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5/11/2023, 3:30:22 AM

【モンシロチョウ】

※虫注意。とくに芋虫が苦手なかたは避けてください。


 小学三年生の夏休み前、教室でモンシロチョウの幼虫を二匹飼っていた時期があった。蝶の完全変態を学べるからと、先生が近所のキャベツ農家からもらってきたのだ。透明な虫かごの中で、幼虫はキャベツの葉をもりもりと食べていた。
 私は幼虫の世話係になった。誰もやりたがらなかったから、私に回ってきたのだ。私は通学路の途中にあるキャベツ農家に毎日通った。幼虫の餌になるキャベツの葉をもらうためだ。先生から話を聞いていた農家のおばさんは、「お勉強えらいねぇ、頑張ってね」と快くキャベツの葉を分けてくれた。いちばん外側の、人間は食べない部分の葉だ。その葉を半分、幼虫のためにとっておき、残り半分は自分の朝食にしていた。
 通学中、もらったキャベツの葉をもしゃもしゃ頬張っていたら、それを見た男子にひどくからかわれた。以降、私のあだ名は「芋虫」になった。
 二匹の幼虫はすくすくと育っていった。……と言いたいところだが、一匹は成長が遅かった。飼い始めて一週間を過ぎると、あまりキャベツの葉を食べなくなった。夏バテだろうか、と私は思った。私も梅雨時の蒸し暑さで食欲が減退していた。とはいえ、朝食代わりのキャベツと学校の給食ぐらいしか、私が食べられるものはない。食べ残しは私の体力にとって致命的だから、食欲がなくてもなんとか掻き込んでいた。一方、幼虫には毎日新鮮で大きな葉が与えられていて、ちょっと食事をサボったぐらいでは、餓え死にする心配はない。恵まれている者はいいな、私はそんな暢気な考えで、幼虫たちの成長を見守った。
 一匹目が蛹化し、二匹目もそろそろというころ、幼虫の異変に気づいた。幼虫の体の色が、なんだか黒っぽい。そして、ほとんど動かない。病気になってしまったのだと思った。私みたいな皮膚の病気かもしれない。先生に報告すると「寄生虫だね」と、こともなげに言われた。
 どうやら、蝶の幼虫の体に卵を産み付ける天敵の蜂がいるらしい。蜂の卵は幼虫の体内で孵化し、幼虫の体を食べて育つ。その話を聞いて、ぞわり、としたものが背筋を這った。自分の身体の中でも、なにか恐ろしいものが育っている、そんな錯覚に苛まれた。
 その日はちょうど三時間目が理科だったから、先生は教卓に虫かごを置いて、モンシロチョウの生態について授業をしてくれた。モンシロチョウの幼虫がキャベツの葉を食べると、キャベツはそれを嫌がって、天敵の蜂を呼び寄せる信号を出すのだそうだ。先生はどこか嬉しそうに、小学生にはまだ難しいことまでも話してくれた。
 幼虫がキャベツを食べるだけで敵を呼び寄せてしまうと知ったとき、私は衝撃を受けた。生きるために必要な行為が、内側から食われる危険と隣り合わせなのだ。……ならば、私は? 私もまた、生きるためにキャベツを食べている。そのたびに、なにか危険なものを呼び寄せていないだろうか? またぞわぞわとしたものが背筋を這いのぼった。だが、それは奇妙に心地のよい感触でもあった。自分が自分ではないものに変わっていく想像を、私は楽しんだ。
 先生が虫かごからキャベツの葉を取り出し、それを端の席の子に渡して、クラス全員に回すようにと指示した。キャベツはキャーキャー投げられるようにして、私の机にも回ってきた。
 キャベツの端にはいびつな形の幼虫が乗っていた。もうほとんど動かない。この子は畑にいたころから蜂に寄生されていたのだろう。私が毎日キャベツを与えて育てていたのは、モンシロチョウの幼虫ではなく、蜂の幼虫だったのだ。
 次の席の子に回そうとキャベツの葉を持ち上げた、そのときだった。いびつな幼虫の身体を食い破って、小さな芋虫が這い出てきたのは。それも、一匹だけではない。何匹も、ぞろぞろと。
「げ、気持ち悪い!」
 後ろの席の子が騒ぎ出し、好奇心の強い男子が覗き込んですぐさまダッシュで逃げ、芋虫が見える距離にいた女子は硬直して泣き出し、教室は騒然となった。
「芋虫が芋虫生んでら!」
「芋虫が芋虫見てら!」
 騒ぐクラスメイトを尻目に、私は目の前で繰り広げられるその光景にかじりついていた。
 幼虫から出てきた小さな芋虫たちは糸を吐き、自分のための繭を作っていく。瀕死の幼虫もそれを助けるように糸を吐き、芋虫たちの繭を固めていく。ふしぎだった。自分を食い荒らしたものを、なぜ守ろうとしているのだろう。もしかして、寄生された幼虫は心までも芋虫と同じものになっているのだろうか。全身にぞわぞわと逆立つものを感じつつ、私は虫たちの様子から目を離せなかった。

 ※ ※ ※

「どうしたの」
 ぼんやり歩いていたら、姉さんが顔を覗き込んできた。
「ちょっと昔のことを思い出して」
 昔といっても、まだ三年前のことだけど。
「こんなに綺麗な場所で? 昔のことなんて、あなたにとってはろくな思い出じゃなさそうなのに」
 姉さんが悲しそうに笑う。
「そうでもないよ」
 私は曖昧に微笑みを返す。
 三つ年上の姉さんは、いつも私に優しい。
 私たちは叔母に連れられて、近郊の菜の花畑へピクニックに来ていた。あちこちでモンシロチョウがひらひらと舞っている。そのせいだ、私の中がざわついているのは。
 花畑の隙間を縫う細い道の先で、明るい叔母が手を振っている。
「お昼を食べよう、って言ってるみたい。行きましょ」
 姉さんの白い手が、アトピーで黒ずんだ私の手を強く引く。
 二人の白いワンピースが、花畑の中でひらひらと美しく舞った。

