【真夜中】
子供のころ、真夜中は特別な時間だった。
三つ下の弟としめしあわせて、親が眠った頃合いにこっそりベッドから抜けだす。背後に弟を従え、ぬき足さし足で階段を下り、リビングに向かう。部屋の明かりはつけない。これは隠密行動だから。闇に潜む、それだけのことでも、小学生の私たちには特別で、大人めいた行為だ。胸がドキドキと高鳴っている。
自分の輪郭すらあやふやな闇の中、手さぐりでリモコンを探しだし、テレビの電源を入れる。すかさず音量を最小まで下げる。テレビの明かりを頼りに、弟がゲーム機の電源を入れる。私はテレビの音量をゆっくりと上げていき、二階の父と母の寝室に届かないギリギリで抑える。弟はゲームソフトの入った引き出しを開け、駄菓子を引っ張りだす。二人でお金を出し合って、この夜のために隠しておいた特別なおやつだ。うまい棒、よっちゃんイカ、ミニコーラ、おやつカルパス、ポテトフライ、キャベツ太郎、ココアシガレット。食べたいものがなんでも揃っている。
駄菓子の袋を破いて、いよいよ冒険のはじまりだ。私の誕生日プレゼントに買ってもらったパズル要素のあるRPGを、弟と二人、ああでもないこうでもないとひそひそ言い合いながら、交代で進めていく。謎解きがうまくいくたびに盛り上がり、声が大きくなってしまう。リビングへと向かってくる足音に気づき、弟と顔を見合わせる。慌ててテレビ画面を消し、息を潜める。でも、もう遅い。ガチャリと開いたドアの向こうには、すでに眦を吊り上げている母の顔。「あんたたち、なにやってるの! 夜は寝なさい!」怒られ、黙々と駄菓子の空き袋を片付け、すごすごと自室に退散する――
小学生の真夜中は、そんなドキドキハラハラな冒険のための時間だった。翌朝改めて母と父に二人がかりで怒られたのも、寝不足のまま学校へ行って授業中に寝てしまったのも、今となっては微笑ましい思い出だ。
あの夜に貪った駄菓子は、いつもよりちょっぴり大人っぽい味がした。もしいま同じ駄菓子を食べたとしても、二度と味わえないだろう。さっき食べたおやつカルパスも、普通のおやつカルパスだったし。そんなことを思いながら、明かりもテレビもつけていない真っ暗なリビングで、一人、カップラーメンを啜る。真夜中のラーメンは、幸福と背徳の味がする。これはこれで、大人の味かもしれない。
いまや真夜中はすっかり私のテリトリーだ。ドキドキハラハラの特別感はとうに消え去り、のびのび過ごせるただの自由時間になってしまった。たとえ母が起きてリビングに向かってきたとしても、その足音に震えあがったりはしない。いまさら母が私を叱ることはないと知っているから。逆に、母のほうがびっくりして震えあがるかもしれない。明かりのないリビングで一人カップラーメンを啜る長女の姿がぼうっと見えたら、そりゃ怖い。だからこそ、母が起きてこないかな、なんてことを、ちょっぴり期待してしまう。悪戯心というやつだ。
悪戯といえば、小さいころの弟は可愛かった。いかにも悪戯っ子な目配せで、真夜中の冒険が私たちにとってどれほど大切な秘密でドキドキするものか、教えてくれた。いまは反抗期真っ盛りの不貞腐れた高校二年生で、目も合わなくなった。
噂をすれば、だ。階段を降りてリビングに向かってくるこの足音は、弟のもの。私は部屋の隅の暗がりにさっと身を隠した。
「げ」
明かりをつけ、リビングのテーブルに置き去りにされているカップラーメンの容器を見た弟は、顔を顰めた。
「誰だよ、俺が隠してた夜食引っ張りだしたやつ。まさか姉ちゃんか?」
弟はぶつぶつ言いながら、カップラーメンのフタを開けて、ポットのお湯を注ぐ。
と、匂いにでもつられたのか、父と母まで揃ってリビングにやって来た。今夜は家族勢揃いで賑やかだ。
「あんた、まだ起きてたの。なによ、そのカップラーメン」
「べつにいいだろ、俺が買ったやつなんだから」
