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5/1/2023, 5:30:19 AM

【楽園】

 かつて、〈楽園〉と呼ばれたSNSがあった。
 アバターを主体としたバーチャル空間式のSNS、いわゆるメタバースだ。地球をまるごと取り込んだかのような広大な世界、現実以上にリアルなグラフィック、冒険心をくすぐるゲームモード。世界中の人々が〈楽園〉に熱狂した。
 三年前には、SNSの登録者数世界一というニュースで三日三晩のお祭り騒ぎになって、人類史上最強と言われたサーバーが落ちかけたこともあった。そんな〈楽園〉も、当時の賑わいはいまや見る影もない。
「ほんとに人影ないなー」
 人間の大きさほどある兎型のアバターが、日本エリアのビル街をぴょんぴょんと跳ねていた。
 周囲はしんと静まり返っている。エリアごとに設定されたかすかなBGMやビル風の環境音以外は、兎が跳ねる効果音しか聞こえない。
 車すらない広々とした道路に向かって、信号機だけが律儀に働いている。ときおり、映像のカラスが空を横切る。
 まるで、人類だけが突然滅亡してしまったかのような有様だ。
「誰かいませんかー」
 兎が広大な疑似空間に向かって呼びかけても、
「はーい、なにかご用ですか?」
 どこからともなくさっと近寄ってくるのは、にこにこ顔の上にAIマークを載せたガイドアバターだけで、肉入りのアバターがいる気配はない。
 兎はしばらく周囲を跳ね回っていたが、やがて探索を諦めたのか、ため息をひとつ残して、その場から消えた。


 ひしゃげたベンチに座っていたセーラー服の少女が、短い髪を振ってVRグラスを外す。
「電池ぎりぎりまで捜したけど、痕跡ゼロ。世界チャットにすら反応なかったよ」
「そう。ログインしてる人は誰もいないってことね」
 ベンチの横でバイクにまたがっていたライダースーツ姿の若い女性が、けだるそうに黒髪をかきあげた。長い後ろ髪を、団子状にまとめはじめる。
「あーあ、サーバーが残ってるんならもしかして、と思ったんだけどな」
 少女がVRグラスを放り投げた。グラスは瓦礫の上で、がこん、と跳ねて、アスファルトの地面に落ちた。
「楽園のサーバーって、火星ドームにあるやつでしょ? メンテシステムが生きてる限り半永久的に稼働する、って触れ込みの」
「なんだ、楽園は火星にあったのか」
「すくなくとも、地球よりは火星のほうが楽園向きだったってことね」
 女性がまとめ髪の上にヘルメットを被る。
「火星なら環境過酷だからガチガチに対策するけど、地球だともともと暮らしやすかったから、油断してたよねー」
 少女が傍らのヘルメットを抱えてベンチから立ち上がった。ついでのように、あたりを見渡す。
 ここには兎が跳ね回っていたエリアと似た光景が広がっている――はずだった。道路はひび割れ、乗り捨てられたホバーカーはあちこちで通行を妨害し、信号機は息絶え、ビルは瓦礫となって、ホバーカーや他の建物を押しつぶしている。
 核戦争で大陸の主要国が軒並み潰れたうえ、立て続けに起きた大規模な地殻変動で、わずか一年のうちに世界中がめちゃくちゃになった。地球上で機能している国家は、もうどこにもないだろう。
 投げ捨てたVRグラスを視界に入れて、少女は、ふふ、と笑いを漏らした。
「なによ、急に。気持ち悪い」
「だってさ、人類はとっくの昔に楽園を追われてるのに、幻想の楽園を作っちゃうぐらい、まだ未練があったんだなーって」
「でも結局、楽園にはほど遠かったわよね。なんせ使うのが人間なんだもの、地獄みたいないざこざだらけだったわ」
 女性があごを振って、バイクの後ろを示した。少女はヘルメットを被り、後部座席にまたがった。
「使う人間がいない今は、ただの綺麗な廃墟だったよ。オイル集め、もう終わったの?」
 女性が親指を立てる。
「もちのろんよ」
「ミズキさん、もしかして、見た目よりおばさん?」
「だれがおばさんよ。まだ二十五よ」
 少女が女性の体に腕を回してしがみつく。女性はバイクのアクセルをふかした。
「それじゃ引き続き、あたしたちのアダムと楽園を探しに行きましょ」
「なんかもうそれ、どうでもいいや。人類なんて、滅びるなら滅びたほうが、地球のためじゃない?」
「これだからSDGs育ちは」
 女性がバイクを発進させる。二人の影はすぐに、アスファルトの埃の向こうに見えなくなった。



