【繊細な花】
お嬢様は心も体も、まるでガラス細工のように繊細なかたでございました。ふわりと広がる銀の髪に淡い銀の瞳、色素の薄い唇や肌。触れれば壊れそうなほどに細い四肢。
そのお嬢様が咲かせた花は、まさにガラス細工のように繊細で、この世に二つとない、誰も知らぬ花でございました。
わたくしは公爵家の専属医ですから、お嬢様の病については、後の人にも引き継げるよう、詳細な記録を残しております。
狂い花の病――人体から花が咲きやがて死に至る奇病はかねてより知られておりましたが、お嬢様はこの病に罹り、わずか十九歳にして、花とともに命を落としたのでございます。
狂花病は若い女性だけが罹る病で、恋心によって発症すると言われております。
ああ、恋、そのような不健全な心の働きが、どうして人間に植え付けられているのでしょう。かつて人間を創りし神が、人体に施したこの理不尽なる心の不思議。古き時代の書物をあたると、恋はつがいを見つけるためのもの、と書かれておりますが、恋をしたからと言って、つがいになれるとは限りません。どうしてもつがいが欲しいときは、恋などせずとも、神殿の仲介でつがいになれましょう。そちらのほうが、理不尽な病に身を焦がすよりも、簡便で安全で確実、わたくしたちはそう学んでおります。
恋は狂花病のほかにも、さまざまな病を呼び寄せます。それゆえ、わたくしたちの国では、はなから恋を禁じております。そもそも、恋自体が、ひとつの病でございますゆえ。
かつては「恋につける薬はない」などと言われていたようですが、研究が進み、わたくしたちは恋の特効薬を得られるようになりました。たとえ恋心を生じたとしても、その薬を数日続けて飲めば、心は平静すっきり、恋の熱など冷めるようになっております。
ですから、公爵家専属医として、わたくしはお嬢様の恋心にいち早く気づき、薬を処方すべきだったのです。手遅れになる前に、恋の病を消しておくべきだったのです。
しかし、お嬢様はたいへん巧妙に恋心を隠しておられました。「消されたくなかったから」と。「あなたにそれを消されるなんて、私、耐えられないわ」と。
ええ、その結果がこのような事態になっては、わたくしがなにを言ってもあとの祭り。お嬢様の恋心を見逃した専属医など、公爵様がお許しになるはずもございません。わたくしはこの命をもって、取り返しのつかぬ過ちをお詫びする所存でございます。
お嬢様の恋のお相手がどなたかは、まだ知られておりません。公爵様は躍起になって探しておられますが、お嬢様のほうが一枚うわて、その恋心は、鍵のかかる日記にすら残されておりませんでした。
公爵様はたいへんお嬢様を可愛がっていらっしゃいましたので、お嬢様がまだ歩けぬうちから、どんな殿方も近づくことを禁じておりました。二つ上や五つ上のご兄弟ですら、対面が叶わなかったそうです。公爵様の対策はいき過ぎの感もありますが、この国の男女はそうやって、若いうちは対面せぬように過ごしております。学校も生活も住む地区も、なにもかもが分たれております。二十歳になってようやく、男女が顔を合わせることが許されるのです。二十歳を越えれば、狂花病をはじめとした恋を主因とする病は、発症率が極めて低くなりますから。
お嬢様は甚だ蒲柳の質でございまして、もともと、二十歳を越すのは難しいと言われておりました。師の引退と同時に専属医を引き継いでからの二年間、わたくしは毎日のようにお嬢様のご様子を伺い、咳の病なら咳に効く薬を、頭痛の病なら頭痛に効く薬を、熱の病なら熱に効く薬を処方しておりました。お嬢様はいつも脈が早く、熱っぽい日が続いていたのですが、いま思えばそれは、恋の病のせいだったのかもしれません。
お嬢様は、体調のよろしいときでも自室のベッドに横たわり、運動をするということがありませんでした。ベッドで上半身だけを起こし、天蓋の隙間からベランダの外を眺めては、ただぼんやりと時を過ごしておられました。お嬢様の肌は日に当たるとかぶれるので、外に出られぬのは仕方のないことではありましたが、普段のご様子は、まるで、自らを檻に閉じ込めているかのようでありました。お嬢様には、生きる気力というものが見受けられなかったのでございます。
師から引き継いだ話によれば、二十歳まで生きるのが難しい体と知ってから、お嬢様はずっとこのように動かず、まるでベッドに根を生やした植物のように過ごしていらっしゃったとのこと。繊細なお嬢様のこと、医師の宣告に絶望し、あらゆるものを諦めて、死を待つばかりのお心であったのだろうと、お察しいたします。