 ※ ※ ※

 虫かごの蛹は美しいモンシロチョウになって、教室の窓から飛び立っていった。しぼんだ幼虫の死骸にくっついている蜂の繭は、虫かごにそのまま残された。数日後にふと虫かごを見ると蜂がうじゃうじゃ湧いていたので、私は虫かごを外に持ち出し、こっそりと逃がした。
 私はまだ幼虫がいると偽って、農家のおばさんからキャベツの葉をもらっていた。痩せているうえにほぼ毎日同じ服を着ていた私に、おばさんはなにかを察していたのだろう。キャベツの内側の柔らかい葉をくれるようになった。私はありがたくそれを貪った。私の嘘は、夏休みに入るまで続いた。
 学校と給食のない夏休み中は地獄だった。家では母と姉さんだけが家族で、私の存在はないものとして扱われていた。私はほとんどの日を図書館で過ごした。おかげで、たくさん本を読むことができた。昆虫図鑑でモンシロチョウのことを調べ、モンシロチョウが好むアブラナ科の葉が、他の虫にとっては毒だということを知った。それがきっかけで、毒に興味を持つようになった。
 しかし、いくら本を読んだところで、腹は膨れない。図書館に行く途中の商店街でパンの耳の袋詰めを売っているときは、十円でそれを買って、公園で食べた。当然、お小遣いなんてもらってないから、お金の出所は、自販機の下の百円玉だ。
 農家のおばさんにこっそり誘われて、昼食をいただくこともあった。おばさんはときどきシャワーを使わせてくれ、服の洗濯までしてくれることもあった。夜には姉さんが、母の目を盗んで食べ物を分けてくれた。
 母が私を無視するようになっても、姉さんは相変わらず私に優しかった。それは彼女がずっと恵まれていたからだ。彼女は図書館に行かずとも、好きな本を買ってもらえた。お小遣いはいくらでももらえた。私が食べたことのないおやつを母からもらって、おいしそうに食べていることもあった。私は姉さんと自分の境遇を引き比べずにはいられなかった。なにももらえない自分が哀れでならなかった。姉さんもまた、母から見捨てられた私を哀れんでいた。私は図書館通いのおかげで、惨めや憎悪という言葉がどういうときに使われるものかを、よく知っていた。
 以前は姉さんと同じように母に愛されていた記憶がある。母の態度が変わったのは、私がアトピーを発症した小学校一年生からだ。母は姉さんを美しいもの、私を醜いものと見做すようになった。きっと、母が本当に愛していたものは、自分の美しい顔立ちと、それを継ぐ子供だけなのだろう。

 ※ ※ ※

 私は「毒芋虫」だの「キモい」だのの罵声に耐えながら、給食のためにその後も学校に通い続けた。机や教科書を汚されるのはどうでもよかったが、給食に悪戯されたときは本気で怒り、相手の女子の関節を折って、失神させた。
 母が学校に呼び出され、その日は私が失神するまで蹴られた。家からも完全に閉め出された。翌日の早朝に姉さんがこっそりベランダの鍵を開けてくれなかったら、私はのたれ死んでいたかもしれない。
 関節失神事件以降、私に馬鹿なちょっかいをかけてくる子はいなくなり、私は孤独な学校生活を満喫した。私の悩みは、母の理不尽なネグレクトだけになった。
 その母も、半年前に急死した。死因は私だけが知っている。私と姉さんは、外国に住む叔父夫婦に引き取られた。叔父と叔母はおおらかな人たちで、私たち姉妹に分け隔てなく接してくれる。私はやっと息がつけたような心地だった。叔父がいい医者を捜してくれたおかげで、私のアトピーもだんだん治まりつつあった。
 花畑の道の先で、外国人の叔母が早口でなにか言っている。お昼にハムとレタスのサンドウィッチを用意したが、いくつ食べられるか、と聞かれているようだ。姉さんが元気よく「ウィ」と答えている。
「お昼はサンドウィッチ、ですって。叔母さんの言葉、だんだん分かるようになってきたわ」
 姉さんが私を振り返る。
 モンシロチョウがひらひらと私たちの間を横切る。
「わからないことがあったら、なんでも聞いて。私、頑張って翻訳するから」
 妹が自分よりも哀れで劣った存在だと信じて疑わない姉さんの笑顔は、まっすぐで美しい。いびつに育った私とは違う。
「ありがとう、姉さん」
 私は再び、曖昧な微笑みを返した。
 この身に巣くうものは、いずれ私を食い破って出てくるだろう。
 私はきっと、姉さんの天敵になる。

