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【街】

 ルドルフにとって、外に出るのは三百年ぶりのことだった。誇張ではない。彼がハンターとの戦いに敗れてから、実際にそれだけの年月が経過していた。自分を封じていた忌々しい結界が消えたので、体を黒い霧に変えて、棺桶の隙間からようやく外に這い出ることができたのだ。
 教会裏の墓地に封じられ、体を締め付ける結界の力に歯を食いしばり、正確な体内時計で月日を数える時間だけを過ごしていた。自分を封じたハンターへ復讐しようにも、とっくに骨になっているだろう。もう、どうでもよかった。長年の封印で、身体も精神も疲弊していた。今はとにかく、女の血を吸いたい。なるべく若い女の血だ。それさえあれば、元の力と人型を取り戻せる。憎いハンターどものことを考えるのは、そのあとだ。
 外は薄曇りの真昼だった。弱い吸血鬼ならここで灰になっているだろう。しかし、太陽光はルドルフの敵ではない。ルドルフはもともと昼間の活動を好む吸血鬼だ。いくら夜目が利く吸血鬼であっても、人間と同じく、光があるほうが獲物を探しやすい。それに、明るい時間帯なら、獲物も油断している。
 ルドルフは光のもとで、三百年ぶりの教会をまじまじと眺めた。墓地を有する大きな教会は、変わらぬ忌々しい威風を保って――いなかった。瓦礫の山になっていた。なにがあったかはわからないが、おかげで封印が解けたということはわかる。
(人にとってはなんらかの悲劇だろうが、俺にとっては僥倖だな)
 瓦礫を横目に教会の敷地から抜け出て、ルドルフは目をみはった。街はすっかり様変わりしていた。教会前の広場は、三百年前に戦ったときと比べて狭くなっている。広場を囲っていた石造りの建物が、瓦礫になって広場になだれ込んでいるからだ。三百年のあいだに街が廃墟化したのかと思いきや、人はたくさんいる。埃と血にまみれた男たちが、大声を上げながら、懸命に瓦礫を取り除いている。
(本当になにがあったんだ? 地震か? そんな揺れは感じなかったが……)
 火事も起きたのだろうか、広場を覆う焦げ臭さに、顔をしかめる。いろんな人間の血の匂いも、混ざり合って漂っている。これでは、目当ての獲物――若い女を見つけにくい。なのに、血の匂いのせいでひどく腹が減るばかりだ。
(ええい、このさい男でもいい。とにかく一滴でも血を……)
 目眩を覚えながらもふらふらと血の匂いにつられて、一人の人間に歩み寄る。地面に横たわって呻いている若い男だ。傷口に巻かれた布が、茶色い血に染まっている。
「おい、野犬に狙われてるぞ! 気をつけろ!」
「追い払え!」
 周囲から瓦礫の石が飛んできた。ルドルフは慌ててよけた。今の状態で大きな傷を受けたら、治癒できずにそのまま死にかねない。
(男たちは気が立っている。女たちは泣いてばかりだ。いったいなにがあったかは知らないが、ここは危険だ。獲物を漁るのはべつの場所にしたほうがいいな)
 男たちの怒号を背に、広場から走り去る。
(人型であれば、こんな状況でも女の一人や二人、たやすく誘惑できるものを……!)
 小型の狼にしか化けられない現状が歯がゆい。この姿で誘えるのは、せいぜい子供ぐらいだ。しかし、街の子供は泣いてばかりで、ルドルフには目もくれない。
 ルドルフが駆け抜けた大通り沿いの街は、さらに様変わりしていた。瓦礫になっているのは教会付近の一角だけで、広場からちょっと離れれば普通の街なのだが、見慣れた石造りの建物よりも、見慣れぬ建材でできた建物が多い。大通りも、石畳ではなく真っ平らな灰色になっている。道のところどころに、大きな金属の箱のようなものが置かれている。四つの車輪がついているから、現在はこれが馬車の代わりなのだろう。走っている金属の馬車も見かけた。金属の尻から、馬糞の代わりにへんな匂いをまき散らしている。
(あれこれ匂いがきつくて、気に食わぬ街になってしまったな。腹を満たしたらさっさと出よう)
 三百年前は、この街を気に入って十年近く滞在していた。不老の見た目ゆえ同じ街に長居できぬ吸血鬼には、珍しいことだった。しかし、こうも街の雰囲気が変わっていては、以前のように気に入ることはできない。次の食事が、この街最後の食事になるだろう。
 一通り走ったところで、足がぴたりと止まった。鼻が気づいたのだ。その匂いに。街全体を覆う焦げ臭さの中に、かすかな甘みが混ざっている。今のルドルフが渇望してやまぬもの――狼の尾が、歓喜に激しく揺れた。
(若い女が血を流している!)
 獲物はすぐ近くにいる。ルドルフの足はふらふらとその方向へ誘われていく。
(なんという甘美な香り……これは極上の血に違いない!)
 牙の隙間から涎が溢れ出そうだった。
 果たしてその女は、人気のない路地にいた。まるでルドルフのほうが誘い込まれたかのようだ。女は左腕を押さえて路地に座り込み、ぐったりと壁に背を預けている。美しく、若い女だ。しかも、上半身は袖や襟のない薄着。血を吸うのにおあつらえ向きだ。いや、わざわざ首や手首に牙を立てて吸う必要はない。舐めるだけで充分。左腕を抑えている指の隙間から、赤い雫が垂れているのが見える。ルドルフの目に、それはなによりも美しく輝く宝石として映った。
(ああ、そういえば、この街で最初に食事した路地裏も、このあたりだったか。三百年間、よくぞ残っていてくれたものだ)
 くねる細い石畳に懐古の念を覚えつつ、ルドルフは恍惚として地を蹴った。大きく開いた口は、まっすぐ、女の左腕を目指す。
 しかし、飛びかかった先にはなにもなかった。着地してはっと気づくと、女がすこし離れた地面に転がっていた。体をひねって避けざまになにかを投げたような姿勢だ。その手から鎖が伸びている。鎖の先は、ルドルフの首輪に繋がっていた。
(首輪!? いつの間に……!)
「捕まえたぞ、吸血鬼ルドルフ」
 じゃらり、と鎖を引っ張って、女が不敵に笑った。


