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【モンシロチョウ】

※虫注意。とくに芋虫が苦手なかたは避けてください。


 小学三年生の夏休み前、教室でモンシロチョウの幼虫を二匹飼っていた時期があった。蝶の完全変態を学べるからと、先生が近所のキャベツ農家からもらってきたのだ。透明な虫かごの中で、幼虫はキャベツの葉をもりもりと食べていた。
 私は幼虫の世話係になった。誰もやりたがらなかったから、私に回ってきたのだ。私は通学路の途中にあるキャベツ農家に毎日通った。幼虫の餌になるキャベツの葉をもらうためだ。先生から話を聞いていた農家のおばさんは、「お勉強えらいねぇ、頑張ってね」と快くキャベツの葉を分けてくれた。いちばん外側の、人間は食べない部分の葉だ。その葉を半分、幼虫のためにとっておき、残り半分は自分の朝食にしていた。
 通学中、もらったキャベツの葉をもしゃもしゃ頬張っていたら、それを見た男子にひどくからかわれた。以降、私のあだ名は「芋虫」になった。
 二匹の幼虫はすくすくと育っていった。……と言いたいところだが、一匹は成長が遅かった。飼い始めて一週間を過ぎると、あまりキャベツの葉を食べなくなった。夏バテだろうか、と私は思った。私も梅雨時の蒸し暑さで食欲が減退していた。とはいえ、朝食代わりのキャベツと学校の給食ぐらいしか、私が食べられるものはない。食べ残しは私の体力にとって致命的だから、食欲がなくてもなんとか掻き込んでいた。一方、幼虫には毎日新鮮で大きな葉が与えられていて、ちょっと食事をサボったぐらいでは、餓え死にする心配はない。恵まれている者はいいな、私はそんな暢気な考えで、幼虫たちの成長を見守った。
 一匹目が蛹化し、二匹目もそろそろというころ、幼虫の異変に気づいた。幼虫の体の色が、なんだか黒っぽい。そして、ほとんど動かない。病気になってしまったのだと思った。私みたいな皮膚の病気かもしれない。先生に報告すると「寄生虫だね」と、こともなげに言われた。
 どうやら、蝶の幼虫の体に卵を産み付ける天敵の蜂がいるらしい。蜂の卵は幼虫の体内で孵化し、幼虫の体を食べて育つ。その話を聞いて、ぞわり、としたものが背筋を這った。自分の身体の中でも、なにか恐ろしいものが育っている、そんな錯覚に苛まれた。
 その日はちょうど三時間目が理科だったから、先生は教卓に虫かごを置いて、モンシロチョウの生態について授業をしてくれた。モンシロチョウの幼虫がキャベツの葉を食べると、キャベツはそれを嫌がって、天敵の蜂を呼び寄せる信号を出すのだそうだ。先生はどこか嬉しそうに、小学生にはまだ難しいことまでも話してくれた。
 幼虫がキャベツを食べるだけで敵を呼び寄せてしまうと知ったとき、私は衝撃を受けた。生きるために必要な行為が、内側から食われる危険と隣り合わせなのだ。……ならば、私は? 私もまた、生きるためにキャベツを食べている。そのたびに、なにか危険なものを呼び寄せていないだろうか? またぞわぞわとしたものが背筋を這いのぼった。だが、それは奇妙に心地のよい感触でもあった。自分が自分ではないものに変わっていく想像を、私は楽しんだ。
 先生が虫かごからキャベツの葉を取り出し、それを端の席の子に渡して、クラス全員に回すようにと指示した。キャベツはキャーキャー投げられるようにして、私の机にも回ってきた。
 キャベツの端にはいびつな形の幼虫が乗っていた。もうほとんど動かない。この子は畑にいたころから蜂に寄生されていたのだろう。私が毎日キャベツを与えて育てていたのは、モンシロチョウの幼虫ではなく、蜂の幼虫だったのだ。
 次の席の子に回そうとキャベツの葉を持ち上げた、そのときだった。いびつな幼虫の身体を食い破って、小さな芋虫が這い出てきたのは。それも、一匹だけではない。何匹も、ぞろぞろと。
「げ、気持ち悪い!」
 後ろの席の子が騒ぎ出し、好奇心の強い男子が覗き込んですぐさまダッシュで逃げ、芋虫が見える距離にいた女子は硬直して泣き出し、教室は騒然となった。
「芋虫が芋虫生んでら!」
「芋虫が芋虫見てら!」
 騒ぐクラスメイトを尻目に、私は目の前で繰り広げられるその光景にかじりついていた。
 幼虫から出てきた小さな芋虫たちは糸を吐き、自分のための繭を作っていく。瀕死の幼虫もそれを助けるように糸を吐き、芋虫たちの繭を固めていく。ふしぎだった。自分を食い荒らしたものを、なぜ守ろうとしているのだろう。もしかして、寄生された幼虫は心までも芋虫と同じものになっているのだろうか。全身にぞわぞわと逆立つものを感じつつ、私は虫たちの様子から目を離せなかった。