5/10/2023, 4:18:25 AM

【忘れられない、いつまでも】

  ※なお、私は霊感まったくありません。


 俺の上にのしかかった女の、真っ赤な唇が囁く。
「忘れられない体験にして、あ、げ、る」
「そりゃ誰だって忘れられないでしょうよ令和の時代にボディコン幽霊に襲われたら。後日SNSで愚痴っちゃいますよ誰も信じてくれないだろうけど」
 俺はただいまパンツ一丁の格好で自宅のベッドに横たわり、女の幽霊――たぶん色情霊とかいうたぐいのやつに襲われている。深夜二時、草木も眠る丑三つ時。草木が眠るんだから俺も眠りたい。なんでいい感じに寝入ったところを、恋人でもないやつに起こされねばならんのだ。
 一応、俺の名誉のために言っておくが、べつに幽霊女に脱がされたわけではない。夏はパンイチで寝る習慣があるだけだ。そのせいで、初っ端から絵面がとんでもないことになってしまった。読者の皆様には謹んでお詫び申し上げます。
「あれ、金縛りになってるわけじゃないのか」
 俺は幽霊女をすり抜けてあっさり身を起こした。
「中途半端に霊感がある人には、効かないのよね」
 幽霊女がふいっと浮かんで、悔しそうに舌打ちする。
 たしかに俺にはちょっとした霊感があって、余計なものを見てしまうことが稀によくある。今日もうっかり目が合ってしまったから、こうなる予感はあった。まあ、どこぞの潰れたスナックの前で退屈そうに佇む時代錯誤のボディコン女に、つい目が釘付けになったというかなんというか、そこは男のサガでして、決してやましい気持ちで見ちゃったわけではないんです。だから夜這いは勘弁してください。
 いや、幽霊相手にしたてに出る必要はない。体を動かせるならすでに勝負はこっちのもんだ。俺にはインターネットで学んだ歴戦の幽霊撃退法がある。
 俺はやにわにパンツを脱ぎ捨て、全裸になった。剥き出しのケツを両手でバンバン叩き、白目を剥きながらベッドを忙しなく昇り降りする。
「びっくりするほどユートピア! びっくりするほどユートピア!」
「な、なにそれ……おったまげー……なんですけど……」
 目を丸くした幽霊女が、天井付近で硬直する。俺も硬直した。
「も、もしかして、ご存知ない? そして、効かない!?」
 今までの幽霊は、みんなこれで撃退してきたのに!?
 唖然とする俺を、首を傾げてふしぎそうに見つめる幽霊女。
 真夜中の二時。カーテン越しの街灯でうっすら照らされた部屋。床に投げ捨てられたパンツ。ベッドに片足をかけた全裸の俺。白目がちに天井を見上げている。両手はまだケツの上。
 できることなら、今すぐ記憶を消し去りたい。過去に遡ってインターネットの知識ごと葬りたい。
 ふいに、幽霊女が噴き出した。
「ふふっ、ナウいじゃん、おもしろい男」
「ウワーッ建ってはいけないフラグが建った!」
 幽霊女と青春ラブロマンスを繰り広げるつもりは毛頭ない! これはもう一刻も早く成仏していただかねば! 毛頭のない寺生まれのTさん、都合よく助けに来てくれ! 俺は国分寺生まれのイニシャルTでニアミスなんだよ!
 俺はパニックに陥り、思わず全裸で土下座を決行した。
「すみませんが、ただちにお引き取りください。俺には十年間片想いしてる子がいて、その子のために純潔を守り通してるんです」
「えっ、キモ……。でももう、あなたに取り憑くって決めちゃったのよね。四十年ぶりぐらいにあたしを見つけてくれた、唯一の人だから」
 俺の目の前まで降りてきた幽霊女が、気だるそうにワンレンをかきあげる。
「あなた、あたしがこの世を移動するための、アッシーにならない?」
「古っ……いや、アッシー目当てならいちいち襲う必要はないだろ! 憑いてまわられるのもごめんだけど!」
「あなたのしょうゆ顔、けっこう好みなのよね。せっかくだから生気を吸い取って、一緒に成仏するのもありかな、なんて」
「成仏する気はあるんだな!? 俺はないけど!」
「そりゃまあ、できるもんなら成仏したいわね。ずっと幽霊ってのも退屈だし」
「よしわかった、俺があんたの成仏に全面協力しよう。幽霊がこの世にとどまってるのは、未練があるからだ。あんたはいにしえのバブリー時代から残ってるようだが、いったいなにがそんなに未練なんだ? アッシーが欲しかったのか? まだバブル期を遊び足りないとか、男とデートしたかったとか? それとも、男にフラれた恨みでもあるのか? まさか、誰かがまだあんたのことを想ってて、この世に縛り付けてるパターンか?」
「そういうパターンの幽霊もいるだろうけど、あたしは正反対よ。あたしのことを覚えてる人が誰もいなくなって、世界のすべてに忘れ去られてしまったことが未練で、こっちにとどまってるの。幽霊になってれば、いつかは誰かにあたしのことを見つけてもらえるでしょ。あなたみたいに」
「幽霊の未練も多様性の時代かよ」
 この世から忘れ去られた人間がどれだけいると思ってるんだ。そんな理由でいちいち残られてちゃ、幽霊の人口密度が人間より多くなってしまう。人間より六倍羊が多いニュージーランドかよ。
「じゃあ、俺があんたのことをずっと忘れずに覚えてたら、あんたは心置きなく成仏できるってわけだな?」
 俺にのしかかってきたとき、忘れられない体験がどうのと言っていたのも、未練のせいか。
「そうねぇ。あなた、あたし好みのハンサムだし、あなたが墓場に入るまであたしのこと覚えてるって約束してくれるなら、成仏してやってもいいわ。もし忘れられたらすぐに戻ってきて、思い出させて、あ、げ、る」
 ちくしょう、なんてたちの悪い呪いだ。
 これで俺は幽霊女のことを、正真正銘、本当に忘れられなくなってしまった。それも、一生。
 仕方ない、あとでSNSに愚痴って、筆記による記憶の定着を図るか。いっそ、最近始めた書く習慣アプリに、愚痴と一緒につらつら書き残しておこうか。
「生きてるあいだも、幽霊になってからも、すっごく退屈な人生だったけど、最後に忘れられない素敵な思い出ができたわね。あなたのおかげよ、ハンサムさん」
 本当にもう成仏する気らしい。彼女の姿は薄れつつあった。えっ、早っ。こんなスピーディ成仏ができるなら、これまでのグダグダなフリは、俺の全裸土下座は、なんだったんだ。
「俺たち、この十数分のあいだに、そんな素敵な思い出になるような友好を結びましたっけ……?」
 もうほんのり影を認識できる程度になっていた彼女から、クスクスと笑い声が聞こえる。
「びっくりするほどユートピア」
「それは忘れてくれー!」
 俺の深夜の叫びは、誰もいない天井に吸い込まれていった。翌日、大家さんからしこたま怒られましたとさ。どっとはらい。

