sleeping_min

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【あじさい】

 別れる男には、花の名前を教えておくといい。
 そうすれば、季節が来るたび、自分のことを思い出さずにはいられないだろうから。
 川端康成だったか、そんな意味のことを言ったのは。
 彼女のことだ、花なんてまったく意識していなかっただろう。
 そもそも、俺たちはそんな関係ですらない。
 でも、彼女はひとつの花の名前を、俺の中に残していった。
 彼女に教わるまでもなく、もともと馴染みのある花だったけれど。
 六月になると、あの満開の笑顔とともに、どうしても思い出さずにはいられない。
 今年も、家の庭にアジサイが咲いた。


 俺の家は古い平屋だ。ひい祖父ちゃんの代から建っているらしい。襖で区切られたいくつもの和室と、軋む縁側と、アジサイの咲く庭園がある。
 家も庭も広いので、法事や祝い事など、なにかにつけて親戚が集まる。俺が彼女に出会ったのも、そうした集まりの中でのことだ。
 彼女は俺の三つ上の従姉だったから、ものごころついたときにはもう出会っていたはずだ。しかし、記憶に残っていない。彼女を初めて認識したのは、彼女が十三歳のときだった。
 仏間の棺桶の前でむせび泣く親父や母さんの姿がいたたまれず、俺は一人で庭に降りていた。アジサイが満開の季節だった。グラデーションで色とりどりに咲く花のそばに、真っ白なセーラー服を着た少女が佇んでいた。いまにも泣きそうな重い灰色の空の下、アジサイと彼女だけが清涼な光を纏っていて、目を奪われた。
 よく見ると、彼女はアジサイの葉っぱを貪っていた。
「それ、おいしいの?」
 思わず声をかけてしまった。彼女は振り向き、緑色の歯でニィッと笑った。
「不味いよ。アジサイの葉っぱって、毒があるんだって」
「えっ」
 なぜ自ら毒を? 死ぬ気か? 止めるべきか? 大人たちを呼ぶべきか? どうやって? いろんなことが、一瞬で脳裏を駆け巡る。
「あ、毒と言っても死ぬほどじゃないよ。具合が悪くなるだけ。だから、実際に体がどんなふうになるのか、確かめたくって」
「……馬鹿なのか?」
「あはは、紙一重ってよく言われる」
 当時、カミヒトエがどんな意味か知らなかったが、こいつは馬鹿がつくほど好奇心旺盛なやつだ、というのはよくわかった。
 その後の読経の時間に彼女は嘔吐し、救急車で運ばれていった。いま思えば、大迷惑なやつだった。
 彼女のしでかしはあまりにも印象的で、俺は親戚の集まりがあるたびに、彼女の姿を探すようになった。そして、まだ彼女が生きていることにほっとした。


 アジサイ服毒事件から二年と二ヶ月後、彼女は法事でもなんでもないのに、一人で俺の家に来た。
 大きくて細長いダンボール箱を夜の縁側に持ち出し、中身を組み立てている。その様子があまりにも嬉しそうだったから、気になった。俺は寝床にしていた仏間から出て、鼻歌混じりの彼女に声をかけた。
「なにをしてるんだ?」
 彼女は満開の笑顔で振り向いた。
「これ、天体望遠鏡! 本家の叔父さんが誕生日プレゼントで買ってくれたの!」
 彼女にとっての本家の叔父、それはつまり、俺の親父のことだ。
 俺は今年の誕生日プレゼントをもらっていないのに、親父のやつ、親戚の子には気の利いた誕生日プレゼントを贈っているらしい。かるい嫉妬を覚えて、彼女を睨んだ。
「なんでわざわざうちで組み立てるんだ? プレゼントなら、自分の家に持ち帰ればいいのに」
「うち、都心だしベランダ狭いから、あんまり星の観測に向いてないの。ここは庭が広いでしょ。だから、しばらくここに望遠鏡置かせてもらうことにしたの」
 彼女は俺の睨みなど意にも介さず、鼻歌を再開して手際よく天体望遠鏡を組み立てていく。
「今日はちょうど、この方向にあじさいが見えるはず」
「アジサイ? もう終わってるだろ」
 いまは八月だ。庭のアジサイの花はとうに枯れ、葉っぱしか残っていない。まさか、また葉っぱを食べる気か?
「あじさいは終わってないよ。四十年動き続けてるんだよ」
「動く……?」
 根っこや葉を蠢かせたアジサイの化け物が、脳裏をよぎる。
「人工衛星の名前が、あじさい、なの」
 なんだ。庭のアジサイが化け物になったわけじゃないのか。
「ずっと望遠鏡で見てみたかったんだ。肉眼でも見えるらしいけど、星と区別つけられる自信ないし」
 望遠鏡はもう組み上がったようだ。手元の方位磁針やスマホの画面を忙しく見比べつつ、三脚やレンズの位置をずらしている。
「あじさいの打ち上げは、四十年前の今日だったんだよ。私の誕生日と同じなの! 測地のための人工衛星でね、太陽光やレーザーを反射するぴかぴかの板で覆われててね、アジサイの花っていうよりは、ほぼミラーボールなんだけどね」
 早口で喋り倒しながらレンズを覗き込む。かと思えば急に黙り込み、真剣な顔で望遠鏡の端をいじりだす。ほどなくして、
「あった、あったよーっ! 見えたーっ!」
 幼児のようなはしゃいだ歓声をあげる。
 振り向いた彼女の視線が俺を捉える。きらきらと瞳を輝かせた、満開の笑顔。まるで水をたっぷり浴びたアジサイの花のような。
「ほら、君も見てみなよ!」
 手招きされ、ふらり、と近づいてしまう。
「あっ、そういえば君、本家の陽太郎くんだっけ? まだこんなに小さかったんだ?」
 彼女が頭を撫でようとしてきたので、俺はさっと避けた。
「ソラちゃん、一人でもう組み立てちゃったのかい?」
「あっ、叔父さん、原稿集中してるときに騒いですみません、お構いなく!」
「気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。僕にも見せてくれるかい?」
「もちろん!」
 彼女の歓声に釣られてか、にこにこ顔の親父が部屋から出てきたので、俺は逃げるように自室に戻った。