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土日祝日は基本的に書く習慣お休みです。5/2もお休みです。

4/29/2023, 7:55:08 AM

【刹那】

  ※作中に登場するカメラはフィルムカメラです。


「こうこうふぉとこんくーる? なんじゃ、それは」
「写真の出来栄えを競う大会よ」
「競う? かけっこか。写真が走るのか」
 わしがそう言ったら、あやつは縁側から身を乗り出すように腹を折って、笑いだした。
「なんにも走らないってば! 写真がどれだけ素敵に撮れたかを比べるの。審査員がいて、これだ、と思った写真を一つだけ選ぶのよ。その写真を撮った人は、よくできました、っていうご褒美をもらえるの」
「ほう。自分で選べるわけではないんじゃな」
「自分じゃよく撮れたかなんてわからないもん。……ううん、自分でよく撮れたな、最高の出来栄えじゃん天才じゃん、って思っても、それが他の人たちに響くとは限らないんだもん」
 あやつは傍らに置いていた〝かめら〟とやらを、そっと撫でた。小岩のようにごつごつとした真っ黒な塊から、れんず、と呼ばれる目のようなものが突き出して、正面に睨みを利かせている。人の創りし謎物体、かめら。
 この謎物体は、人や獣や風景を含めた、刹那の時間を切り取るためにあるのだという。かめらで捉えた時間を特殊な紙にどうにかして焼き付けたものが、写真。切り取られた時間は、写真という形になって、ようやく人の目に映るものになるのだとか。
 あやつの説明に興味を持って、試しにわしの刹那を切り取ってもらったことがあった。後日あやつが持って来た十枚の写真には、さまざまな角度から見た古い社、荒れかけた境内、そして、後ろの林と山が、真夏の鮮やかな深緑とともに切り取られていた。わしの姿は、どこにもなかった。
「君は神様だから、写せないみたい」
 あやつは悲しそうに言った。
「わしの時間は、人の時間と比べると、あまりにも長く引き伸ばされているからのう。かめらでわしの刹那を切り取るのは、難しいんじゃろう」
 それを聞いたあやつは、はっとした顔で「長時間露光」とつぶやき、後日〝さんきゃく〟とやらを担いできて、かめらでなにかの仕掛けを作っていた。そしていつの間にやらわしの刹那を切り取ろうとしたようだが、その際の写真にも、わしの姿はなかった。
「それで、そのこんくーるとやらがどうしたのじゃ」
「入賞したいのよ」
「すればよいではないか」
「それが簡単にできるなら、神頼みなんてしないわよ」
 あやつは口を尖らせた。
「神頼み?」
「君、神様でしょ? コンクールに入賞したいっていう私の願い、叶えられるんじゃない?」
「そんな力、あるわけなかろう」
 宮司は昨年いなくなり、ご神体と呼ばれていたものは持ち出され、賽銭箱も取り除かれ、供物のまんじゅうは持って来た本人がさっき遠慮なく食べきった、そんな見捨てられた社の神が、「存在する」以上の力を持っているわけがない。神は人の信仰を力にするものだ。
「ほかの神に頼めばいいものを」
「ほかの神様に知り合いいないもん」
 あやつはまた口を尖らせた。
「君は話しかけやすい見た目だったからなんとなく友達になっちゃったけど、神様ってみんな、なんか怖いし……近づきにくいし……」
「だからといって、わしのようなものにすがりたくなるほど、こんくーるとやらは大事なのか」
「そりゃそうよ。将来カメラだけで食べていくなら、入賞の実績でハクつけとかないと」
「かめらは食べ物だったのか」
「違うってば!」
 あやつはまた腹を折って笑った。