5/9/2023, 3:27:09 AM

【一年後】

 ※念のためゲーム名は伏せ字にしておきました。


「あなたの余命は、あと一日です」
 硬い顔で、そいつは告げた。
 まあ、硬い顔っていうか、髑髏顔なんだけど。
「そこをなんとか」
「無理です」
 私の担当者だと名乗って部屋に姿を現した死神は、私の嘆願をにべもなく却下した。
「せめて死因を教えてくださいよ」
「うっかり階段を踏み外したことによる転落死です」
「わー私らしい」
「ご納得いただけましたか」
「死因には納得したけど、死ぬことは納得できないなぁ。転落死って聞いたからには、慎重に歩くか、引きこもって動かないかで、避けることができるでしょ」
「そのときはべつの死因になります。死は必ず訪れるものなので」
「うーん、容赦ない。私まだ二十二歳なのに、こんな若い身空で……」
 いきなり死ぬと言われても、とうてい受け入れられるわけがない。あがけるものなら、なんとしてもあがきたい。
「そうだ、二人で賭け、というか、ゲームをしませんか? 私が勝ったらもう一年寿命を伸ばしてもらうとか」
「いいでしょう」
「えぇ……そんなあっさりと」
 死は必ずうんぬんと言いながら、賭けやゲームの勝敗で寿命を伸ばせるなんて、案外ゆるいな。
 死神はなぜか怒ったように、片手の鎌の柄で、ダン、と床を叩いた。うわ、下の階の人に怒られそう。
「わたしだって、こんなに早くあなたを殺したくはないんです。あなたが生まれたときから見守ってきたんですから」
 なるほど、タダで寿命を延ばすことはできないけれど、なんらかの口実があれば延ばすこともやぶさかではない、ということか。
 さてはこの死神、いいやつだな。
 私はいそいそとゲーム機の電源を入れて死神をテレビの前に誘い、桃太◯電鉄を提案した。余命の残り時間のことを考えて、プレイ年数は五十年ぐらい。勝負は白熱し、最終盤で貧乏神を回避し続けた私が勝った。

 当時はゲームのやりすぎのせいか面白い夢を見たなぁ、と思って起きてその後忘れてたけど、あれからぴったり一年後、また髑髏顔の死神が私の夢に現れた。
「あなたの余命は、あと一日です」
「お久しぶりですね!」
「なんで嬉しそうなんですか」
「いや、前一緒に遊んだの思い出してさ。楽しかったからさ」
「死因は交通事故です」
「わー完全スルー! また引きこもらなくちゃ」
「そんなことしても無駄ですよ」
「ここは平和的にゲームで解決」
「いいでしょう」

 その一年後、また死神は夢に現れた。私は手を叩いて喜んだ。
「待ってました! ゲームしましょう」
「あなた、わたしのこと遊び相手だと思っていませんか?」
「この歳になると私も友人もみんな社畜化して、一緒に遊ぶ機会が減るんです。さ、どれにします? 今はス◯ブラがアツいんですよ」

 その一年後も、そのまた一年後も、そのまた一年後も、死神は夢に現れ、私たちはゲームに興じた。
 死神と遊ぶ楽しいひとときを何度繰り返したかわからなくなったころ、私は初めて、ゲームに負けた。
「そろそろ、反射神経も、危うくなって、いたからねぇ」
 夢とも現実ともつかぬ曖昧な意識の中で、私はそう言って笑った。
「桃太◯電鉄に反射神経はいらないでしょう」
「そうだった。まあ、あと一日も、生きられるなら、上等だね」
 死神はあの頃とまったく変わらぬ髑髏顔で、病院のベッドの傍らに立っている。私は皺くちゃの手を伸ばして、髑髏のつるつる頭を撫でた。しっかりとした感触が、そこにあった。死神に触れたのは、これが初めてだったかもしれない。
「あと一年、を何度も、繰り返せば、九十まで、生きられるもんだねぇ」
 死神は怒ったように、ダン、と鎌の柄で床を叩いた。
「あなたの寿命を延ばすには、余命を告げて、あなたになんらかの提案をしてもらうしかなかったんです。神様が見てるから、神様にご納得していただける方法でしか……」
 え、神様、ゲームの勝敗で納得しちゃうんだ? ろくな神様じゃなさそうね?
「もしかして、わざと、負けてた?」
「そんなことしたらあなたが怒るので、するわけないです」
 死神はまた怒ったように鎌を鳴らす。
 と思ったら、髑髏の目から、ポロポロと涙を落とした。
 死神にも、涙はあるんだ。
「あなたの担当になれて、よかったです。とても楽しかったです。わたしを怖がらずにいてくれて、ありがとう」
「いや、最初は、怖かったけど、まあ、夢だし……」
 死神に触れていた腕から力が抜けていく。そういえば、ゲームをはじめてから、もう、一日は、経ってたっけな。
 どこからか、「大ばあちゃん!」と呼ぶ可愛い声が聞こえてくる。ああ、いつのまにか、曽孫たちが来てくれたのかな。でも、もう眠いから、遊ぶのはまた今度ね。
 目を閉じたつもりが、まだ閉じてなかったみたい。綺麗な光と羽根を背負った少女が、私の前に立っていた。
「あなた、もしかして」
「はい、わたしです。あなたを神様の御許へご案内しますね」
 少女が私の手を引く。
「なるほど、これから神様の審判的な?」
「いえ、あなたとゲームで遊んでみたいそうです」
「やっぱりろくな神様じゃなかった」