「今朝のミサイルで教会が崩れたからな。おまえのことだ、三百年程度では消滅せず、きっと這い出してくると思っていたよ」
「誰だ、あんた……」
 ルドルフは女を睨み、喉奥で唸った。気の強そうな吊り目も、彫りの深い鼻筋も、やや厚みのある唇も、なにもかもがルドルフ好みの若い女だ。だが、記憶にない顔だ。そもそも三百年も封じられていたのだ、人間の知り合いなどいるわけがない。なのに、女はルドルフのことを知っていて、自らを囮にして罠を仕掛けてきた。
「私のことはノーラと呼んでくれ。私の家に、おまえを封じた記録が伝わっていてな。つまり、おまえの憎き仇の子孫というわけだ」
 ルドルフの全身の毛が逆立つ。
「あんたもハンターか!」
 噛みついてやろうと口を開けるも、首輪がきゅっと締まって痛みが走る。
(くそっ! これじゃ結界の中にいるのと同じじゃないか!)
 せっかく三百年の棺桶牢獄から抜け出せたのに、一滴の血も吸えぬまま罠に掛かって女のハンターに首輪で捕らえられるとは、なんという失態、なんという屈辱。しかも、目の前で血のお預けを食らっているこの状況。理性をかなぐり捨て、ありとあらゆる言葉で女を罵りそうになる。
「吸血鬼ハンターなんて今どき食っていけないよ。私は街の警備兵だ。まあ、街を荒らす吸血鬼を成り行きで狩ることもあるがね」
 首輪を外そうともがくルドルフを見下ろし、ノーラが満足げに笑う。
「私の先祖はおまえのことをだいぶ気に入っていたようでな。記録が詳細に残っている。おかげで、弱っているときは狼の姿になることもわかっていた。その封印の首輪は、先祖がいざというときのために用意していたものだ」
「くそっ! わざわざ結界に封じたりこんなふうに捕まえたりするぐらいなら、いっそひと思いに殺せばいいだろう!」
「先祖のハンターが殺せなかったおまえを、私が殺せるわけないね」
 なにを思ったか、ノーラは鎖でルドルフを引き寄せると、狼の身体を抱きしめた。獲物の甘い匂いが狼の鼻をくすぐり、ルドルフにないはずの鼓動が、大きく跳ねる。グルルル、と意図せぬ唸り声が涎とともに漏れた。
「おまえは強い吸血鬼だ。少量の血で動ける。だから人を殺すほど吸ったことはないのだろう? 誰かを吸血鬼にしたことすらない。吸ったあとの記憶操作のケアも万全。その点では、蚊よりも大人しい生き物だな」
「誇り高い吸血鬼を蚊と並べることが、どれほどの侮辱か知ってるか……?」
 怒りのためか、飢えにもがいていたルドルフの頭がすっと落ち着いてきた。
「おまえが蚊ほども人を殺していないから、祖先はおまえを殺さず、封印だけに留めた。ほかのハンターからおまえを守るためでもあったようだが、それはそれで、誇り高い吸血鬼には地獄だったろうな」
「まったくだ。ただ吸血鬼だというだけで、どうしてあんな苦しみの中に封印されなくちゃいけないんだ? それに、自分の身ぐらい、自分で守れる。あんたの街からも出ていく。無害というなら、放っておいてくれ」
「そうしたいのはやまやまだが、吸血鬼の存在は人の恐怖心を生む。完全に無害というわけにもいかなくてな。野放しにはできんのだ」
「つまり、首輪をつけて飼われろと?」
 ノーラの手がルドルフの顎を撫で上げた。
「私の飼い犬は嫌か? 三食昼寝散歩付きだぞ。……いや、さすがに三食は無理だな、一日一食までだ」
「十日に一食で充分だ。だが、あんたのことは気に食わない。交渉は決裂だ」
「そうか、また墓に戻すしかないな」
「ふざけるな!」
 ルドルフは唸った。が、筋肉質のノーラにがっしりと身体を押さえられていては、暴れることもできない。
(また棺桶に戻るのは嫌だ! なんとかして助かる方法はないのか!?)
「ところでおまえ、その姿なら鼻が利くのだろう? 人助けをしないか? 対価に解放と、私の血をくれてやる」


