【あいまいな空】
意識は明瞭、コックピット内の酸素も安定している。バイタル問題なし。
加速度圏を抜け、水平にしていたシートを起こす。
モニターで後方の映像を確認する。真っ黒な宇宙空間の中、灰色の雲をまとった地球がくっきりと浮かび上がっている。
地球からの脱出成功、これで晴れて自由の身だ!
シートベルトを外しざま、飛び上がってガッツポーズをとった。
そんな自分の姿が、コックピットのスクリーンに反射で映り込む。
おろしたてのパイロット服はぶかぶかで、不自然なほどに似合っていない。
(あれ、ヒゲも三日ぐらい剃ってないし、髪もボサボサじゃん。俺、こんな感じだっけ……)
首をかしげたそのとき、船内に警報が鳴り響いた。
正面モニターいっぱいに映し出された、巨大な隕石の陰。
避けきれない、ぶつかる!
頭を抱えて縮こまった。耳をつんざく轟音とともに、意識は黒い影に覆われた。
はっと目が覚める。――なんだ、夢か。
全身の緊張を解いて息をつき、警報、もとい枕元のアラームを叩いて止める。
上半身を起こして、もう一度深く息をつく。夢の記憶は、ひと呼吸ごとにあいまいになっていく。ばくばくと波打つ鼓動や、肌に張り付く冷や汗の感触は残っているのに、どんなシチュエーションの夢だったか、もう思い出せない。
ベッド脇のカーテンを開ければ、あいも変わらずどんよりとした曇り空だ。きっと雨が降るだろう。今日も行き帰りに防護服が必要だ。クリーニング済みのもの、まだ残ってたっけな。
ヒゲを剃って身支度を整え、防護服を着込み、寮を出る。職場はここから徒歩五分、宇宙船の発着ベースだ。
ベース内に入り、整備士用のロッカールームに向かう途中で、白い制服をきりりと着こなしたパイロットたちとすれ違う。ふっと、夢の記憶が回帰する。あの制服を、自分は不格好に着ていたような気がする。
(パイロット、憧れだもんな……)
本当の職業は、しがない整備士だ。同じ宇宙船に関わる業務でも、花形のパイロットと裏方の整備士では、給料にも待遇にもイメージにも権威にも、雲泥の差がある。
(俺も乗りてぇなぁ……)
パイロットたちのように宇宙船に乗って、どこかに行けたらいいのに。どこに行きたいかは、わからないけれど。
ただ漠然とした「行きたい」という思いだけが、胸をきゅっと締め付ける。
(あれ、俺、泣いてる……?)
頬を濡らす冷たい感触に驚き、慌てて顔を袖で拭った。
顔を上げると、いつの間にか同僚と肩を並べて立っていた。整備を終えた宇宙船がブースから出て行くのを、二人で見送っている。
あれは火星行きの新しい船だ。もう完成していたのか。
「火星の空って、どんなだろうな」
同僚がつぶやく。
「赤いらしいな」
「へぇ、イメージ通りだ」
「それで、夕焼けは青いんだってさ」
「へぇ、見てみたいな。地球でも、もう青い空は見られないもんな」
それなら、こんど自分が宇宙船に乗るときに誘ってやろう――でも、こいつ、誰だっけ。同僚の名前と顔を思い出そうとしていたら、ベース内に警報が鳴り響いた。同時に、周囲の明かりがふつりと消える。
「なんだ!?」
「巨大隕石が落ちてくるぞ!」
同僚はそう叫んで、どこかに駆けだしてしまった。一人、電源の落ちた真っ暗な整備ブースに、警報音とともに残される。
ふいに、今朝見た夢の記憶が蘇る。隕石、あれは正夢だったのか――
身がすくんで立ち尽くしたところで、上から迫る大轟音に、意識が呑まれた。
はっと目が覚める。――なんだ、夢か。
全身の緊張を解いて息をつき、警報、もといアラームを叩いて止める。
上半身を起こして、もう一度深く息をつく。夢の記憶は、ひと呼吸ごとにあいまいになっていく。ばくばくと波打つ鼓動や、肌に張り付く冷や汗の感触は残っているのに、どんなシチュエーションの夢だったか、もう思い出せない。
カーテンを開ければ、昨日と同じ、あいまいな空模様だ。そのうち雨が降るだろう。今日も傘が必要だ。昨日使ったやつ、ちゃんと乾かしておいたっけ。
アパートを出ると、コンクリートの湿った匂いが鼻をついた。
匂いのせいか、ふっと夢の記憶が回帰する。永久に晴れない灰色の空、蒸し暑い防護服、頬を濡らした涙。
ぽつりと、頬に雨の気配を感じた。慌てて傘を広げる。
安いビニール傘は、なんだか頼りない。雨が触れた頬を、ゴシゴシと拭う。防護服を着なくて大丈夫だっただろうか――防護服って、なんだっけ。
……そもそも自分はいま、どこに向かおうとしてたっけ?