5/8/2023, 6:12:14 AM

【初恋の日】

「ウガァッー!」
 牙を剥き出して襲いかかってきた凶暴な半魚人、マーマンの首を一刀のもとに断ち切る。予想よりもはるかに柔らかなその手応えに、勢い余ってたたらを踏んだ。と思ったら、船が横波を被ったのか甲板が大きく揺れ、私はバランスを崩して転がってしまった。
「勇者様、お怪我は!?」
 後列にいた彼が慌てたように駆け寄り、手を差し伸べてくる。
 私を見つめる真剣な眼差しと、白魚のような頼りない手のギャップに、私は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
 彼は私のパーティに半年前に加入したという賢者だ。ローブをすっぽり頭まで被った、やや陰気な雰囲気の青年。フードの陰では、理知的な金色の瞳が鋭く光っている。その瞳が私を見つけてにっこりと柔らかく笑うたびに、心臓がどきりと跳ねてしまう。武器代わりの魔術書を抱えこんだときにローブの袖からチラリと見える、折れそうなくらい細い手首。光を透かしそうなほどに、白く滑らかな肌。なにもかもが私と正反対で、だからこそ、気になってしまう存在――っていうか、これはもう、完全に恋だ。初恋だ。
 私は生い立ちゆえに、二十になるこの歳まで、色恋沙汰とは無縁だった。それでいいと思っていた。勇者である以上、魔王打倒の使命を果たすまでは、色恋にかまけている暇はない。そもそも、勇者は博愛であるべきだ。特定の誰かを好きになるつもりはなかった。
 なのに、どうして彼への気持ちを抑えることができないんだろう。
「君が好きだ! どうしょうもなく好きだ!」
 彼の手に助け起こされたついでに、いてもたってもいられずにそう告げると、フードの下の目が大きくみひらかれた。そして――
「僕もですよ。ずっと、あなたが好きだったんです」
 甘く囁く声。はにかみで目を細めた、夕陽よりも眩しい笑顔――これ以上やめて、せっかく立ち上がったのに、また甲板に転がっちゃいそう。
 でも、どうしてだろう、何度もこの言葉を聞き、何度もこの笑顔を見たことがあるような気がする。
「もしかして、私は、その……昨日も、君を好きだった?」
「ええ。今日の告白で百八十回めです」
 彼はとても嬉しそうに告げる。私は赤面した。なんということだ、私は何度も何度も彼に惚れ、そのたびに告白していたということか。
「君はよっぽど私のタイプなんだな……」
「光栄です。日々そうありたいと願っているので」
 彼は嬉しさがこらえきれないというように私を強く抱きしめると、頬に小さなキスをくれた。明日の私が彼のことを忘れても、きっと私の肌だけは、このキスの感触を覚えている。

 ※ ※ ※

「まーたやってるよ、あのラブラブバカップル」
 暮れなずむ甲板の端で、聖騎士の青年が鎧を鳴らして肩をすくめた。
「毎日見せつけられる俺らの身にもなれっての」
「賢者くん、いい趣味してるよね。あんな筋骨隆々で汗臭い女のどこが好きなのかしら。今はあたしみたいに、ぴちぴちの細い子がトレンドでしょ」
 聖騎士の隣で長い杖を抱えこんでいる魔術師の少女は、みごとにぶんむくれている。
「おっと、毎日賢者くんに失恋してるからって、勇者様のことを悪く言うなよ。あのかたは一途だし、なにごとも全力でぶつかっていく、見ていて気持ちのいいかただ。賢者くんが惚れるのもわかるぜ。あーあ、世界が平和になったら、俺が婿入りするつもりだったのにな。ぽっと出のやつに横から掻っ攫われちまったな」
「まったく、うちのパーティ、あたし以外みーんな勇者様に夢中なんだから」
 魔術師の少女はまたむくれる。
「毎日毎日呪いの説明から始まって、賢者くんの紹介をして、今日の予定を説明して、敵の呪文でうっかり眠らないようごてごてに護符つけてもらって……同じことの繰り返しで、エルフのあたしでもいい加減飽きるわよ」
「その繰り返しの日々ももうすぐ終わるさ。さっきのマーマンでようやく解呪の薬の材料が揃ったんだ。あとは賢者くんに調合を任せればいい」
「あー、やっとだよねー。五つの材料集めの旅、大変だったなー。ああ、これで、やっと……やっと安心して、パパの仇の魔王を倒しに行ける……」
 魔術師の少女は船の縁にもたれかかり、そのままへなへなとへたりこんだ。

