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【真夜中】

 子供のころ、真夜中は特別な時間だった。
 三つ下の弟としめしあわせて、親が眠った頃合いにこっそりベッドから抜けだす。背後に弟を従え、ぬき足さし足で階段を下り、リビングに向かう。部屋の明かりはつけない。これは隠密行動だから。闇に潜む、それだけのことでも、小学生の私たちには特別で、大人めいた行為だ。胸がドキドキと高鳴っている。
 自分の輪郭すらあやふやな闇の中、手さぐりでリモコンを探しだし、テレビの電源を入れる。すかさず音量を最小まで下げる。テレビの明かりを頼りに、弟がゲーム機の電源を入れる。私はテレビの音量をゆっくりと上げていき、二階の父と母の寝室に届かないギリギリで抑える。弟はゲームソフトの入った引き出しを開け、駄菓子を引っ張りだす。二人でお金を出し合って、この夜のために隠しておいた特別なおやつだ。うまい棒、よっちゃんイカ、ミニコーラ、おやつカルパス、ポテトフライ、キャベツ太郎、ココアシガレット。食べたいものがなんでも揃っている。
 駄菓子の袋を破いて、いよいよ冒険のはじまりだ。私の誕生日プレゼントに買ってもらったパズル要素のあるRPGを、弟と二人、ああでもないこうでもないとひそひそ言い合いながら、交代で進めていく。謎解きがうまくいくたびに盛り上がり、声が大きくなってしまう。リビングへと向かってくる足音に気づき、弟と顔を見合わせる。慌ててテレビ画面を消し、息を潜める。でも、もう遅い。ガチャリと開いたドアの向こうには、すでに眦を吊り上げている母の顔。「あんたたち、なにやってるの! 夜は寝なさい!」怒られ、黙々と駄菓子の空き袋を片付け、すごすごと自室に退散する――
 小学生の真夜中は、そんなドキドキハラハラな冒険のための時間だった。翌朝改めて母と父に二人がかりで怒られたのも、寝不足のまま学校へ行って授業中に寝てしまったのも、今となっては微笑ましい思い出だ。
 あの夜に貪った駄菓子は、いつもよりちょっぴり大人っぽい味がした。もしいま同じ駄菓子を食べたとしても、二度と味わえないだろう。さっき食べたおやつカルパスも、普通のおやつカルパスだったし。そんなことを思いながら、明かりもテレビもつけていない真っ暗なリビングで、一人、カップラーメンを啜る。真夜中のラーメンは、幸福と背徳の味がする。これはこれで、大人の味かもしれない。
 いまや真夜中はすっかり私のテリトリーだ。ドキドキハラハラの特別感はとうに消え去り、のびのび過ごせるただの自由時間になってしまった。たとえ母が起きてリビングに向かってきたとしても、その足音に震えあがったりはしない。いまさら母が私を叱ることはないと知っているから。逆に、母のほうがびっくりして震えあがるかもしれない。明かりのないリビングで一人カップラーメンを啜る長女の姿がぼうっと見えたら、そりゃ怖い。だからこそ、母が起きてこないかな、なんてことを、ちょっぴり期待してしまう。悪戯心というやつだ。
 悪戯といえば、小さいころの弟は可愛かった。いかにも悪戯っ子な目配せで、真夜中の冒険が私たちにとってどれほど大切な秘密でドキドキするものか、教えてくれた。いまは反抗期真っ盛りの不貞腐れた高校二年生で、目も合わなくなった。
 噂をすれば、だ。階段を降りてリビングに向かってくるこの足音は、弟のもの。私は部屋の隅の暗がりにさっと身を隠した。
「げ」
 明かりをつけ、リビングのテーブルに置き去りにされているカップラーメンの容器を見た弟は、顔を顰めた。
「誰だよ、俺が隠してた夜食引っ張りだしたやつ。まさか姉ちゃんか?」
 弟はぶつぶつ言いながら、カップラーメンのフタを開けて、ポットのお湯を注ぐ。
 と、匂いにでもつられたのか、父と母まで揃ってリビングにやって来た。今夜は家族勢揃いで賑やかだ。
「あんた、まだ起きてたの。なによ、そのカップラーメン」
「べつにいいだろ、俺が買ったやつなんだから」
「新商品出たなら教えてちょうだいよ。母さんもそのシリーズ好きなんだから」
「おいしそうだな。半分味見させてくれ」
 いきなり図々しいことを言いだす父。
「は? 寝言言ってるならさっさと寝ろ」
 両親に向かってしっしと手を振る弟。
「あんたも寝なさいよ。もうすぐテストなんでしょ」
「授業で居眠りするなよー」
 母は肩をすくめ、父はあくびをし、リビングから退出する。
「するかよ。俺は居眠り嫌いなんだよ」
 弟はそっぽを向いたまま、不機嫌そうに鼻を鳴らした。それからリモコンでテレビをつける。お笑い芸人たちの笑い声が、一瞬で部屋を賑やかす。
 三分経過のタイマーが鳴って、弟がカップラーメンに口をつける。そして、舌打ちをした。
「味がしねぇ。やっぱり姉ちゃんかよ。また勝手に食いやがって」
 私が啜った食べ物は、体積は減らないが、味がなくなってしまうようだ。ごめんね、ゲームソフト用の引き出しに隠されたおやつカルパスも、たぶん味がない。
 文句を言いながらもしっかりラーメンを啜る弟の背後に、私は忍び寄った。味のお詫びにこっそり頭を撫でようとしたけれど、自分の手が見えなくて、断念する。
 幽霊やお化けがどうして夜中に出没するのか、暗がりに潜みたがるのか、いまなら私にもわかる。光に当たると体が透けて、自分でも輪郭を見失ってしまうから。闇に包まれる真夜中こそが、私たちに実体を与えてくれる、たしかな時間なのだ。
 私が居眠り運転の車に轢かれてから、半年。めっきり減っていたリビングの会話も、徐々に私の生前のものへと戻りつつあるように見えた。一時期笑わなくなった弟も、いまは深夜のお笑い番組を見て、ぶっ、と噴きだしている。
 暗かった家族に明るさが戻ってきたなら、私はもう、ここにはいられないのかもしれない。私は暗がりに潜む存在だから。
 そう思った途端、自分が薄れていくのを感じた。これまで私をこの家に縛りつけていた闇が、なくなろうとしている。真夜中のリビングの明るさが、テレビと弟の笑い声が、私の存在をあやふやに溶かしていく。
「ごめんね、おいしかったよ、真夜中のラーメン」
 とっさに呟いたら、弟がはっと宙を見上げた。方向はぜんぜん違うから、目は合わないけど。声が届いたことに満足し、私は明るい光のなかに、消えた。

5/18/2023, 2:29:42 AM