sleeping_min

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【優しくしないで】

「た、頼む、もうそんなに優しくしないでくれ!」
 俺は後輩に向かって手を合わせ、懇願した。
「なーに言ってるんですか先輩、こんなに愛らしい存在、誰だって優しくせずにはいられませんよ」
 後輩はにこにこと笑いながら、残酷なほどに優しい手つきで撫でまわす。
「だ、だめだ、それ以上されたらっ!」
「先輩、声が上ずってますよ〜。なにがだめなんですか〜?」
「ミーちゃんが、俺よりおまえに懐いちゃうだろーっ!」
 ミーちゃんは俺の大切な家族だ。世界で一番可愛い一歳。もうすぐ二歳。三毛猫だから、マイ・プレシャス・エンジェル・ミケコと名付けた。愛称はミーちゃん。家族になって数ヶ月、まだお互いが慣れなくて、俺とミーちゃんのあいだにはぎこちない距離があった。最近ようやくちょっとだけ撫でさせてくれるようになったミーちゃんはいま、後輩の膝の上で丸餅のように丸くなっている。後輩の優しい手つきで顎や背中を撫でまわされ、とろんと瞼を落として夢心地だ。
 俺はミーちゃんから遠く離れた地で、カメラ越しの光景に歯がみすることしかできない。
「そんな、二十代の若者にあるまじき怖い顔で睨まないでくださいよ。そもそも先輩みたいないかつい声と体のコワモテ野郎は、猫ちゃんの好みじゃないんです。私みたいな、声も体も柔らかいお姉さんのほうが好きに決まってます」
「だからって、ミーちゃんの心を奪わなくても!」
「いいじゃないですか、しばらく私がお世話する子なんですから。ほーらミーちゃん、百戦錬磨のお姉さんが、たーっぷり可愛がってあげますからね〜」
「お、俺のミーちゃんが、悪い女に誑かされるー!」
 俺はホテルの一室で、ノートパソコンに向かって頭を抱えた。


 ミーちゃんと家族になってからは、外泊の必要な仕事はもう絶対に受けるもんかと心に決めていた。だが、どうしても断れない出張の仕事が入って、大切なミーちゃんを後輩の家に預けざるをえなくなった。後輩は実家で猫を飼っていたこともあり、猫の世話には慣れている。だからこそ頼んだのだが、あそこまで猫の扱いに長けているとは、誤算だった。
 この仕事、一刻一秒でも早く終えて、さっさとミーちゃんのもとへ帰らねばならない。これ以上、後輩にでろでろに溶かされたミーちゃんを見たくない。俺が後輩のアパートの扉を叩くまで、どうか、俺を忘れずに待っててくれ、ミーちゃん!
 俺は頭いっぱいにミーちゃんのことを思い浮かべながら、柱の陰で銃を構え、ターゲットに照準を合わせた。
 あいつはまだ俺に気づいていない。犬のように這いつくばって、昨晩の獲物の残りを貪っている。
 ここは廃病院。化け物が出演する怪談には、うってつけの場所だ。だが、目の前で人間を食らっている化け物は、ばかげた怪談ではない。B級映画の撮影でもない。ばかばかしいほどに、現実だ。昨晩も、俺がノートパソコンの前で頭を抱えているあいだに、肝試しのガキどもが犠牲になった。生き残ったやつの証言のおかげで、この場所が割りだせた。
 人間とそっくり同じ姿をして、牙と爪だけが異様に発達したあの化け物は、〈外道〉と呼ばれている。外道は人を襲い、血を啜り肉を食らう。多少知恵が回るから、日中は人目につかないよう、こうした廃墟に隠れている。
 あいつら外道を見つけ出し、殲滅する。それが俺の仕事だ。
 外道は連鎖する。外道に噛まれて生き残った人間が、外道に変化することがあるのだ。たちの悪い――いや、そんな言葉じゃ生易しい、あまりにも邪悪すぎるウイルス、のようなもの。だから根絶やしにしなければならない。しかし、その命を奪うには、銀製の弾丸を心臓に直接撃ちこむ必要がある。俺のように訓練された専門の外道ハンターでなければ、成し得ない仕事だ。
 今後狩るのは近場の外道だけ、と宣言した俺にわざわざこんな遠方のターゲットが回ってきた理由なら、心当たりしかない。ボスは知っているのだ、俺が今回のターゲットを絶対に断らない、どころか、他のハンターを押しのけてまで飛びつくことを。ボスは俺の育ての親だから、俺のことをよく知っている。外道に食い荒らされた、俺の昔の家族のことも。
 ターゲットがふと顔を上げた。俺が隠れている柱をまじまじと見つめる。――気取られた! だが、俺は真正面からあいつの顔を見たくて、このときを待っていたんだ。
 忘れもしない、ずっと追い続けていたその顔。母さんと父さんと妹の、仇。
 俺は銃を構えたまま柱の陰から出て、あいつの前に全身をあらわした。
「久しぶりだな。やーっと見つけたぜ」
 見つけたのは公安で、下請けハンターの俺は、ボスから情報を聞いてすっ飛んで来ただけだけどな。
 ゆらりと立ち上がったあいつが、食事の邪魔をした俺を睨みつける。その眼に、人間だったころの理性は欠片も見えない。
 だから、この引き金は、俺が引かなきゃいけないんだ。
「さよなら、そしておやすみ、兄さん」