「新商品出たなら教えてちょうだいよ。母さんもそのシリーズ好きなんだから」
「おいしそうだな。半分味見させてくれ」
いきなり図々しいことを言いだす父。
「は? 寝言言ってるならさっさと寝ろ」
両親に向かってしっしと手を振る弟。
「あんたも寝なさいよ。もうすぐテストなんでしょ」
「授業で居眠りするなよー」
母は肩をすくめ、父はあくびをし、リビングから退出する。
「するかよ。俺は居眠り嫌いなんだよ」
弟はそっぽを向いたまま、不機嫌そうに鼻を鳴らした。それからリモコンでテレビをつける。お笑い芸人たちの笑い声が、一瞬で部屋を賑やかす。
三分経過のタイマーが鳴って、弟がカップラーメンに口をつける。そして、舌打ちをした。
「味がしねぇ。やっぱり姉ちゃんかよ。また勝手に食いやがって」
私が啜った食べ物は、体積は減らないが、味がなくなってしまうようだ。ごめんね、ゲームソフト用の引き出しに隠されたおやつカルパスも、たぶん味がない。
文句を言いながらもしっかりラーメンを啜る弟の背後に、私は忍び寄った。味のお詫びにこっそり頭を撫でようとしたけれど、自分の手が見えなくて、断念する。
幽霊やお化けがどうして夜中に出没するのか、暗がりに潜みたがるのか、いまなら私にもわかる。光に当たると体が透けて、自分でも輪郭を見失ってしまうから。闇に包まれる真夜中こそが、私たちに実体を与えてくれる、たしかな時間なのだ。
私が居眠り運転の車に轢かれてから、半年。めっきり減っていたリビングの会話も、徐々に私の生前のものへと戻りつつあるように見えた。一時期笑わなくなった弟も、いまは深夜のお笑い番組を見て、ぶっ、と噴きだしている。
暗かった家族に明るさが戻ってきたなら、私はもう、ここにはいられないのかもしれない。私は暗がりに潜む存在だから。
そう思った途端、自分が薄れていくのを感じた。これまで私をこの家に縛りつけていた闇が、なくなろうとしている。真夜中のリビングの明るさが、テレビと弟の笑い声が、私の存在をあやふやに溶かしていく。
「ごめんね、おいしかったよ、真夜中のラーメン」
とっさに呟いたら、弟がはっと宙を見上げた。方向はぜんぜん違うから、目は合わないけど。声が届いたことに満足し、私は明るい光のなかに、消えた。
【愛があればなんでもできる?】
「愛を知らないかって?」
旅人に話しかけられたキツツキは、木をつつくのをやめて、きょとんと首をかしげました。
「動物の国じゃ、聞いたことがないね。そういうのは、人間のほうが知ってるんじゃないかなぁ。人間の国はあっちだよ」
翼で方向をしめし、またせわしなく木をつつきはじめます。
旅人はキツツキにお礼を告げて、人間の国へと旅立っていきました。
「あい? それがあればなんでもできるって、ほんと?」
旅人に愛のありかを尋ねられた人間の子供は、目をまるくしました。
「あたしもほしいなぁ。そうしたら、あたしもおとうとも、さむくないのに」
裸足の子供が抱えた小さな赤ん坊は、裸も同然でした。子供たちは、震えていました。
「そういえば、ろぼっとはなんでもできるって、きいたことがあるよ。もしかしたら、ろぼっとがあいなのかも。ろぼっとのくには、このみちのさきだよ」
旅人は子供にお礼を告げ、ロボットの国を目指して旅立ちました。
「ザンネン、ナがら、トウコクの、データに、アイは、ノってイませン」
古いブリキのロボットは、旅人の問いにたどたどしく答えました。口元のネジが錆びついていて、うまく喋れないようです。
「トウコクには、アりませンが、トナリの、ペテンシのクニで、アイのバイバイが、オこなわレた、というキロクが、ノコッテイます」
旅人はロボットにお礼を告げて、ペテン師の国へと旅立っていきました。
「ああ、愛か。いくらでもあるぜ。ほれ」
ペテン師の男は、旅人に人形をほうり投げました。布と綿で作られた人形は、埃と土で薄汚れていました。