 そんな会話から幾刻経っただろうか。神にとっては刹那よりも短い時間、人の時間でいえば半年ほどか。
 暗い顔で境内まで登ってきたあやつから、
「コンクール、落選した」
 という報告を受けた。
「そうか」
「あーあ、やっぱり神頼みはだめね」
 あやつは縁側にごろんと寝転がった。
「私、カメラは好きだけど、カメラの才能はないのかも」
「なにもかめらにこだわらずともいいのでは? たとえば、おぬしは神が見えるのじゃから、巫女になればよいのではないか? 巫女の才能はあるぞ」
「やだー! 私はカメラマンになりたいの! 好きなカメラで評価されたいの!」
 まるで赤子のようにじたばたと駄々をこねる。その拳に打たれた縁側の板が、ボコっと音をたてて一つ外れた。
「あ」
「あ」
 とたんにあやつは申し訳なさそうな顔になって、しおしおと起き上がった。
「気にするな。いずれは朽ちるものじゃ」
「でも君、いまちょっと小さくならなかった?」
「わしはこの社の神じゃからな。社が壊れれば、そのぶん嵩も減る」
「わ、私、カメラマンになって成功したら、お金で直すから! 弁償するから!」
「そうか」
「あっ、気のない返事! 私ね、写真学科のある大学に行くんだよ。そこでカメラのことがっつり学んでやるんだからね」
「そうか」
「大学はね、ここから遠いところにあるから、私、もうすぐ引っ越すの。だからこれまでみたいな頻度では来れなくなっちゃうけどね」
「……そうか」
「ふふ、ちょっとは寂しいって思ってくれる? 帰省したらまた会いに来るからさ。それまで、元気でね。それ以上、小さくならないようにねー」
 あやつは来たときとは打って変わって、いつもの明るい笑顔で去っていった。


 そんな会話から幾刻経っただろうか。神にとってはつかの間だが、人の時間でいえば半年――それをいくつも繰り返すほどの、長い時間だったはずだ。
「やっと、来れた」
 息を切らし、あやつがここまで登ってきた。境内ともつかぬ草むらをかき分け、わしの姿を見つけて、皺の多い顔でにっこりと笑う。
「いろいろあってさ、ずっと来れなかったの。元気だった? ……そうでもないか。ずいぶん小さくなっちゃって。でも、間に合ったね。私、弁償できるぐらいには、貯金できたよ」
 あやつは背に負っていた荷物を下ろすと、中から一枚の紙を取り出した。社の縁側の、かろうじて残っている板の上に置く。重しのつもりか、端にまんじゅうも載っている。
「これは……」
「写真よ。君の」
 驚き、横からまじまじと覗きこむ。
 見覚えのある景色が、そこにあった。かつてあやつに切り取られた時間だ。縁側の板がまだすべて揃い、屋根も庇も残っている社。いまほど荒れていない境内。そして、後ろの山と林の、鮮やかな深緑。一つだけ過去に見た景色と違うのは、社の前面の庇に載っているものの存在だ。黒くでこぼことした小岩のような塊。そこから突き出した一つ目が、ギョロリと正面に睨みを利かせている。
「わしは、こんな姿だったのか」
「君、なんとなくカメラに似てたから、親近感持ってつい話しかけちゃったのよね」
 あやつはカラカラと笑った。
「この写真はね、私の目が長時間、君を映していたから、描けたのよ」
「おぬしは絵師の才能もあったのだな」
「あっ、絵だってバレバレ? でも、すごいでしょ」
 あやつが得意げに鼻を鳴らす。
「じつはね、これ、『友達』っていうタイトルで、絵のコンクールに出してみたの」
「ほう」
「落選した」
「……そうか」
「でも私自身は、いままででいちばんよく描けた、天才じゃん、と思ってるのよ」
 あやつはまた、顔の皺を深めてカラカラと笑った。

4/28/2023, 1:09:05 AM

【生きる意味】

     ※すべてのペットに幸あれ


――では○○さん、最後に、このために生きている、と言えるようなものはありますか? あれば教えてください。

 そりゃもちろん、うちの子のためでしょ。

――えっ、お子さんがいらっしゃるんですか?

 やだな、ペットだってば。あたし、アイドルよ? 百年先まで独身でいる覚悟なんだから。ペットさえいてくれれば、ほかになにもいらないし。
 あの子、めちゃくちゃ可愛いの。こーんなに小さいのよ。頭のてっぺんのふさふさの白い毛とか、あたしを見上げてくるときの黒いつぶらな瞳とか、もうなにからなにまでカンペキに可愛くて。
 お皿にごはんを盛ってあげると、嬉しそうに飛びつくの。そんなところも可愛くて、毎日可愛さが更新されてるの、すごくない? あたしが生きてるのはこの子のためなんだなー、って思わずにはいられないんだから。

――ずいぶんお気に入りなんですね。なんていう種類のペットですか?