「ミーちゃん! 俺だ! 開けてくれ!」
「ちょっと! そんなに叩かなくたっていま開けますから! っていうか呼び鈴あるんだから使ってください!」
 後輩が不機嫌な顔でさっとドアを開け、俺を引きずりこんでから、素早く閉める。
「み、ミーちゃんは? ミーちゃんはどこだ!?」
「ノックの音にびっくりして隠れちゃいましたよ。愛の力で捜してください」
 後輩は冷たくそう言って、さっさとリビングに引っこんでしまう。
「み、ミーちゃん……」
 俺はよろよろと後輩の家に上がって、ミーちゃんの捜索を開始した。
 バスルーム、いない。台所の戸棚の中、いない。冷蔵庫と壁の隙間、いない。リビングのソファの下、いない。
「まさか仕事終わって直接来たんですか? 怪我とかしてませんよね?」
 俺の焦りなど知らぬげに、後輩はリビングのミニテーブルで悠々と頬杖をついている。
「俺を誰だと思ってる」
「ミーちゃんの奴隷にして、一撃必殺最強ハンター」
 はい、その通りです。本棚の中、いない。カーテンの向こう、いない。テレビ台の下、いない。テレビの裏、――いた!
「ああ〜ミーちゃん〜」
 俺が手を伸ばしたら、ミーちゃんは毛を逆立ててびくっと飛びあがり、ますます奥に引っこんでしまった。
 ま、まさか、もう俺のこと忘れちゃったの……?
「なにやってんですか」
 後輩があきれ顔で息をつく。
 テレビ横から俺を押しのけ、手にした細長い袋を振る。
「ミーちゃん、おやつタイムだよ〜」
 とたんに、ミーちゃんがテレビ裏から飛び出してきた。
「俺の愛が、ちゅーるに負けた……?」
「見つけるとこまではできたじゃないですか。あとは猫スペシャリストの私にお任せあれ」
 後輩はちゅーるの袋を振って、ミーちゃんをリビングの餌入れまで誘導した。ミーちゃんはミャーミャーと必死に鳴いて、何度も後輩に飛びついている。ああ、俺のミーちゃん……すっかり悪い女に誑かされてしまって……こんなミーちゃんの姿、見たくなかった……。俺はリビングの片隅で、そっと涙を拭った。
 ミーちゃんは皿に出されたちゅーるを熱心に舐めきって、口の周りもペロペロと舐めたあと、ようやく俺を視界に入れて、なんだおまえか、という顔になった。覚えててくれてよかった。さきほどの警戒心も解いてもらえたようだ。
「ミーちゃーん、おいでー」
 俺の猫撫で声は、耳をぴくりと動かしただけで無視。お腹いっぱいになって眠くなったのだろう、さっきまで後輩が座っていたクッションまでとてとてと歩き、可愛い欠伸をひとつかましてから、でろんと横になる。
 ああ、このそっけなさ、いつものミーちゃんだ。たとえ後輩に誑かされていようとも、可愛さに変わりはない。むしろのびのびしててますます可愛い。
 このかけがえのない家族のために、俺は心に決めたことがある。
「もう、ハンターは引退する」
「そうですか。ということは、ようやく、目的を果たせたんですね」
 ミーちゃんと俺のあいだでちょこんと座っていた後輩が手を伸ばし、俺の頭を撫でまわした。
「辛いお仕事、お疲れ様でした」
「いまの俺に、そんなふうに優しくするなよ……」
「ふふ、泣きそうですね。落ちこんでるときには、猫が効くんですよ」
 後輩が笑ってミーちゃんを持ち上げ、俺のあぐらの上に仰向けで置いた。
 ミーちゃんは耳をぴくっと動かしただけで、嫌がりもせず、そのまま目を閉じてうとうとしている。
「――っ! は、はじめて、ミーちゃんに優しくしてもらえたっ!」
「いえ、ミーちゃんはただ眠くて、動くのが面倒なだけです。先輩に優しいのは、私だけで充分ですから」
「……え?」
「ふふ、なんでもありません。せっかくなので、今日は引退祝いのパーティでもしましょうか。ちょうど、たまたま、偶然、先輩の好きなお酒があるんですよ」
 後輩は俺を誑かしかねない悪い笑顔を浮かべて、弾む足取りで台所に向かっていった。


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5/2お休みしたので、今日は書きました。
次はGW開けの5/8ごろに。

5/3/2023, 2:53:55 AM