「あんたの有り金ぜんぶと交換だ。愛はそれだけ価値のあるものだからなァ」
旅人からたっぷりお金を受け取ったペテン師は、機嫌良く笑いました。
「愛は人によってかたちが違うらしいぜ。俺にとっちゃ、この金こそが愛なんだ。これだけあれば、なんでもできるだろうよ」
旅人はもらった人形をよく洗って、ぴかぴかの人形にしました。そして、もと来た道を戻りました。
ロボットの国では、人形の目のボタンを使って、古いロボットの錆びついたネジを開けました。人形のもう一つの目で新しいネジを作って、ロボットの口がスムーズに動くようにしました。ロボットはとても喜びました。
人間の国では、子供が連れている赤ん坊に、人形の服を着せてあげました。さらに人形の皮を使って、子供の靴を作りました。靴には人形の綿をすこし詰めました。子供はたいそう喜びました。新しい服を着た赤ん坊も、キャッキャと喜んでいるようでした。
動物の国では、キツツキの巣穴を、残りの人形の綿でふかふかにしました。キツツキは「これで卵を温めやすい」と大喜びでした。
動物の国を出たころには、旅人の手元にはなにも残っていませんでした。
旅人は自分の国に戻り、愛は他の国では見つからなかったと、主人に告げました。
主人はがっくり肩を落としました。
「それさえあれば、もっと素晴らしい世界を創造できるはずなのだが」
神の国に住む主人は、がっかりしながらも、旅人の旅をねぎらいました。
「そういえば、そなたはいつからわたしに仕えていてくれたのだったかな。……なに? わたしが生まれたときからだと?」
主人は驚いて、まじまじと旅人を見つめました。
「そうだったか。そなたをしょっちゅう旅に出していたから、忘れてしまったようだ。たしかにそなたは、ずっと昔からわたしとともにあったな。わたしの兄弟のようなものだ」
主人は旅人の手を取り、改めて感謝を告げました。
「おお、いまなら素晴らしい世界を創れる気がしてきたぞ。よし、さっそくとりかかろう。そなたも協力してくれ」
旅人は満足そうに笑って、うなずきました。自分こそが愛だということは、黙っていました。愛は寡黙なのです。そして、しょっちゅう見失われるものなのです。
【後悔】
たとえば、友人から貰ったサボテンを枯らせてしまったとか。たとえば、試験期間中に部屋の掃除ばかりしてしまったとか。たとえば、ホワイトデーにお返しをしなかったとか。
これまでの人生、後悔したことは多々ある。でも、いまの状況に勝る後悔はないだろう。
ベッド横で胡座をかいた俺は、額に手を当てて呻いた。
「なんでこいつを部屋にあげちゃったんだろ……」
「こいつときたもんだ。私、宮田ハルカって言います」
「二年前から知っとるわ。気分が回復したならさっさと帰れ」
「やだ。もう終電ないし、ここから歩くと私の家まで一時間かかるんですよ。うら若き乙女に一人で夜道歩かせようってんですか? 鬼、悪魔、先輩!」
「鬼と同列に並べんな」
サークルの後輩は我が物顔で俺のベッドを占拠している。ゆうゆうと寛ぐそいつの頭を、俺は拳でコツンと叩いた。
「パワハラだー」
「おう、お望み通りパワーでモノ言わせて追い出すぞコラ」
鍛えあげた自慢の腕を鳴らすと、宮田はキャッキャと笑いながらベッドを転がった。だめだこの酔っ払い、早くなんとかしないと……。
「そもそも宮田と一緒に飲んだことを後悔すべきだったわ。誘われた時点で断れよ、俺。女子苦手なくせに」
「えへへ、だって私の二十歳の誕生日ですよー。解禁日ですよー。先輩と飲まずにいられないでしょー」
「誕生日祝いが二人だけとはびっくりだよ。友達いないんだな。知ってたけど」
「副業のせいで忙しくて友達作るヒマないんですー。だからお祝いにかこつけて先輩と仲良くなれたのが嬉しくて、つい飲みすぎちゃったー」
てへぺろ、と死語が聞こえてきそうなぐらいお手本の表情で舌を出す宮田。