 ニンゲンよ。ほら、一時期ブームになった、珍しい形の生き物。
 チキューという星から来たのよね。こことチキューじゃ環境がぜんぜん違うらしいから、なるべくあの子が過ごしやすいように箱の環境を整えてあげたいなって思ってるの。そのためにはじゃんじゃん仕事入れて、もっと稼がなきゃね。

――ニンゲンは温度管理や酸素管理がたいへん、というのはよく聞きますね。

 そう! 外の気温じゃ普通に死ぬから、あの子の飼育箱、常時冷却モードよ。酸素ポンプも必須だし。留守中になにかの事故でポンプや冷却システムが止まっちゃうんじゃないかって、いつもハラハラしてる。もう毎日早く帰りたい。
 ニンゲンブーム、環境構築に手間がかかるからってすぐ終わっちゃったけど、あたしから言わせてもらえば、愛が足りてないのよね。手間がかかるほうが、一緒に関わる時間も増えて幸せじゃん。生半可な覚悟でニンゲン飼うなっつーの!

――ニンゲンへの熱い想いが伝わってきますね。今日はありがとうございました。○○さんのこれからのご活躍も、楽しみにしています。


 インタビューを終えて控え室に戻ったら、アイドル仲間の§△§がニヤつきながら待っていた。
「あんた、ペット大好きキャラでいくことにしたんだ?」
 あたしも触覚を曲げてニヤリと笑う。
「ペットの溺愛って好感度高いでしょ。しかもニンゲンは珍しいし」
「話題になるためのつかみってことね。あんたのそういう打算的なとこ、嫌いじゃないよ」
 同僚の褒め言葉を、触覚を振って受け流す。
 仕入れたばかりのニンゲンは、最低限の冷却モードに設定した真っ暗な箱の中で、今日も二つの目を閉じたまま転がっているだろう。ときどきのろのろと頭を上げて、放り込まれたエサを貪って、そしてまた隅っこで転がっているだけ。
 細長い体のあちこちから出っ張りが突き出している奇妙な形で、目が二つもあって、ヘンなところに毛が生えていて、あんなの、ちっとも可愛くない。でも、あたしのために、当分は生きててもらうんだから。