ふいに、街中にけたたましい警報の音が響いた。近くのスピーカーが「隕石です!」と叫ぶ。ビニール傘を透かして頭上に目を向けると、黒い影がすぐそこに迫っていた。
思わず頭を抱えて縮こまった。耳をつんざく轟音とともに、意識は黒い影に覆われた。
はっと目が覚める。――なんだ、夢か。
緊張を解いて息をつき、警報、もといアラームを叩いて止める。
「…………」
上半身を起こし、額を押さえる。頭がくらくらしている。
長い夢を見ていた気がする。夢と現実の境界があいまいで、どこからどこまでが本当の記憶かわからない。いまはちゃんと現実だろうか?
起き上がってベッド脇のカーテンを開ければ、あいも変わらず憂鬱そうな灰色の空だ。きっと雨が降るだろう。
外出の予定はないから、自分には関係ないけれど。
……本当に?
窓ガラスに淡く映る自分が、首をかしげた。
本当に、外出の予定はなかったっけ?
どこかに、行こうとしてなかったっけ?
なにか大切なことを忘れているような気持ち悪さが、吐き気となって込みあげてきた。
遠くで、警報のようなベルがジリリと鳴った。
はっと目が覚める。――夢、だった……?
音を止めようとして枕元を探るが、ベルの本体はベッド脇に立つ者の手にあった。細長い指先が、優雅な動きでベルを止める。ベッド脇のテーブルにベルを置く。
「おはよう。目が覚めたな」
彼女が顔を覗き込んでくる。
「お、おはようございます……」
彼女の整った顔の向こうに、無機質な白い天井が見える。
ベッドから身を起こそうとして、頭にごちゃごちゃとコードがついていることに気づく。白衣を着た彼女が、丁寧な手つきでコードを外していく。
「さて、君の夢をいくつか見せてもらったよ」
彼女はそう言って淡く微笑むと、近くの椅子に腰掛けた。手元のタブレットを操作しはじめる。
その姿を見て、これまでの記憶がどっと押し寄せてきた。
(あ、こんどこそ現実だ……)
身を起こし、はだけた診察衣の前を合わせ、ベッドの端に腰掛けて居ずまいを正す。
ここは、夢を使ったカウセリングを謳う医療機関だ。白衣の女性は、担当の精神科医。二十代の若造だと言っていたから、自分と同年代かもしれない。普段の真顔はなんとなく怖いが、笑うと顔全体がふんわり柔らかくなる。
この病院に来たきっかけは、彼女だ。通勤途中、横断歩道の待ち時間、ふと灰色の空を見上げたら、急に涙が溢れて止まらなくなった。防護服越しでは、目を拭えない。どうしようかと慌てていたら、後ろから肩を叩かれた。「君、顔色悪いね。なるべく早めにここに来てくれ」そう言って名刺を渡してきたのが、同じ防護服に身を包んだ彼女だった。
名刺には病院名だけが書かれていた。住所を見たら、職場のすぐ近くだった。さらにネットで調べたら、診察の予約は一カ月先まで埋まっていた。直近で予約をとって、あり余っている有給で都合をつけ、ここに来た。複数いる医師の中で彼女が担当になってくれたのは、幸運な偶然だった。
ちなみに職場は宇宙船の発着ベースではない。そもそも整備士なんかじゃなかった。それよりもっと手前の製造業――宇宙船の部品を製造する工場の、しがない作業員だ。整備ブースどころか、発着ベースの敷地にも、入ったことはない。
住んでいる場所は、職場から徒歩五分の独身寮。たった五分の距離を、毎日のように、蒸し暑い防護服で通っている。雨の降りそうな日は、汚染物質から身を守る防護服が欠かせない。
夢の中で広げたビニール傘は、まだ地球が汚染されていなかった日の記憶だ。あのころの雨は、ただの水で、無害だった。
夢の終わりに毎回襲ってくる隕石は、子供時代のトラウマ。あの日以来、地球も生活も、なにもかもが変わってしまったから。
隕石災害は父と母を奪い、自分を天涯孤独にした。
「君は現状にずいぶん閉塞感を抱いているようだな」
タブレットから顔を上げ、女医が言った。
「はい……」
わかりきったことだ。
どんなにパイロットに憧れようとも、憧れを掴めるような技能や頭脳は持ち合わせていない。高校一年で両親と祖父母を亡くし、勉学を諦めて就労した。あれ以来、工場の部品を生産するための部品、という立場から、抜け出すことができない。
「それで、私からの提案なんだが」
ふいに、肩に手を置かれた。
「私と一緒に、火星に行ってみないか」
「……は?」
「私も見たいんだ。青い夕焼けを」
「はぁ……」
まじまじと見つめ返してしまう。女医は怖いぐらいの真顔だった。
「ん、青かったら焼けてないな。いや、高温のガスバーナーの火という可能性も」