「だからってうちのトイレとまで仲良くするこたないだろ」
「お近づきの印にちょっと掃除もしておきました」
「そりゃ見上げた心がけだが」
「なんなら明日の朝ごはんも作ります!」
枕を抱きしめて転がった宮田が、上目遣いに俺を見つめる。
「だから、泊めてください」
あざとい。あまりにもあざとすぎる。こんな見え透いた演技で籠絡できると思われてるなら、俺もずいぶん舐められたもんだ。
わざわざ俺の家の近くに来て飲んだのも、べろべろに酔っ払って道端で寝そうになったのも、きっとすべて計算と演技なんだろう。
こいつの狙いはわかっている。俺の体だ。……というより、首だ。
「お断りだ。エクソシストと同じ部屋で安心して寝られるか」
「えっ、バレてた?」
「匂いでわかるっての。あんた強そうだし夜道なんて余裕だろ。ほら、俺を殺す気じゃないならさっさと帰れ。枕も離せ」
俺は立ち上がり、宮田の腕を引っ張って起こそうとした。
「えへへ、強いってわかりますー? お褒めにあずかり光栄です。でも、帰りません!」
宮田はようやく枕を離して上半身を起こしたが、ベッドに腰掛けただけで、まだまだ立ち上がる気配はない。
俺はため息をついた。
「酒飲み初心者をぐでんぐでんにさせちまったから、責任とって看病せねば、なんて仏心出したのが運の尽きだったわ。俺、悪魔なのにな」
「あはは、悪魔がエクソシスト相手に仏心、面白いですね」
「笑ってる場合か」
正体のバレた悪魔とエクソシストが同じ部屋にいるなら、やることは決まっている。
戦いだ。
俺の体がじわじわと変化していく。人間の体から、悪魔の体へ。爪が伸び、手の甲が毛に覆われる。顔も毛むくじゃらになり、マズルが伸びる。人間の耳が毛に覆われて消滅し、代わりに狼の耳が頭上に生える。むずむずと膨れた尻尾が、服の隙間から飛び出す。
俺の変化を見ていた宮田の目が、鋭く光った。エクソシストの目だ。
「一応言っておくが、俺は人の〝後悔〟を食って生きる種類の悪魔だ。そのために人と契約し、人を陥れ、人を死ぬほど後悔させる同類も数多いる。でも、俺はそのへんの人間のささやかな後悔や自分の後悔だけで満腹できるから、あんたらに狩られるような悪さはしてないぞ」
「へええ、先輩はエコな悪魔なんですね。自給自足とは」
宮田の手中に、音もなく拳銃が現れた。エクソシストの法力で作られた武器だ。……飛び道具持ちか。厄介だな。宮田に喧嘩を売ったことを、俺は早々に後悔しはじめていた。
「悪魔は悪魔で、後悔することが多くてね……」
子供のころは悪魔の力をコントロールできずにサボテンの生気を吸って枯らせてしまい、プレゼントしてくれた友人の顔を曇らせた。俺が修行をサボらなければ、サボテンを枯らすこともなかっただろうに。
学校の試験期間中はいろんな人間の後悔が押し寄せてくるから、満腹を通り越して気持ち悪くなってしまう。学校を早退し、自室に篭もって掃除で体力を消化することも多かった。試験はもちろんさんざんだった。俺が修行をサボらなければ、余計な後悔を遮断して、試験に集中できたのに。
ホワイトデーをスルーしたせいで、女子たちから目の敵にされるようになってしまった。悪魔が人間の好意に応えるわけにはいかないから、しかたがなかった。そもそもあの子と仲良くした俺が悪かった。以来、俺は「女子が苦手」だと公言するようになった。なのに、ゲロ吐きそうな宮田を道端に置いておくわけにもいかず、女子を自分の縄張りに入れてしまった。そしてこの結果だ。
もっとこうしていれば、あのときこうすれば、あんなことをしなければ――
俺の人生、いや悪魔生、後悔ばかりだ。
でも、いまエクソシストに殺されたら、もっと後悔することになる。
俺じゃなくて、父さんと母さんが。
俺は宮田が引き金に指をかける前に、飛びかかった。