ですから、お嬢様に花が咲いたとき、わたくしは――専属医としてはあるまじきことですが――喜ばしく思ったのです。ただ二十年を屍のように生きて朽ちるよりも、最期に溢れんばかりの花を咲かせて散っていくほうが、美しきお嬢様に相応しいと――そう思ってしまったのでございます。そのためならば、どうして恋を禁じることができましょうか。恋の病は、狂花病は、お嬢様に花を咲かせるために存在していたのではないかとすら思いました。
とはいえ、お父君の公爵様は、恋を許しておりません。
お嬢様に花を咲かせた犯人を探し出してどのようにするおつもりかと公爵様に問えば、「殺して娘と一緒に埋める」とのお怒りよう。いいえ、怒りではなく、公爵様なりの、お嬢様への愛でございましょう。憎き相手とお嬢様を一緒にするおつもりなのですから。
しかし、犯人が見つかるはずもないのです。殿方を探しているあいだは。
お嬢様のおそばには、過去から現在に至るまで、公爵様を除いて、女性しかいないのですから。
お嬢様の発症は、十九歳の誕生日を迎えられて間もなくの、冬のことでございました。
わたくしは一日の休暇をいただいて、つがい探しの申請のために故郷の神殿へと赴いておりました。二十五歳ともなれば、そろそろつがいが必要だろうと、公爵様に勧められたのでございます。
夜半を過ぎて故郷の神殿から公爵邸へ戻ると、侍女長が青い顔で待っておりました。お嬢様が熱を出したとのこと。わたくしは外套を脱ぐことも忘れ、慌ててお嬢様のお部屋に駆けつけました。
お嬢様は眠りに落ちることなく、わたくしを待っておりました。
「ああ、よかった、戻ってきてくれたのね」
お嬢様はとても心細そうに声を震わせました。わたくしの掌を所望し、嬉しそうに頬を擦り寄せました。お嬢様の熱が、雪の降り始めた外から帰ってきたわたくしの指先を、じんわりと温めました。思っていたよりも熱が高かったので、わたくしは自室から薬箱を持ってくるよう、侍女に頼みました。
「神殿に行ったと聞いたわ。つがいは見つかりそう?」
「二、三日中には、とのことです」
「つがいになったら、あなたはここを辞めてしまうの?」
「いいえ、お嬢様。わたくしは引き継がせるべき弟子もまだとっておりませんし、出来うる限り長く公爵家にお勤めさせていただきたいと思っておりますよ」
お嬢様の顔がぱっと輝きました。
「それならよかったわ。私、最後はあなたに看取ってもらいたいもの」
「そのようなことはおっしゃいませぬよう。お嬢様がその気になれば、しわしわのお婆様になるまで生きることもできましょう」
お嬢様は首を横に振りました。
「私、そんなに長く生きたいとは思わないの。二十歳になれば、神殿代理の国王様の仲介で、つがいが決まるわ。その後はすぐ、知らない男の人の家で、飾られて過ごすことになるの。どうせ子供は産めないし、ここにいるのと、なにも変わらないわ」
まるで熱に浮かされたかのように、その夜のお嬢様は饒舌でございました。
「私、男性とつがいになんかなりたくない。あなたがほかの人とつがいになるのも嫌。だから今日一日、とても苦しかったの。私、つがいになるならあなたがいい」
そのときです、お嬢様の胸元から、溢れるように花が咲いたのは。
「ああ、とうとうあなたに知られてしまったわ」
お嬢様は笑いました。その口元からも、花が溢れ落ちました。お嬢様そのもののような、透き通った花びらの、見知らぬ花でございました。
「これまで隠していたぶん、もう止まりそうにないわ」
熱で潤んだ瞳が、わたくしを見あげました。
「あなたが好きなの。あなたがここに来た二年前から。いま思うと一目惚れだったんだわ。毎日、あなたのことを考えていたわ。どうやったらあなたにずっとそばにいてもらえるのか、あなたに私を見てもらえるのか、そんなことばかりを。私、自分が病弱で良かったと、いまは心から思ってるわ。だって、あなたにたくさん診てもらえるもの」
お嬢様が喋るたびに、花が溢れます。燭台の光できらきら輝く花と、その花に縁取られたお嬢様をあまりの美しさに目を奪われて、わたくしは言葉を失っておりました。恋心を秘めれば秘めるほど美しく咲き乱れると言われる花の病。お嬢様が咲かせた花は、この世のどんな花よりも輝かしいものに思えました。