 ※ ※ ※

「どうしたの」
 ぼんやり歩いていたら、姉さんが顔を覗き込んできた。
「ちょっと昔のことを思い出して」
 昔といっても、まだ三年前のことだけど。
「こんなに綺麗な場所で? 昔のことなんて、あなたにとってはろくな思い出じゃなさそうなのに」
 姉さんが悲しそうに笑う。
「そうでもないよ」
 私は曖昧に微笑みを返す。
 三つ年上の姉さんは、いつも私に優しい。
 私たちは叔母に連れられて、近郊の菜の花畑へピクニックに来ていた。あちこちでモンシロチョウがひらひらと舞っている。そのせいだ、私の中がざわついているのは。
 花畑の隙間を縫う細い道の先で、明るい叔母が手を振っている。
「お昼を食べよう、って言ってるみたい。行きましょ」
 姉さんの白い手が、アトピーで黒ずんだ私の手を強く引く。
 二人の白いワンピースが、花畑の中でひらひらと美しく舞った。

 ※ ※ ※

 虫かごの蛹は美しいモンシロチョウになって、教室の窓から飛び立っていった。しぼんだ幼虫の死骸にくっついている蜂の繭は、虫かごにそのまま残された。数日後にふと虫かごを見ると蜂がうじゃうじゃ湧いていたので、私は虫かごを外に持ち出し、こっそりと逃がした。
 私はまだ幼虫がいると偽って、農家のおばさんからキャベツの葉をもらっていた。痩せているうえにほぼ毎日同じ服を着ていた私に、おばさんはなにかを察していたのだろう。キャベツの内側の柔らかい葉をくれるようになった。私はありがたくそれを貪った。私の嘘は、夏休みに入るまで続いた。
 学校と給食のない夏休み中は地獄だった。家では母と姉さんだけが家族で、私の存在はないものとして扱われていた。私はほとんどの日を図書館で過ごした。おかげで、たくさん本を読むことができた。昆虫図鑑でモンシロチョウのことを調べ、モンシロチョウが好むアブラナ科の葉が、他の虫にとっては毒だということを知った。それがきっかけで、毒に興味を持つようになった。
 しかし、いくら本を読んだところで、腹は膨れない。図書館に行く途中の商店街でパンの耳の袋詰めを売っているときは、十円でそれを買って、公園で食べた。当然、お小遣いなんてもらってないから、お金の出所は、自販機の下の百円玉だ。
 農家のおばさんにこっそり誘われて、昼食をいただくこともあった。おばさんはときどきシャワーを使わせてくれ、服の洗濯までしてくれることもあった。夜には姉さんが、母の目を盗んで食べ物を分けてくれた。
 母が私を無視するようになっても、姉さんは相変わらず私に優しかった。それは彼女がずっと恵まれていたからだ。彼女は図書館に行かずとも、好きな本を買ってもらえた。お小遣いはいくらでももらえた。私が食べたことのないおやつを母からもらって、おいしそうに食べていることもあった。私は姉さんと自分の境遇を引き比べずにはいられなかった。なにももらえない自分が哀れでならなかった。姉さんもまた、母から見捨てられた私を哀れんでいた。私は図書館通いのおかげで、惨めや憎悪という言葉がどういうときに使われるものかを、よく知っていた。
 以前は姉さんと同じように母に愛されていた記憶がある。母の態度が変わったのは、私がアトピーを発症した小学校一年生からだ。母は姉さんを美しいもの、私を醜いものと見做すようになった。きっと、母が本当に愛していたものは、自分の美しい顔立ちと、それを継ぐ子供だけなのだろう。

 ※ ※ ※

 私は「毒芋虫」だの「キモい」だのの罵声に耐えながら、給食のためにその後も学校に通い続けた。机や教科書を汚されるのはどうでもよかったが、給食に悪戯されたときは本気で怒り、相手の女子の関節を折って、失神させた。
 母が学校に呼び出され、その日は私が失神するまで蹴られた。家からも完全に閉め出された。翌日の早朝に姉さんがこっそりベランダの鍵を開けてくれなかったら、私はのたれ死んでいたかもしれない。
 関節失神事件以降、私に馬鹿なちょっかいをかけてくる子はいなくなり、私は孤独な学校生活を満喫した。私の悩みは、母の理不尽なネグレクトだけになった。
 その母も、半年前に急死した。死因は私だけが知っている。私と姉さんは、外国に住む叔父夫婦に引き取られた。叔父と叔母はおおらかな人たちで、私たち姉妹に分け隔てなく接してくれる。私はやっと息がつけたような心地だった。叔父がいい医者を捜してくれたおかげで、私のアトピーもだんだん治まりつつあった。
 花畑の道の先で、外国人の叔母が早口でなにか言っている。お昼にハムとレタスのサンドウィッチを用意したが、いくつ食べられるか、と聞かれているようだ。姉さんが元気よく「ウィ」と答えている。
「お昼はサンドウィッチ、ですって。叔母さんの言葉、だんだん分かるようになってきたわ」
 姉さんが私を振り返る。
 モンシロチョウがひらひらと私たちの間を横切る。
「わからないことがあったら、なんでも聞いて。私、頑張って翻訳するから」
 妹が自分よりも哀れで劣った存在だと信じて疑わない姉さんの笑顔は、まっすぐで美しい。いびつに育った私とは違う。
「ありがとう、姉さん」
 私は再び、曖昧な微笑みを返した。
 この身に巣くうものは、いずれ私を食い破って出てくるだろう。
 私はきっと、姉さんの天敵になる。

5/11/2023, 3:30:22 AM