多少乱暴な扱いになるが、宮田を殺すつもりはない。気絶させてタクシーに放りこむか、力で押さえこんで説得できれば上々だ。もし人を殺しでもしたら、俺が人間として生きられるように育ててくれた両親の努力が、無駄になる。悪魔の力を抑えるための修行をつけてくれた爺ちゃんや、人間の世界に馴染もうと努力してきた母さんや、母さんのことをひた隠しにして守ってきた父さんの努力も、無駄になってしまう。
「いくら俺が後悔大好きな悪魔だからっても、悪魔のハーフに生まれたことまで後悔したくはないし、させたくもないからな!」
宮田は俺の手を難なく避けて、ベッドに転がった。俺が振り下ろした第二撃を躱しざま、跳ね起きる。ついでのように繰り出された蹴りを、俺は半身で躱す。体を捻った勢いのままベッドに乗り上がり、宮田を隅に追い詰める。飛び道具相手に、間合いをとるようなことはしない。
宮田の拳銃を狙って振った爪は、紙一重で避けられた。すばしこいやつめ。俺の連撃を避けて、宮田がベッド際の壁を蹴って跳ぶ。なんつう運動能力だ。俺が次の構えをとる前に、天井スレスレで頭上を飛び越えていく。もう背後をとられた。やはり強い。着地の音。喧嘩なんか売るんじゃなかった。引き金の音。部屋にあげるんじゃなかった。
覚悟した弾丸は、いつまで経っても俺の脳天に刺さらなかった。その代わり、しゅばっと音をたてて飛来したなにかが、俺の体に巻きついた。
俺はあっけなくベッドに転がされた。
「な、なんだ……?」
「拘束用の紐です。私、血生臭いことは苦手なので」
宮田がふっと吹く真似をした銃口から、クラッカーみたいな細い紐が伸びていた。俺をぐるぐるに縛り付けているのはその紐だ。エクソシストの法力で作られているから、俺の怪力でも切れない。
「普段はペア組んで仕事してるんですよ。血みどろシスターって呼ばれてるかたと」
「……そいつがここにいなくてよかったよ」
俺はまだ命があることにほっとしていた。とはいえ、この絶体絶命な状況はどうにもならない。血みどろシスターを呼ばれたらおしまいだ。
宮田はまだスマホで連絡するそぶりを見せていない。きゅっと唇を引き結び、ベッド脇からじっと俺を覗きこんでいる。あれ、なんだか力が満ちてくるような……?
「……宮田、もしかして、なにか後悔してるのか?」
「さっすが、お見通しですね。私いま、エクソシストになったこと、思いっきり後悔してるんですよ。どうしてだかわかります?」
「薄給なのか?」
「そうそう、ほぼ慈善事業なんですよ。呼び出しも四六時中でブラックだし……って、そうじゃなーい」
俺を拘束していた紐がふっと消えた。
「私、べつに仕事でここに来たわけじゃありませんから」
「は? 俺の首を獲りたくて、あんなにあざとく居座ろうとしてたんじゃないのか?」
俺は警戒を怠らずに上半身を起こした。
「あ、あざと……く……」
宮田の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「な、ななな、なに言ってるんですか! 女の子に恥をかかせないでくださいよ! 先輩のバカ! 鈍感! 悪魔!」
「つまり……ただの面倒くさい酔っ払いだったってわけか」
「お、お酒は今後控えます! ムリヤリ居座ろうとしたことも謝ります! 酔いが醒めてちょっと冷静になりました! 先輩のご迷惑も考えずに、すみませんでした!」
宮田はいきなり床の上にかしこまって、深々と額を下げた。
「先輩が悪魔だってのは勘付いてたんですけど、ハーフですし、近づいてみたら顔に反して人畜無害そうですし、むしろバカみたいなお人好しですし、退治しなくていいやつだと思って、教会にも報告してないんです! 信じてください!」
「いま、さらっと傷つくこと言ったな?」
俺はベッドから降り、宮田の頭を人間姿の拳でコツンと叩いた。
「俺も勘違いしてたのは悪かった。正直、宮田がサークルに入ってきたときから警戒していた。でも、宮田のいまの後悔は本物だし、信じてやるよ」