 ※ ※ ※

 僕の恋人は、呪われている。
 記憶を弄ぶ力を持った魔王の幹部、あいつを倒したときに呪われた。あいつはきっと彼女の記憶を全て消し去りたかったのだろうが、術を完成させる前に絶命したもんだから、呪いは中途半端に発動した。以降、彼女はたった一日しか記憶を保てなくなった。夜眠ると、その日にあった出来事を全て忘れてしまうのだ。
 僕はどんな呪いでも解けるという触れこみで、賢者として彼女のパーティに加入した。実際、僕にはあらゆる呪いを解く万能薬の知識があった。足りないものは、薬の材料だけ。勇者のためならと、パーティの仲間は材料集めに快く協力してくれた。
 万能薬の調合に必要な材料は、彼らに告げた〝五つ〟だけじゃない。本当は、七つある。
 まず一つめ、〈エルフの聖なる王族が集めた精霊花の蜜〉。これは簡単だった。パーティ内にエルフの王女がいて、彼女の里帰りついでに集めてもらった。
 二つめ、〈闇魔女の涙〉。これも案外なんとかなった。闇魔女のもとへ至る道のりは茨やら峡谷やら毒沼やらで面倒だったが、魔女の家に辿り着いた僕たちが事情を話すと、すぐに「可哀想にねぇ」とぼろぼろ泣いてくれた。辺鄙な場所にずっと一人で住んでいるから、話し相手に飢えていたらしい。熱烈な歓迎ぶりだった。一晩泊めてもらった翌日、監禁されかけたのを振り切って逃げ出すほうが、行きの道より大変だった。このときに飛空挺を入手できたおかげで、その後の材料集めが捗った。
 三つめ、〈サラマンダーの逆鱗×九〉。サラマンダーは業火を噴く巨大ドラゴンで、火山に棲みついている。飛空挺のおかげで、各地の有名な火山を九箇所、楽に回ることができた。もはや世界一周観光旅行だった。サラマンダー自体は、もちろん勇者パーティの敵じゃない。僕たちのせいでサラマンダーが絶滅しないか、エルフの魔術師が心配していた。たぶんもう手遅れだ。
 四つめ、〈神の住まう天空城の庭に生えている黄金のリンゴ〉。火山巡りで空を飛んでいた最中、たまたま天空城を見つけることができた。城はすでに廃墟で、リンゴはかろうじて実ってたけど、手入れされてないから虫がついていた。味も以前よりは落ちていそうだ。
 五つめ、〈マーマンの目の裏の栄養たっぷりなところ〉。あそこおいしいよね。ちょっと生臭いけど。マーマンは船で魔王城近くの沖に出ればだいたい襲ってくるから、それを撃退するだけで入手できた。それが今日のできごと。
 そして、誰にも告げていない六つめ。〈不死鳥の血〉。不死鳥は僕が別次元に閉じこめちゃったから、もうこの世界にはいない。でも、血は魔王城の宝箱に瓶詰めで入れておいたから、夕食後、パーティの目を盗んでこっそり宝物庫に転移するだけで入手できた。
 最後、秘密の七つめ、〈魔王の角〉。これはもうすでにとってあるから、問題ない。
 僕の手元には今、全ての材料が揃っている。
 自分の角を削って粉にしたものを、他の材料とともに混ぜる。これで、完成。あらゆる呪いを跳ね除ける解呪の万能薬、一人前の出来上がり。
 小さな薬瓶に詰めた万能薬を、彼女の船室に持っていく。彼女はベッドに腰掛け、僕を待っていた。周囲にはすでに他のメンバーも揃っていて、期待に満ち満ちた眼差しで僕を見つめてくる。
「これで、本当に呪いが解ける?」
 彼女に薬瓶を手渡すと、潤んだ黒い瞳が僕を見上げてきた。僕は頷いた。
「そのために、僕はここにいるんです」
 彼女は僕の目を見て力強く頷くと、ためらいなく、瓶の中身を一気に飲み干した。
「げ、なんか血生臭いリンゴみたいな味」
 瓶から口を離した途端に、鼻をつまんで咳きこむ。ごめん、マーマンの臭み取り忘れてた。リンゴもちょっと腐ってたかも。
「あれ、すごく眠くなって……。待って、やだ、まだ寝たくない」
 傷だらけの手が、僕の袖にすがりつく。
 彼女はいつも、眠りを怖がる。眠ると、その日の僕たちの思い出が、交わした愛の囁きが、全て消えてしまうと知っているから。
 普段は魔物相手に容赦なく剣を振るう彼女が、眠りに落ちる直前は、せつなげな瞳で僕にすがる。そのギャップに、心臓の奥をぎゅっと掴まれる。愛おしいけれど、苦しい。彼女にはできるだけ、安らかに眠ってほしい。
「この薬は、眠っている間に、その体にかかった全ての呪いを解いてくれます。だから、今日はもうおやすみなさい。新しく始まる明日のために」
 僕は彼女の額にそっとキスを落とした。いつもの眠りの呪いをこめて。
 やれやれ、まただぜ、と聖騎士が肩をすくめる気配。やってられない、とばかりに魔術師が部屋を出ていく。他の仲間もそれに続き、船室には僕と勇者だけが残された。
 ベッドでころんと眠りに落ちた彼女に、毛布をかける。
 僕の大切な恋人を苦しめている不完全な呪いは、不出来な部下のやらかしだ。でも、今となっては、よくやった、とあいつを褒めずにはいられない。せめてもの褒美にと、豪勢な墓に弔っておいた。墓の効果で、そのうちまた元気に転生してくるだろう。
 僕はあの日、幹部と彼女の戦いを千里眼で見ていた。どんなに傷だらけになっても真っ直ぐに立ち向かっていく彼女の強さに、その瞳の光に、たちまち恋に落ちた。生まれて十八年、魔王になってたった三年、まだ妃のことすら考えたこともなかったのに、あっという間の初恋だった。
 部下の不始末を利用し、賢者のふりをして勇者パーティに潜りこんだ。魔王城でなにするともなく退屈な日々を過ごしていた僕にとって、彼女やその仲間たちと一緒に世界中を旅して回る冒険の日々は、あまりにも刺激的だった。そのうえ、惚れた相手からの、毎日の告白。彼女はどんなに照れたとしても、その気性と同じぐらい真っ直ぐに、強く、恋を告げてくれる。そのときの彼女の表情を思い返すたび、口元がだらしなく緩んでしまう。
 でも、こんなに楽しい恋人ごっこも、今日限りだ。万能薬を飲んだ彼女には、今後どんな呪いも効かなくなるだろう。僕が彼女の告白を毎日聞きたいがためにかけていた、ささやかな魅了の呪いも。
 勇者の初恋の日々は、これでおしまい。
 明日目覚めたとき、初対面の僕を見て、彼女はなにを思うだろう。陰気な僕の姿は、彼女の目に、どんなふうに映るだろう。
 すやすやと寝息をたてる彼女の頬に、最後のキスを落とした。
 願わくば、もう一度、彼女の唇から恋の告白が聞けますように。まだ君が魅了の呪いにかかっていなかった、本当の初対面の、あの日のように。