4/27/2023, 7:46:37 AM

【善悪】

※ちなみに私は無宗教です。あえて言うなら一太郎教とリングフィット教に入信しています。

 村外れの古い教会にとっては、明後日が最後のクリスマスになる。
 村の人口減少とともに信者も減り、寄進も減り、とうとう、建物の修復もままならなくなった。幸い、雪があまり降らない地域だから、この季節でも屋根が押しつぶされる心配はない。庭の雪かきも、牧師一人で間に合っている。
 だが、牧師はもう高齢だ。病巣も抱えている。来年は、たまの雪かきすらできなくなるだろう。引退し、大病院のある町に移り住むしかなかった。そして、このおんぼろな木造教会を継ぎたいと名乗り出る者は、誰もいなかった。
 教会の隣の小学校は、五年前に廃校となった。だから、こんな村外れまで足を運ぶ者は、もういない。いま牧師の目の前で、庭のクリスマスツリーを楽しげに飾りつけている少年を除いては。
 彼はこの教会に残された、たった一人の信者だった。小学二年生まで隣の廃校に通っていて、その間に牧師と仲良くなった。十三歳になったいまは、山向こうの町の中学校に通っている。日曜になると必ず教会に顔を出し、牧師の説教を熱心に聞いてくれるので、牧師は少年のためだけに日曜礼拝の門戸を開き、礼拝後のお茶とお菓子を用意している。
 少年はまだ洗礼を受けていないが、最近は「先生のような優しい牧師になりたい」と口にするようになった。たとえ若さゆえの麻疹のような憧れだとしても、過疎地の教会で後継者が育ちつつあることを、牧師は喜んだ。だが、少年が立派な牧師になったころには、この教会は草木に埋もれた立派な廃墟になっているだろう。
 牧師はそのことを残念に思ったりはしなかった。逆に、こんなくたびれた教会を彼に任せずにすんでよかった、とすら思っていた。少年はもっと信者の多い、明るい教会で牧師になるべきだ。たとえば、このぴかぴかのクリスマスツリーが似合うような。
 牧師が腕いっぱいに抱えている真新しいオーナメントのひとつを手に取って、少年は鼻歌交じりにツリーを飾りつけていく。少年の身長とぴったり同じに育った若いモミの木は、一年前、教会のシンボルツリーになるようにと、少年が善意で植えてくれたものだ。牧師が教会を離れれば、この木を手入れする者はいなくなる。木は勝手気ままに伸びて、いつかその枝で教会を押しつぶすだろう。それはただの自然の摂理であり、モミの木自身にはなんの思惑も悪意もない。この場所に木を植えた少年も、そんな未来までは予想していない。教会を見放す決心をした牧師だけが、知っている結末だ。
 牧師は来年度の引退や引っ越しのことを、少年にまだ告げていなかった。告げるべきタイミングに悩んだまま、今日まで来てしまった。引退を知ったら、牧師を慕う少年は悲しむだろう。見捨てられたように思うかもしれない。牧師になろうという熱意すら、失ってしまうかもしれない。それは仕方のないことだとしても――前途ある純真な若者を失望させてしまうことが、老いた牧師には大きな罪のように感じられるのだった。
 告げねばならぬときは必ずやってくる。それなら、早いほうがいい。だが、いまの楽しげな少年に、わざわざ悲しみを注ぐことこそ罪深い。そう思って、牧師はただ黙って立ち尽くしている。もっとも、いまの牧師は少年の手が届く位置でオーナメントを抱えている係だから、下手に動くわけにはいかない。少年の飾りつけは順調で、最初は重かった腕が、じわじわと軽くなっていく。いっぽうで、モミの木はいかにも重そうに枝を下げていく。
 ぴかぴか光る玉、金のモール、サンタクロース人形、ジンジャーマンクッキー人形、そして、金色のベルを抱えた天使。少年はこれら大量のオーナメントを、山向こうの町の雑貨屋で、小遣いをはたいて買ってきたという。村人にも忘れ去られつつある寂れた教会を、せめてクリスマスだけでも賑やかにするために。なんという善意だろう。小さな信者の心遣いに、牧師は胸を痛めた。こんなことなら、少年の冬休み前に引退を告げるべきだった。いや、それを知ったら、少年は「最後だから」と言って、もっとツリーを飾りたてたかもしれない。
 最後にひとつ、手中に残ったベツレヘムの星を、牧師は少年に差しだした。少年は星をツリーのてっぺんに括りつけると、全体を確かめるように一歩下がった。それから、得意げに牧師を見上げた。
「どう、このバランスの妙技。こいつ、かっこよくなったでしょ」
 牧師は目尻に皺を溜めて笑い、うなずいた。老いた教会の荒れ庭に、不自然なほどに真新しいクリスマスツリーが誕生した。かつて救世主が馬小屋でお生まれになったときも、このように不自然な組み合わせだったのかもしれない。そう考えれば、クリスマスツリーの背後に突き出た教会のおんぼろな佇まいも、荘厳なものに見えてくる。
 そのとき、庭の隅の野放図な草むらを揺らして、野良猫が姿をあらわした。隣の廃校に最近住み着いた、いかめしい顔のぶち猫だ。牧師はなんの世話も焼いていないのだが、猫はたまに顔を見せにやってくる。説教は嫌いらしく、日曜日には決して姿を見せないから、少年とは今日が初対面だ。
 少年は牧師の視線の先を追って猫を見つけたようだ。大きな黒目が、まんまるになる。クリスマスツリーを見つけた猫の目も、まんまるになった。太陽光をぴかぴかと反射するオーナメントが、不審なものに見えたのかもしれない。
「猫、触っていい?」
「彼はいま忙しいので、やめておきましょう」
 少年と牧師が会話するあいだも、猫はまんまるの目でツリーを見据えていた。ぐっと姿勢を下げ、尾を揺らして、じりじりと根元に迫っていく。
「こっち来てる」
 少年が声を弾ませた、次の瞬間。
 猫が地を蹴った。
 伸びあがる体。
 牙を剥いた口が、垂れた枝先の天使を捕らえる。
 天使に抱えられた金のベルが、リリン、と慌てたように鳴る。
 猫はベルと天使の飾りを咥えたまま、着地。
 なぜか、得意げに牧師を振り返る。
「あっ、僕の飾り、とった!」
 一瞬呆気にとられ、我に返って叫んだ少年を、猫はちらりと見やった。しかし、なんの興味もいだかなかったようだ。すぐにぷいっと視線を逸らし、尾を揺らしつつ、ゆうゆうとした足取りで草むらに紛れてしまった。
 リン、リン、と猫の歩調に合わせて揺れるベルの音だけが教会の庭に残され、それもやがて、遠ざかって聞こえなくなった。
 猫を追って駆け出そうとする少年の肩に、牧師はそっと手を置いた。少年がもどかしげにたたらを踏む。
「彼は、なにもとっていませんよ」
 牧師は穏やかに告げた。だが、少年は悔しそうに唇をひん曲げる。
「とったよ、飾り泥棒だよ! 窃盗は悪い行いでしょ! 汝、盗むなかれって、聖書の――」
「彼はなにも盗んでなどいませんよ。この世界のすべてが、彼のものなのですから。己のものを、いったいどうして盗み得るでしょう」
「えっ、世界は父なる神が――」
 敬虔な少年は、理解し難い、と言わんばかりのまんまるな瞳で、牧師を見上げた。それから、はっとしたように、猫が消えた草むらを振り返った。
「もしかして、悪い行いに縛られてるのは、人だけ……?」
「そう。あの猫のように、罪を知らず、善悪の別を持たないものこそが、この世でもっとも自由なのでしょうね」
 牧師は少年の肩に手を置いたまま、ペンキの禿げ落ちた木造の教会を見上げた。
 教会の奥の祭壇では、人類の罪を贖った救世主が、朽ちかけた木の十字架に、人の姿のままひっそりと掲げられている。今日も、明日も、明後日も。教会が崩れ落ちるその日まで。
 牧師は少年に視線を戻した。そして、願った。どうか庭のモミの木が、早く大きく育ちますように、と。
 深く息をつき、ゆっくりと口を開く。
「ところで、あなたに告げなければならないことがあるのです」