 この女の血が対価、そう聞いて思わず尾を振ってしまった己が腹立たしい。女に首輪を掛けられ、鎖を握られ、四つ足で瓦礫の隙間に鼻をつっこむのは、かなり屈辱的な状況だ。黒い霧になってしまえば首輪から抜け出せるのに、首輪の力のせいで霧に変化することすらできない。
 ノーラの言う「人助け」とは、瓦礫に生き埋めになっている人間を見つけろ、ということだった。狼型なら鼻が利くと思われているようだ。確かに人より鼻は利くが、それは獲物となる若い女を見つけるためのもの。男の匂いなど知ったことではない。しかし、それを告げると血をもらえなくなりそうなので、大人しく従ったふりをしている。
(俺がまだ人を殺したことがないと見くびっているようだが、この女だけは思うままに血を吸い尽くしてやるからな、覚えてろよ……!)
 ルドルフが連れてこられたのは、教会前の広場とは違う地区だった。ここもいくつかの建物が崩れ、焦げ臭い匂いや焼けた血の匂いを漂わせている。瓦礫にすがって泣く女や男、子供を抱えて途方に暮れた様子の女、どうにか瓦礫をどかそうと奮闘する男たちがいる。
「この街でなにがあったんだ?」
「戦争だ。たまにミサイルが飛んでくる。そろそろ次の攻撃があるかもしれないな」
 ミサイルとやらがどういうものなのかルドルフにはよくわからなかったが、周囲の惨状を見れば、破壊力の高いものだということはわかる。できるだけ多くの人を殺すために作られた、戦争用の武器に違いない。
(愚かな……。三百年経っても人間は戦争を続けているのか。そしてこの街は、そんなものに蹂躙されているのか)
「逃げないのか?」
「逃げたいのはやまやまだが、私は街を守る警備兵だからな。住民を放って逃げるほど無責任じゃないさ」
「それじゃあ、次に埋もれるのはあんたかもしれないな」
「そのときはおまえが見つけてくれるのだろう? 私の血は、おまえが白目を向いて狂うほどにいい香りらしいからな」
「…………。おい、いたぞ」
 ルドルフはノーラを無視して吠えた。鼻を突っ込んだ先に、無視できない匂いを感じとったからだ。
「女、それも子供だな。隙間に挟まっているようだ」
「でかした! みんなこっちだ! 集まれ!」