そして、その花を咲かせたのは、わたくし――
「真っ直ぐに私を見てくれるあなたの黒い瞳が好き。ふとした拍子に微笑むあなたが好き。長い黒髪がふわりと揺れるのが好き。細くてひんやりした手が好き」
「おやめください、お嬢様、それ以上喋っては――」
「優しく、まるで壊れものを扱うかのように私の脈を測る手が好き。触れられるだけでドキドキしてしまうの。薬を水に溶くときの真剣な顔が好き。私のことをノートに記録するとき、ときどき遠くを見るような目をしてペンをくるりと回すその仕草が好き。あの目でなにを考えているの? いつもどんなことを考えてるの? もっとあなたのことを知りたい」
お嬢様のベッドは、夥しいほどの花で埋まりました。こんなに一気に花を溢すのは、好ましくない事態です。お嬢様の体力では、あっという間に命が尽きてしまいます。
「いけません、お嬢様。いまはお眠りください。わたくしがついておりますから」
来るべきお嬢様の死に恐怖すると同時に、わたくしの目はずっと花に惹きつけられてやまなかったことを、ここに正直に告白いたします。わたくしはきっと、心のどこかでその花を欲していたのでしょう。たとえ、お嬢様の命と引き換えであっても。いいえ、お嬢様の命と引き換えだからこそ。
絹を裂くような悲鳴が耳を打ち、わたくしはようやく我に返りました。
振り返ると、真っ青な顔で震える侍女がいました。足元に薬箱が落ち、薬包が散乱しています。
お嬢様はすでに、花の中で深い眠りに落ちていました。
「公爵様と奥様、それからご兄弟の皆様をお呼びください」
侍女に告げたわたくしの声は、細く掠れておりました。
狂花病発症から五日、お嬢様はときどき目を覚ましてはゆるゆると花を溢し、花とともに終わることの幸福をわたくしたちに告げながら、やがて静かに息を引き取ったのでございます。
公爵家が所有する広い丘の中央に、お嬢様は埋葬されました。そう、わたくしがいま目指している丘でございます。
わたくしはお嬢様の墓の前で自害をする予定でした。公爵家の皆様はお嬢様を除いて全員健康体でいらっしゃいますし、男性の専属医もおりますから、しばらく女性専属医がいなくても大丈夫でございましょう。わたくしの想いは、すでに遺書としてノートに書き残しておきました。神殿のつがい仲介も断りました。後ろ髪を引かれるようなことは、もうなにもございません。
ちらちらと雪が舞う中、うっすら白くなった丘を、一歩一歩を踏みしめて登ります。ふと、爪先に落ちた雪に違和感を覚え、立ち止まりました。
私の足元から、花が溢れていました。雪のように透き通った、美しい花が。
恋が伝染するという報告はしばしば耳にしますが、狂花病が伝染した例は、これまで聞いたことがございません。では、ここにある花はいったいなんでしょうか。わたくしの胸は高鳴りました。と、同時に、胸元からぽろぽろと花が溢れ落ちました。
口元から自然と笑みが、いえ、花が溢れました。――ああ、なんという幸福でしょう、お嬢様と同じ花が、わたくしの体に咲くなんて。
互いに女性なればこそでしょうか、お嬢様の狂花病が、わたくしにも伝染していたのです。わたくしは狂花病の発症期を過ぎていましたが、二十歳を越えても発症の可能性が極めて低いというだけであって、完全に発症しないというわけではありません。むしろ、こうなることを望んでいたからこそ、自ら因子を呼び起こしたのでしょう。この日、このときのために。
歩みを再開し、雪の中に花を溢しながらお墓の前に辿り着くと、そこにはすでに、一輪の花が咲いておりました。花の周りだけ、不思議と雪が溶けています。透き通る花弁が風に揺らされ、しゃらしゃらと繊細な音を奏でます。
まるで、お嬢様の笑い声のように。
もしかして、わたくしを待っていてくださったのでしょうか。高鳴る鼓動とともに胸から大量の花を溢し、わたくしはお墓の前に跪きました。手を伸ばし、そっとお嬢様の花に触れます。
――温かい。
ガラスのような涼やかな見た目に反し、その花は熱を持っていました。雪に冷えていた指先が、じんわりと温もりを取り戻していきます。手に頬を擦り寄せるお嬢様を思い出して、目から花が溢れました。
ああ、お嬢様、いまならわかります。お嬢様はこんなにも優しく、繊細な恋心を抱いていらっしゃったのですね。