4/26/2023, 9:28:36 AM

【流れ星に願いを?】

  ※作中の流星群はペルセウス座流星群です

「今年、一緒に星を見ようよ」と言い出したのは、あいつだった。
 毎年八月になると、三大流星群とやらのひとつ、ペガサス……だっけ? 違うような気もするけどまあいいや、なんか「ペ」のつく流星群が来るんだって。
 私とあいつはまあ、いわゆる腐れ縁で、幼稚園からいまの女子高まで、なんだかいつの間にかずるずると一緒にいるような間柄だった。
 あいつはフットワークが軽くて、なにか面白いことを見つけるとすぐどっかに飛んでいくようなやつ。ここ最近は、星がきれいに見えるスポットを探すのにご執心。一方私は、家でごろごろゲームしてるのが好きなタイプ。星なんて、テスト前に一夜漬けした理科の知識がほんのり残ってる程度。
 あいつと私じゃ、趣味も好みも興味の先もぜんぜん違うのに、なんでだろうね、人生の大半を一緒につるんで過ごしているのは。家が近いから、というのもあるかもしれないけれど。
 まあ、目尻の下がったあいつの平和そうな顔を見ると、ちょっと安心するというか、今日も元気でなにより、ぐらいには思うし、空気や水みたいに、日常に欠かせない存在なのは事実。あいつは私のことをどう思ってるのか知らないけど。