 その後、彼女は天体観測のために頻繁に家を訪れるようになった。望遠鏡を覗いてははしゃぐ彼女を、俺は自室から眺めるだけだった。彼女の前に姿を晒すのが怖かった。きっと、いつまでも子供扱いされてしまうから。
 やがて、彼女の足はぱたりと途絶えた。親戚の集まりにも、姿を見せなくなった。
 天体望遠鏡は、蔵に仕舞い込まれた。
 何年か後、親父と妹の会話で、彼女が宇宙飛行士の選抜試験に合格したことを知った。それからさらに数年後、彼女は意気揚々と宇宙に旅立っていったそうだ。「宇宙はもう、私の庭です!」そんな迷言とともに。
 あじさいよりも、遠い星へ。
 俺は地上の庭で、六月が来るたびにあのアジサイのような笑顔を思い出しながら、彼女の帰還と再訪を待っている。
 時間の流れから取り残された俺は、十歳の姿のままだ。彼女に追いつきたくて親父の本棚で本を読み漁ったこともあったが、頭がよくなれば成長するというものでもないらしい。どうあがいても、俺は子供。彼女は俺の知らない場所で年老いていく。
 だから彼女に追いつくことは諦めた。どのみち、俺はこの家から出られない。そして、宇宙はあまりにも、遠い。
 ここに天体望遠鏡があれば、彼女がいる外の世界をすこしは覗けたのかもしれない。あの日、彼女の手招きに応じて望遠鏡を覗かなかったことを、後悔している。宇宙のあじさいがどんなふうに花開いているのか、そんなことも知らないままだ。だから教えてほしい。俺の前でもう一度、天体望遠鏡を組み立てて、手招いてほしい。
 叶わぬ願いだということはわかっている。大人になった彼女の目は、もう俺を見つけられない。そして、宇宙のあじさいも、とうに寿命を迎えたはずだ。
 俺にも寿命はあるのだろうか。あと何回、満開のアジサイを眺めることができるだろうか。
 庭に立ち、篠突く雨に手をかざす。以前よりも薄くなった体は、雨の線にかき消されそうだ。だが、まだ消えるつもりはない。ずっとこの家に居座ってやる。せめて、彼女をこのアジサイの庭で迎える日までは。
 親戚の葬儀はすべて、この家で執り行われる。だから、確信がある。どんなに遠く離れても、彼女は必ず、ここに戻ってくる。

 ※ ※ ※

「取り壊しやめるって、ほんと?」
「そうなのよ。あんたの結婚を機に、いったん更地にして建て替えたかったんだけどねぇ」
「お父さん、なんで心変わりしたんだろ」
「取り壊し決めた日、お父さんの夢枕に、陽太郎が出てきたらしいの。すごい顔で睨んできたって」
「えっ、怖っ。お兄ちゃん、成仏しないで家に憑いてるの……?」
「まだ子供だったものね。成仏なんて、わからなかったんじゃないかしら。それで、座敷童子みたいになってるのかも」
「あー、法事で集まる子たちがときどきなんか目撃してたみたいだけど、お兄ちゃんだったのかな……」
「あの子が守ってくれてるなら、ボロ屋でも大丈夫だろう、せめて私たちの代だけはこのままにしようってことになったの。私たちが死んだら、あんたは好きなようにしていいから」
「ふーん、ま、お兄ちゃんがいるなら、私も残しておこうかな。この家と庭、けっこう好きだし」
 縁側に並んだ母と娘が、雨上がりの庭を眺める。満開のアジサイは雫に濡れて、きらきらと輝いている。

6/14/2023, 7:03:55 AM