「おまえのおかげで三人の子供が助かった。礼を言う」
 日はすっかり暮れていた。最初に出会った路地裏に引っ込み、ノーラが笑顔を見せた。吸血鬼の夜目でなければ見られない、華やかな笑みだった。
「約束通り、解放して、血を吸わせてくれるんだろうな」
 ルドルフの尾はさきほどからちぎれんばかりに激しく揺れている。
「本音を言えばもうすこし働いてほしいところだが、腹が減っては戦はできぬ、と言うしな」
 ノーラは左腕に巻いていた包帯を解いた。
「あっ、もう血が止まっているか……。少し待て、もう一度傷をつける」
 ノーラが腰からナイフを引き抜いた、そのときだった。
 空を鳴らす奇怪な音。
「伏せろ!」
 ノーラが叫び、ルドルフの頭を抱えて、地面に倒れ伏す。
 周囲の悲鳴。それをかき消す轟音。また悲鳴。なにかが焼ける匂い。そして、甘美な血の――
 ルドルフが目を開けたとき、周囲は夜よりも暗かった。
「重い」
 ルドルフは呻いた。首から上をノーラの腕に押さえつけられていて、頭を左右に動かすこともできない。呼吸を持つ生き物だったら、窒息死しそうな状態だ。
「……ルドルフ、おまえ、予言の力があるのか?」
 くぐもったノーラの声。
「あるわけないだろ!」
 ノーラが本当に瓦礫に埋まるとは思っていなかったし、自分まで埋まるとは思っていなかった。頭をノーラに庇われたおかげで、腰から下が瓦礫に潰されただけで済んでいる。痛みはとっさに遮断した。
 首を動かせないので隣を伺うことはできないが、ノーラもきっと潰されているのだろう。瓦礫の先端が体のどこかに刺さっているのかもしれない。甘い血の匂いに、目眩がする――
 視界がくらりと回りそうになったところへ、鼻先にぴちゃりと温かいものが触れた。
 鼻腔を満たす、極上の香り。
「ちょうど、よかったな。舐めるぐらいなら、首輪も、締まらないはずだ……」
 言われるまでもなかった。ノーラの声などもはや耳に入っていない。ルドルフは狼の舌を伸ばし、夢中で鼻先の雫を舐めとっていた。
 甘美な目眩が体内を駆け巡る。毛がざわりと逆立つ。全身が歓喜にうち震えている。これだ、これが欲しかった。三百年、ずっと渇いていた。これっぽっちでは渇きは癒やせない。もっと欲しい。次の雫をがむしゃらに舐める。もっとだ、もっと必要だ。狼の喉元で、首輪が灰になって崩れ落ちる。ルドルフの体は黒い霧となり、瓦礫の隙間から抜け出した。霧はすぐに人型になった。古代風の長衣を身に着けた、金髪緑眼の若い男だ。男は瓦礫に手を掛けると、自分よりも大きな石の塊を次々と放り投げた。
 ルドルフは埋もれていたノーラをあっという間に掘り起こした。うつ伏せで倒れているノーラは、右手にナイフを握りしめていた。左腕には、ナイフで抉られた傷があった。瓦礫に埋もれる直前、咄嗟に傷をつけたのだろう。狼の鼻先に落ちた血の正体はこれだったのだ。――ああ、あの雫をまだまだたくさん飲める! ルドルフは血が溢れる傷口にしゃぶりついた。ノーラが痛みに呻くのもかまわず、啜り続ける。
「吸血鬼は、怪力と聞いていたが……すごいな……。狼より、そっちになってもらったほうが、人助けも、捗ったか……」
 腰から下が潰れ、うつ伏せで起き上がれぬまま血を吸われているにもかかわらず、ノーラが笑った。
「私はもう、助からない。血をすべて飲んでも、おまえが殺したことには、ならない、はずだ。存分に、吸ってくれ……」
「あんた、もう喋るな」
 ルドルフがようやく顔を上げた。口の回りについた血を、乱暴に袖で拭う。そして、ノーラを仰向けに抱え上げた。ノーラがさらなる痛みに呻く。
「……最後、ぐらい、ノーラって、呼べ……」
 ルドルフはその要望を無視した。
 ノーラの首筋に牙を立てる。血を吸うためではなかった。牙の管を通して、自分の血を送り込むためだ。
「あんたを生かしてやる。俺の血を取りこんでから十年、光の射さない場所で眠り続ければ、あんたは吸血鬼として目覚める」
 ノーラが大きく顔を歪めた。
「や、めろ……。血を、吸い尽くされた、ほうが、マシ、だ……」
「あんたは俺を封じた憎いハンターの子孫だ。俺に首輪を掛けたから、あんた自身も憎い。これは復讐だ。あんたに首輪を掛け返してやる」
 今が夜というのが悔しかった。老若男女を夢中にさせる繊細な美貌を、この女に見せつけてやりたかったのに。光の中で自分の顔を見た女の反応を、楽しみたかったのに。
 ノーラはいつの間にかぐったりと目を閉じて、深く長い眠りに落ちていた。
 ルドルフはノーラの額にそっと唇を付けた。
「十年後、この街に戻ってくる。そのとき、あんたは俺の眷属だ」


 大きな満月の深夜、とある街の古い墓地で、若く美しい男が一人、土まみれになってせっせと墓を暴いていた。
 掘り出した大きな棺桶の蓋をずらすと、月明かりが中に眠る者の肌を照らした。死体とは思えぬほどに美しい女だった。
 男の手がそっと女の額を撫でた。それが合図だったかのように、女が目を開けた。
「おはよう、ノーラ」
「街はどうなっている?」
「……第一声がそれか。戦争は終わらせておいた。街もどんどん復興している。一応、議員になって復興委員会に潜り込んだが、俺の出る幕がないぐらい、人間の力もたいしたものだな」
「そうか。なんだかわからんが、街がまだあるならよかった」
 男に抱き起こされ、女は月明かりの下で華やかな笑みを見せた。
「ルドルフ、狼のほうが私好みだ」
「ふざけるな。あんたの前では二度と狼にならないからな」


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「街」……? お題とはややズレましたが、ひとつの街への執着みたいなものをお話にしました。時間がギリギリ……!

6/12/2023, 9:35:53 AM