わたくしの一挙手一投足を見つめ、わたくしとともに過ごす時間を密やかに喜びながら、決して誰にも気づかれぬよう胸底に想いを秘め、夜毎にその想いを取り出しては、微熱とともに大切に育てていた――最後の最後に、そっとわたくしに耳打ちする日だけを夢見て。あの運命の日よりもずっと前に、お嬢様の花は育ちきっていたのですね。
お嬢様、わたくしも、いつしか花を育てておりました。初めてあなたにお会いしたとき、折れそうな首筋に、哀しげなその瞳に、心を掴まれておりました。熱に苦しんでわたくしを頼るあなたに応えるほど、熱に潤んだ瞳を見つめれば見つめるほど、愛しさは募りました。あなたの腕にそっと触れて脈を測る静かなひとときに、幸福を覚えておりました。
あなたに花を咲かせたのが、ほかの誰でもない、わたくしでよかった。わたくしはずっと、あなたの花を欲していました。なんの目的もなく、ただ公爵様の愛によってのみ生かされているあなたが、ご自身の意志で、力で、この世に産み出すことのできる唯一のもの。もしそれがこの世に降臨したならば、どんなふうに花開くのか、そんな考えに捉われておりました。そのために、お嬢様の目を惹きつけようと、立ち振る舞っておりました。できることならわたくしに恋をして欲しいと、そんな願いを秘めておりました。
お嬢様、わたくしたちは、二人で一つの花を育てていたのですね。
わたくしの告白とともに花はとめどなく溢れ、お嬢様のお墓を取り巻きました。丘は一面の雪の代わりに、一面の花で埋まりました。
わたくしはお嬢様の花を胸の内側に囲うようにして、横たわりました。自害用に持ってきた短剣は、結局不要なものでした。
お嬢様の花と、この身から溢れ出る花を抱いて、わたくしはお嬢様と一緒になりましょう。――ああ、恋、この不健全にして理不尽な心の働きが、わたくしたち二人を引き合わせてくれたのです。今生でつがいになるよりも深く、美しく、永遠に、わたくしたちは結ばれることでしょう。
耳元でしゃらしゃらとお嬢様の笑い声が聞こえます。お嬢様の温もりがわたくしを包みます。愛しき人とともにある幸福に抱かれて、わたくしは深い眠りに落ちました。
※ ※ ※
公爵家の若き専属医が行方不明になってからほどなく、公爵令嬢の墓で驚くべき発見がありました。
墓を戴く丘が、花畑になっていたのです。ガラス細工のように繊細な花が、一面に咲き乱れていました。透明な花びらが、太陽の光をきらきらと弾いています。風が吹き抜けるたび、誇らしげに、しゃらしゃらと音を鳴らします。
公爵令嬢の花でした。狂花病の花が土に定着したのは、これがはじめてのことです。花の存在はすぐに多くの人々に知れ渡り、研究せんと欲する医師たちが、公爵家に押し寄せました。
しかし、公爵は花畑の丘を頑丈な檻で囲い、人の侵入を拒みました。愛娘の花が誰かに摘まれたり踏み荒らされたりすることを、許しませんでした。
そんな親心を知ってか知らずしてか、花は実を結びました。種は風に乗って檻をすり抜け、世界中に広がりました。
やがて公爵家が滅びたあとも、国が滅びたあとも、花は各地で咲き栄えました。
それがいま、あなた様の目の前にある、美しくもありふれた、しかし不思議な花の由来です。季節を問わず咲き、繊細な見た目と微かな熱を持つこの花の名は、「恋心」狂花病が撲滅され、恋の自由があるこの時代にあって、花の伝説を信じるか信じないかは、あなた様のお心に委ねましょう。
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〈書く習慣〉で書いたお話はこれで30本、当初の目標を達成しました。
苦手な短編の練習用にとはじめた〈書く習慣〉でしたが、30本コツコツと続けられたのは、これまでいただいた「いいね」のおかげです。♡のひとつひとつにやる気を支えられてきました。ありがとうございます。
1本書くたびに学ぶことが多く、実りある練習になりました。未熟な点もいくつか浮き彫りになりましたが、それらを克服しながら、たくさんの楽しい物語を作っていけるように精進していこうと思います。
最終目標は、300字以内でも楽しめるような物語を書くことです。
今後は他の原稿に注力するため、12月上旬まで長いおやすみに入ります。
ただ、面白そうなお題に出くわしたときは、息抜きも兼ねてごく短いものを投下するかもしれません。
そのときにまた出会えましたら嬉しいです。
お話を読んでくださり、ありがとうございました。
6/26/2023, 7:11:37 AM