5/3/2023, 2:53:55 AM

【優しくしないで】

「た、頼む、もうそんなに優しくしないでくれ!」
 俺は後輩に向かって手を合わせ、懇願した。
「なーに言ってるんですか先輩、こんなに愛らしい存在、誰だって優しくせずにはいられませんよ」
 後輩はにこにこと笑いながら、残酷なほどに優しい手つきで撫でまわす。
「だ、だめだ、それ以上されたらっ!」
「先輩、声が上ずってますよ〜。なにがだめなんですか〜?」
「ミーちゃんが、俺よりおまえに懐いちゃうだろーっ!」
 ミーちゃんは俺の大切な家族だ。世界で一番可愛い一歳。もうすぐ二歳。三毛猫だから、マイ・プレシャス・エンジェル・ミケコと名付けた。愛称はミーちゃん。家族になって数ヶ月、まだお互いが慣れなくて、俺とミーちゃんのあいだにはぎこちない距離があった。最近ようやくちょっとだけ撫でさせてくれるようになったミーちゃんはいま、後輩の膝の上で丸餅のように丸くなっている。後輩の優しい手つきで顎や背中を撫でまわされ、とろんと瞼を落として夢心地だ。
 俺はミーちゃんから遠く離れた地で、カメラ越しの光景に歯がみすることしかできない。
「そんな、二十代の若者にあるまじき怖い顔で睨まないでくださいよ。そもそも先輩みたいないかつい声と体のコワモテ野郎は、猫ちゃんの好みじゃないんです。私みたいな、声も体も柔らかいお姉さんのほうが好きに決まってます」
「だからって、ミーちゃんの心を奪わなくても!」
「いいじゃないですか、しばらく私がお世話する子なんですから。ほーらミーちゃん、百戦錬磨のお姉さんが、たーっぷり可愛がってあげますからね〜」
「お、俺のミーちゃんが、悪い女に誑かされるー!」
 俺はホテルの一室で、ノートパソコンに向かって頭を抱えた。


 ミーちゃんと家族になってからは、外泊の必要な仕事はもう絶対に受けるもんかと心に決めていた。だが、どうしても断れない出張の仕事が入って、大切なミーちゃんを後輩の家に預けざるをえなくなった。後輩は実家で猫を飼っていたこともあり、猫の世話には慣れている。だからこそ頼んだのだが、あそこまで猫の扱いに長けているとは、誤算だった。
 この仕事、一刻一秒でも早く終えて、さっさとミーちゃんのもとへ帰らねばならない。これ以上、後輩にでろでろに溶かされたミーちゃんを見たくない。俺が後輩のアパートの扉を叩くまで、どうか、俺を忘れずに待っててくれ、ミーちゃん!
 俺は頭いっぱいにミーちゃんのことを思い浮かべながら、柱の陰で銃を構え、ターゲットに照準を合わせた。
 あいつはまだ俺に気づいていない。犬のように這いつくばって、昨晩の獲物の残りを貪っている。
 ここは廃病院。化け物が出演する怪談には、うってつけの場所だ。だが、目の前で人間を食らっている化け物は、ばかげた怪談ではない。B級映画の撮影でもない。ばかばかしいほどに、現実だ。昨晩も、俺がノートパソコンの前で頭を抱えているあいだに、肝試しのガキどもが犠牲になった。生き残ったやつの証言のおかげで、この場所が割りだせた。
 人間とそっくり同じ姿をして、牙と爪だけが異様に発達したあの化け物は、〈外道〉と呼ばれている。外道は人を襲い、血を啜り肉を食らう。多少知恵が回るから、日中は人目につかないよう、こうした廃墟に隠れている。
 あいつら外道を見つけ出し、殲滅する。それが俺の仕事だ。
 外道は連鎖する。外道に噛まれて生き残った人間が、外道に変化することがあるのだ。たちの悪い――いや、そんな言葉じゃ生易しい、あまりにも邪悪すぎるウイルス、のようなもの。だから根絶やしにしなければならない。しかし、その命を奪うには、銀製の弾丸を心臓に直接撃ちこむ必要がある。俺のように訓練された専門の外道ハンターでなければ、成し得ない仕事だ。
 今後狩るのは近場の外道だけ、と宣言した俺にわざわざこんな遠方のターゲットが回ってきた理由なら、心当たりしかない。ボスは知っているのだ、俺が今回のターゲットを絶対に断らない、どころか、他のハンターを押しのけてまで飛びつくことを。ボスは俺の育ての親だから、俺のことをよく知っている。外道に食い荒らされた、俺の昔の家族のことも。
 ターゲットがふと顔を上げた。俺が隠れている柱をまじまじと見つめる。――気取られた! だが、俺は真正面からあいつの顔を見たくて、このときを待っていたんだ。
 忘れもしない、ずっと追い続けていたその顔。母さんと父さんと妹の、仇。
 俺は銃を構えたまま柱の陰から出て、あいつの前に全身をあらわした。
「久しぶりだな。やーっと見つけたぜ」
 見つけたのは公安で、下請けハンターの俺は、ボスから情報を聞いてすっ飛んで来ただけだけどな。
 ゆらりと立ち上がったあいつが、食事の邪魔をした俺を睨みつける。その眼に、人間だったころの理性は欠片も見えない。
 だから、この引き金は、俺が引かなきゃいけないんだ。
「さよなら、そしておやすみ、兄さん」


