生まれた新しい宇宙は、約百億年の時を刻み、地球と同じような惑星を形成する。惑星では、四十億年以上の時間をかけて、アメーバから人類への進化がシミュレーションされる。
被検体はいわば神、創造神なのだ。私たちの仕事は、神の造りし世界を観測および記録すること。そして、世界の安定化と人類の繁殖が認められたときには、私たちを意識のみの存在へと解体し、新たな世界へ、高次元存在として移住させる――それが研究の最終目標だ。
しかし、研究が必要なだけあって、私たちの移住計画はそう簡単にはいかなかった。世界をどのように永続させるかが、この研究の最後にして、最大の難関なのだ。
被検体の死によって、終わりは必ず来てしまう。世界は人間の脳がなければ創造できないが、人間の脳は死を免れない。一度生まれた世界を人間の脳から取り出して別空間に展開し、独立させることができればいいのだが、そうすると世界はたちまち混乱し、隕石だの核戦争だの大災害だのの理由が発生して、滅亡してしまう。どうしても、〈人間の脳〉という神の庇護が必要なのだ。
私たちは研究を重ね、被検体を通常の寿命よりも延命させることに成功した。しかし、もっとも長生きだったC-013も、三百十五年二十日八時間九分三十一秒で停止してしまった。やはり、終わりは必ず来るものなのだ。
被検体C-013の世界は安定していた。人類は繁栄し、長い歴史の果てに、私たちと同じような研究をする段階まできていた。終わりかたも、被検体の死を前にした混乱による滅亡ではなく、もっとも理想的とされる時間停止。この世界をほかの被検体に引き継がせることができれば、あと百億年以上、世界の寿命が伸びるだろう。私たちが移住し、新たな永遠を研究するのに相応しい世界になっただろう。
だが、次の被検体になれる人間はもういない。
「私たちがアンドロイドでなければ、君の世界を継ぐこともできたのでしょうけど」
私は無線で最上位記録媒体に接続し、被検体C-013が残した記録を自分の中に取り込んだ。私にできることは、そこまでだ。
「さようなら、最後の人間。人間の意識を継いだ私たちの役目も、これでおしまいね」
終わりを知った研究員たちは次々と機能停止していく。全員の停止を見届けてから、私も自分の意識を落とした。
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今週は休むと言っていましたが、面白そうなお題だったのでつい書いてしまいました。世界を滅ぼすのは大好きです。普段はあまり滅亡ネタに偏らないよう気をつけているのですが、今回はお題という大義名分を得て、どうどうと世界を滅ぼすことができました。満足です。