 約束の日の夜、家族に内緒で家を抜け出した。引きこもりゆえ、めったに味わえない冒険的シチュエーションだ。ドキドキうるさい鼓動をおさえつつ、事前に指定されていた場所に向かう。まったく、いくら星がきれいに見えるからって、ずいぶん辺鄙なところを指定してくれたよね。たどり着くまでに自転車でのぼらなきゃいけない坂道のことを考えただけで、もう息切れしそう。
 星がきれいに見えるスポットと言ったって、こんな田舎じゃ、だいたいどこでも星は見える。それぐらい、周囲に明かりがない。大通りを外れれば、ほら、すぐに暗い空が迫ってくる。自転車のライトがなかったら、一寸先も見えないんじゃないかってぐらいの闇。思わず身がすくむ。気を緩めたら、体ごと闇の中に溶けてしまいそう。ときたますれ違う対向車のヘッドライトに照らされたときは、あ、私、ちゃんとここにいるんだ、見つけてもらえたんだ、ってほっとする。
 私はふだん遠出をしないから、じつは自分の自転車を持ってない。今日はお母さんのママチャリをこっそり借りてきた。銀色のピカピカなフレームに、お母さんが増設した反射板がさらにピカピカしてて、ライトで照らされるとあまりにも目立つから恥ずかしいんだけど、まあ、夜道の安全のため、いたしかたなし。
 夏でも夜はちょっと冷えるよ、とあいつに言われていたので、おろしたての夏ジャージを羽織り、お湯入りの水筒を前カゴに放り込んである。現地が真っ暗すぎたら困るから、蝋燭式のランタンと着火用のマッチも用意した。寝転がるための敷物も用意した。ずっと首を上げて空を見てたら、疲れるからね。私の準備、完璧じゃない? ジャージは途中で暑くなって脱いだけど。
 完璧な私は、慣れない自転車でへろへろと坂道をのぼりきって、ようやくその場所にたどり着いた。足りない酸素にぜいぜいと喘ぎつつ、よれよれの手でマッチを擦ってランタンに着火し、あたりを見渡す。
 高台を切り拓いた、新興住宅地だ。着工したばかりで、周囲にはまだなにも建っていない。夜は誰もいないし、よけいな光もない。たしかに、ふたりで寝転がってる星を見るには、うってつけ。私の後ろは高い山がそびえてて星が隠れちゃってるけど、「目の前の空が流星群のホウシャテンに向かってひらけてるから、ちょうどいい」んだって。さすが、星に詳しいあいつが選んだ場所。あいつは私以上に完璧なやつだ。
 この工事現場は、今年限りのスポット。そして、今日は流星群のキョクダイキ。おまけに、新月。このチャンスを逃すのは、もったいないよね。私ひとりだったら、こんなビッグチャンスを知ることもなくぐうたらな夏休みを過ごしていただろうから、誘ってくれたあいつに感謝しなくちゃ。こんなお出かけも、今年で最後だろうし。
 ランタンの明かりを頼りに、工事で固められた土の上へ、敷物を大きく広げる。ぴったり、ふたりが寝転がれるサイズ。うん、完璧。
 喉がからからだったので、さっそく水筒のお湯に口をつけた。汗が引いて冷えてきた体には、人肌ぐらいのお湯がちょうどいい。水の足りなかった体に、沁みるように温もりが広がっていく。
 ひと息ついてから、いよいよ星を見る会の始まりだ。ランタンを邪魔にならない場所に置いて、背中からばたっと敷物に倒れこむ。ジャージはブランケット代わり、お腹にかけておく。
 目の前には、満点の星空。いや、「満天の」だっけ。満点と言ってもいいんじゃないかってぐらい、迫力のある星空だ。つい手を伸ばしちゃったのは、星を掴めそうな気がしたから。もちろん、指先にかすりもしなかったけど。
 あっ、さっそく流れた!
 流れ星への願いごとって、流れきる前に三回言わないといけないんだっけ? カネカネカネ、ぐらいしか間に合わないんじゃないかな。流れ星側は、ぜったい叶える気ないよね。まあ、私だって叶うとも思ってないけど。
 もし、死んだ人を蘇らせてくれるっていうなら、そりゃ、必死で唱えるけどさ。
 天に真っ直ぐ伸ばしたままだった手を、ようやく下ろす。
 いくらフットワークが軽いからって、未知の場所を見つけたからって、私の手が届かないぐらい遠くまで、飛んでいかなくても、ねぇ。
 完璧なあいつは、完璧な私の日常に欠かせない存在だったのにな。いまの私には、まるで、水も空気も、足りてない。どんなに喘いで息を整えても、人肌のお湯を飲んで喉を潤しても、絶対的に、あいつが足りてない。
 たぶんこの場所に下見に来た帰りだろう、あいつは夜の道を真っ黒な自転車で走ってて、事故に遭った。昨日、煙になって、後ろの山よりも高く、きっと星と同じところまで、のぼっていった。
 でも、今日は火を焚いたら死んだ人が馬に乗って帰ってくるとかいう日だし、そのために蝋燭のランタンを引っ張り出してきたんだからね。あいつ、もしかしたら、いまここにいるんじゃないかな。今日はペガサスの流星群だしさ、流れ星に乗ってさ。そりゃ、ここよりもあっちのほうが星はきれいだろうけど、私と一緒に眺めるほうが、きっときれいに見えるでしょ。思い出補正ってやつで。
 そう思って、敷物の半分はあけてある。
 あっ、また流れた。
「カナカナカナ」
 とっさに、あいつの名前を三回言ってやった。これでなにが叶うというわけでもないけど。
「気の早い蝉みたい」
 あいつの名前を呼んだ自分の勢いに、思わず笑ってしまった。
 カナカナと鳴く蝉の季節は、もうすぐだ。その時期になれば、私もきっと、なくだろう。

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