「ミーちゃん! 俺だ! 開けてくれ!」
「ちょっと! そんなに叩かなくたっていま開けますから! っていうか呼び鈴あるんだから使ってください!」
 後輩が不機嫌な顔でさっとドアを開け、俺を引きずりこんでから、素早く閉める。
「み、ミーちゃんは? ミーちゃんはどこだ!?」
「ノックの音にびっくりして隠れちゃいましたよ。愛の力で捜してください」
 後輩は冷たくそう言って、さっさとリビングに引っこんでしまう。
「み、ミーちゃん……」
 俺はよろよろと後輩の家に上がって、ミーちゃんの捜索を開始した。
 バスルーム、いない。台所の戸棚の中、いない。冷蔵庫と壁の隙間、いない。リビングのソファの下、いない。
「まさか仕事終わって直接来たんですか? 怪我とかしてませんよね?」
 俺の焦りなど知らぬげに、後輩はリビングのミニテーブルで悠々と頬杖をついている。
「俺を誰だと思ってる」
「ミーちゃんの奴隷にして、一撃必殺最強ハンター」
 はい、その通りです。本棚の中、いない。カーテンの向こう、いない。テレビ台の下、いない。テレビの裏、――いた!
「ああ〜ミーちゃん〜」
 俺が手を伸ばしたら、ミーちゃんは毛を逆立ててびくっと飛びあがり、ますます奥に引っこんでしまった。
 ま、まさか、もう俺のこと忘れちゃったの……?
「なにやってんですか」
 後輩があきれ顔で息をつく。
 テレビ横から俺を押しのけ、手にした細長い袋を振る。
「ミーちゃん、おやつタイムだよ〜」
 とたんに、ミーちゃんがテレビ裏から飛び出してきた。
「俺の愛が、ちゅーるに負けた……?」
「見つけるとこまではできたじゃないですか。あとは猫スペシャリストの私にお任せあれ」
 後輩はちゅーるの袋を振って、ミーちゃんをリビングの餌入れまで誘導した。ミーちゃんはミャーミャーと必死に鳴いて、何度も後輩に飛びついている。ああ、俺のミーちゃん……すっかり悪い女に誑かされてしまって……こんなミーちゃんの姿、見たくなかった……。俺はリビングの片隅で、そっと涙を拭った。
 ミーちゃんは皿に出されたちゅーるを熱心に舐めきって、口の周りもペロペロと舐めたあと、ようやく俺を視界に入れて、なんだおまえか、という顔になった。覚えててくれてよかった。さきほどの警戒心も解いてもらえたようだ。
「ミーちゃーん、おいでー」
 俺の猫撫で声は、耳をぴくりと動かしただけで無視。お腹いっぱいになって眠くなったのだろう、さっきまで後輩が座っていたクッションまでとてとてと歩き、可愛い欠伸をひとつかましてから、でろんと横になる。
 ああ、このそっけなさ、いつものミーちゃんだ。たとえ後輩に誑かされていようとも、可愛さに変わりはない。むしろのびのびしててますます可愛い。
 このかけがえのない家族のために、俺は心に決めたことがある。
「もう、ハンターは引退する」
「そうですか。ということは、ようやく、目的を果たせたんですね」
 ミーちゃんと俺のあいだでちょこんと座っていた後輩が手を伸ばし、俺の頭を撫でまわした。
「辛いお仕事、お疲れ様でした」
「いまの俺に、そんなふうに優しくするなよ……」
「ふふ、泣きそうですね。落ちこんでるときには、猫が効くんですよ」
 後輩が笑ってミーちゃんを持ち上げ、俺のあぐらの上に仰向けで置いた。
 ミーちゃんは耳をぴくっと動かしただけで、嫌がりもせず、そのまま目を閉じてうとうとしている。
「――っ! は、はじめて、ミーちゃんに優しくしてもらえたっ!」
「いえ、ミーちゃんはただ眠くて、動くのが面倒なだけです。先輩に優しいのは、私だけで充分ですから」
「……え?」
「ふふ、なんでもありません。せっかくなので、今日は引退祝いのパーティでもしましょうか。ちょうど、たまたま、偶然、先輩の好きなお酒があるんですよ」
 後輩は俺を誑かしかねない悪い笑顔を浮かべて、弾む足取りで台所に向かっていった。


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5/2お休みしたので、今日は書きました。
次はGW開けの5/8ごろに。

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