「じゃ、じゃあ……!」
顔をあげた宮田がぱっと目を輝かせる。なんでこんなにコロコロ表情を変えられるんだ、こいつは。
「だからと言って、女子を泊めるわけにはいかないぞ。タクシー代は貸してやるから、さっさと帰れ」
俺は宮田の腕を掴んで立たせると、玄関まで追いたてた。忘れ物がないよう、荷物もかき集めて押し付ける。タクシー代も押し付ける。
去り際、宮田は俺を振り向き、べーっと舌を出した。おい、さっきの反省はどこいった。
「乙女心を無碍にしたこと、この先たくさん後悔させてあげます。私、しつこく先輩を狙いますからね」
「……好きにしろ」
強い後悔を抱えたこいつが近くにいるなら、俺はとうぶん食べ物に困らないな、そんなことを考えて、その場はつい肯定的に答えてしまった。……もちろん、すぐに後悔することになった。
【風に身をまかせ】
私たちを包んでいた実の外殻が、ついに弾けた。
風に煽られ、この体は宙を舞う。
私と同時に実を離れたきょうだいたちが、周囲でくるくると踊っている。私もくるくる回りながら、風の吹くままに流れていく。きょうだいたちと離れ離れになるが、寂しくはない。私たちはひとつの宇宙で繋がっているから。
……なんだかうさんくさいことを言ってしまった。しかし事実だからしかたない。私たちがいま漂っているのは、まさしくひとつの宇宙なのだ。直近の恒星が生むプラズマの風に乗って、私たちは宇宙空間に散らばる。永い時を彷徨い、やがてどこかの星の引力に引かれ、落下し、その星で芽吹く。それが私たちの役目だ。
この体は硬い耐熱殻に守られているから、大気圏を突破してもそうそう燃え尽きたりはしないだろう。ただ、落下先が濃硫酸の海だったり、私も知らないもっとひどい物質だったりしたら、そこで運命はおしまい。星に落ちる前に、恒星やブラックホールに突っ込んでも、ジ・エンド。しかし、私が終わっても、数多いるきょうだいたちの誰かは、きっとどこかの星に辿り着く。
運良く環境のいい星に落ちることができれば、私が内包する有機物は、やがてその星に適応した生命へと育っていくだろう。その生命は永い時をかけて増殖し、進化し、知恵を持つ――がどうかは賭けだが、もしある程度の知恵を持ったなら、彼らの星や恒星系の終わりとともに、また私たち播種有機体を宇宙空間にばら撒くだろう。
私は地球という星で生まれた。ロケットという名の実に包まれ、打ち上げられた。私の中には、地球で進化した人間という種族の有機体が含まれている。その前は、⁂Åという星の、⊿∟∋という種族の有機体だった。そんな連綿とした記憶が残っている。さて、私は――私のきょうだいたちは、次はどんな星で、どんな進化を遂げるのか。
宇宙の風に身をまかせ、はるかなる偶然を求めて、何度目かになる私たちの長い長い旅が、またはじまった。
【愛を叫ぶ】
※ほんのりグロ表現があります。苦手なかたはお避けください。
いくら叫んだところで、もう声は届かないだろう。人影はあっという間に遠ざかってしまった。
男は地下シェルターに戻り、防護服で着ぶくれた体を丸めた。地上はひどい吹雪になりつつあった。
いま男にできることは、たったひとつ。吹雪が収まるまで、この狭い一畳シェルターに身を隠して縮こまることだけだ。一晩か、あるいは二晩か。もしくは、飢えて死ぬまでか。
たとえ吹雪が晴れて外に出られたとしても、再び誰かに巡り会える保証はなかった。人が地上の支配者であった時代は、もう終わったのだ。死の灰混じりの吹雪を避けてかろうじて人が生きられるのは、各地に残っている地下シェルターの中だけ。それも、ここのように雪除け付きのシェルターでなければ、雪に埋められて二度と外に出られなくなる。
男は目を閉じた。このシェルターに、食糧はもうない。体感で四日、水すら口にしていない。死は確実に、そこに迫っていた。