「いや、あの……」
「自分でもわかってるんだろう? 君は地球から抜け出さない限り、病む」
「……そ、そうですね……」
そうだ、すべてはあの空のせいだ。あのあいまいな色の空が、どこにも行けない、何者にもなれない自分の現実を突きつけてくるから――
「まあ、実際多いんだよ、君のような人は。そろそろ『地球閉塞症候群』とか病名がついてもおかしくないぐらいにね。あんなふうに、四六時中空を覆われてちゃあね」
ばん、と、大きく肩を叩かれた。
「それなら、突き抜けてみようじゃないか、あの空を! 火星に向かって!」
診察室の上部、小さな明かり取りの窓を指さして、女医は朗らかに笑った。
「……い、いや、火星っていっても、次の宇宙船はまだ製造中ですよ……。部品だって、まだ納品しきれてないのに……」
「だから、さっさと完成させて行くんだよ。君が部品を作った宇宙船で」
「俺が、部品を作った、船で……」
すっと胸が開けたような気がした。
そうか、そんな可能性もあるのか。
この船、俺の作った部品が使われてるんだぜ、なんて誇らしげに言いながら、火星までの船旅を楽しむこともできるのか。
火星移住は、特殊な訓練や健康診断をくぐり抜けてライセンスを獲得した者だけの狭き門だ。しかし、ただの観光旅行なら、門戸は一般人にも開かれている。
火星旅行ぶんの有給ならいつでもあり余っている。趣味もなく彼女もいない自分には、休む理由なんてなかったから。
火星旅行ぶんの貯金もある。趣味もなく彼女もいない自分には、生活費以外の余計な出費なんてなかったから。
しかし、工場作業員のしょぼくれた給料では、スペースパスポートの許可が下りるかわからない。
火星行きのチケットだって、毎回とんでもない競争率だ。抽選に当たる勝算はほぼゼロ。
行きたい、とはやる気持ちが、行けそうにもない現実に、押し負けそうになる。
だいたい、彼女が「一緒に行こう」と言ってくれたのだって、患者を元気づけるための冗談だろう。出会ったばかりの美人女医と冴えないいち患者の旅行なんて、夢物語にもほどがある。
だけど。閉塞していた思考に一度でも可能性の風穴を穿たれてしまったら――夢を見ずにはいられない。
一人旅でも充分。可能性が限りなくゼロに近くてもいい。自分が部品を造った船に乗って宇宙に出られるかもしれない、そう考えるだけで、なんだかわくわくしてくる。
「お、血色が戻ったな。その調子」
女医がニヤリと、悪友のような笑みを見せる。
「……おかげさまで……明日から、ちょっと頑張れそうです」
「ああ。チケットが取れたらぜひ教えてくれ」
「……本当に、先生もいらっしゃるとは……」
その後、火星行き宇宙船の乗客エリアで、自分が呆然と立ち尽くすことになろうとは、夢にも思わなかった。
「医師特権というやつだ」
二年ぶりに再会した女医は、涼しげな顔で乗客席に座り、長い足を組んでいる。
「しかも、俺が先生の隣の席なんて……」
「運がよかったな」
女医は意味ありげにニヤリと笑った。
「……同行者、俺でいいんですか?」
「そもそも、私は最初のときから君をナンパしたつもりだったが?」
「へ?」
「いいから、さっさと座れ」
女医は男友達のような仕草で、肩に腕を回してきた。
「さあ、出発だ! 人生のバカンスを楽しもうじゃないか!」
二人の手にはいつの間にか、乾杯用のビールジョッキが握られていた。
※ ※ ※
「悪夢のループを抜け出して、幸せな夢に移行したようだな」
タブレットで患者の夢の映像記録を確認し、担当の女医は微笑んだ。
「予定時間超過してますよ、そろそろ起こさないと……」
看護師の青年が覚醒用のベルを手に取る。女医はそれを片手で制した。
「もうちょっとだけ寝かせてやれ」
「先生の昼食時間、なくなりますよ?」
「ここで摂るよ。適当なデリバリーを寄越してくれ」
「まったく、いつも患者優先なんですから。少しはご自身も大切にしてくださいね」
看護師は呆れ顔を隠さずに、診察室を出て行った。
女医はふっと笑った。目の前に横たわる患者の眦から、そっと涙を拭う。
「優先したくもなるさ。彼の中の私が、幸せそうだからな」
明かり取りの小さな窓に目を向ける。今日も地球の空は塞ぎ込んだ灰色だ。だが、いつかは抜け出せるだろう。その夢を支える者たちの一人が、いまここで、新しい夢を見ているから。
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明日と土日は、書く習慣おやすみします。
6/15/2023, 6:56:44 AM