※ ※ ※
吹雪の音が止んでいることを確かめると、男はシェルターの蓋を開け、外に這い出した。
瓦礫に吹き付けた雪が、そこかしこに溜まっている。かつて見た真っ白な雪ではない、灰色に汚染された、汚らしい雪だ。
空すらも灰色に染まり、太陽は見えない。一年前から、空はずっとこんな調子だ。人類が太陽を拝める日は、二度と来ないかもしれない。
いまは空が真っ暗ではないから日中だろう、と判断できる程度で、午前か午後か夕方か、とっくにわからなくなっている。
ナタを杖代わりにしてゆっくりと立ち上がる男以外、動くものはなかった。風の音すらも絶え、あたりはしんと静まりかえっている。
「おーい!」
男は防護マスクの下から声を張り上げて、よろよろと歩き出した。先日人影が消えていったほうへ。
あのとき見た人影の足取りに、迷いはなかった。もしかしたら、行き先にシェルターがあるのかもしれない。だれかが避難しているとすれば、きっと食糧がある。
雪の上にあるべき人影の痕跡は、とうに掻き消されていた。男の引きずるような足跡だけが、雪を抉っていく。雪はブーツが半分埋まるぐらいに積もっていた。これからもまだまだ積もるだろう。いくら雪の多い地域とはいえ、男の感覚では、まだ初夏だったはずだが。
男はふと足を止めた。
行く手に、シェルターのありかを示す赤い旗が見えたのだ。棹はぽっきり折れて、旗は雪に薄く埋もれた状態で広がっている。
モノクロの世界に、突如として色が割り込んだ。旗のくたびれた赤、そして、付近の雪を染めている、旗よりもどす黒い――いや、もとは鮮やかな赤だったはずだ――雪の灰色と混ざり、赤黒く変色したもの。
これは、生き物の血だ。
雪が隠しきれぬほどに夥しく散った、血と、内臓。
「……熊か」
男は愕然とつぶやいた。
あのとき見た人影は、熊だったのかもしれない。永久の冬ごもりに倦んだ熊が目覚め、うろついていたのだ。空きっ腹を抱えて。
この旗が立っていたシェルターの主は、熊の訪いに気づき、狩って食糧にするつもりだったのだろう。赤黒く染まった雪の塊に、猟銃が突き立っていた。
男は重い足どりでのそのそとその場所へ近づき、すがるような手つきで銃に触れた。そして、引き抜いた。
銃身は半ばでくの字に折れていた。
「はははっ」
男は突然笑い出した。折れた銃を投げ捨て、代わりにナタを突きたてる。
「はははっ」
男は膝を折った。笑い声とともに、雪の上に崩れ落ちる。
男が人影を求めてここに来た目的は、熊と同じだった。しかし、もうその食糧はない。熊に奪われてしまった。
人が暮らしていたなら、シェルター内の食糧はとうに尽きているだろう。だから男はシェルターの主を食べるつもりでいたのだ。
「ははは、俺はまだ生きてるぞ!」
雪に倒れ臥した男は、首を掻きむしるようにして防護マスクを剥ぎ取った。
この防護マスクは、最初は男のものではなかった。防護服も、もちろん男のものではなかった。武器のナタもだ。シェルターもだ。水も、食べ物も。自分が生きるために、奪って奪って、奪い尽くした。 もう男が奪えるものは、折れた銃身しか残っていない。
「このクソッタレな世界で、勝ち続けた俺だけが生きてるぞ! ざまあみろ、俺が最後の一人だ!」
這いつくばった雪の上から、誰もいない場所に向かって叫ぶ。こだまは返らなかった。
「俺の勝ちだ! 俺の勝ちだ!」
男は赤黒く染まった雪を掴むと、狂ったように口の中に掻き込んだ。
そして、それきり、動かなくなった。
風が強くなってきた。また吹雪が訪れようとしている。
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愛にもいろいろあるので、今回は逆張り狙いの自己愛に振り切ってみました。ダウナーな話が続いたのでまたコメディも書きたいですね。なお土日は書く習慣お休みします。