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【善悪】

※ちなみに私は無宗教です。あえて言うなら一太郎教とリングフィット教に入信しています。

 村外れの古い教会にとっては、明後日が最後のクリスマスになる。
 村の人口減少とともに信者も減り、寄進も減り、とうとう、建物の修復もままならなくなった。幸い、雪があまり降らない地域だから、この季節でも屋根が押しつぶされる心配はない。庭の雪かきも、牧師一人で間に合っている。
 だが、牧師はもう高齢だ。病巣も抱えている。来年は、たまの雪かきすらできなくなるだろう。引退し、大病院のある町に移り住むしかなかった。そして、このおんぼろな木造教会を継ぎたいと名乗り出る者は、誰もいなかった。
 教会の隣の小学校は、五年前に廃校となった。だから、こんな村外れまで足を運ぶ者は、もういない。いま牧師の目の前で、庭のクリスマスツリーを楽しげに飾りつけている少年を除いては。
 彼はこの教会に残された、たった一人の信者だった。小学二年生まで隣の廃校に通っていて、その間に牧師と仲良くなった。十三歳になったいまは、山向こうの町の中学校に通っている。日曜になると必ず教会に顔を出し、牧師の説教を熱心に聞いてくれるので、牧師は少年のためだけに日曜礼拝の門戸を開き、礼拝後のお茶とお菓子を用意している。
 少年はまだ洗礼を受けていないが、最近は「先生のような優しい牧師になりたい」と口にするようになった。たとえ若さゆえの麻疹のような憧れだとしても、過疎地の教会で後継者が育ちつつあることを、牧師は喜んだ。だが、少年が立派な牧師になったころには、この教会は草木に埋もれた立派な廃墟になっているだろう。
 牧師はそのことを残念に思ったりはしなかった。逆に、こんなくたびれた教会を彼に任せずにすんでよかった、とすら思っていた。少年はもっと信者の多い、明るい教会で牧師になるべきだ。たとえば、このぴかぴかのクリスマスツリーが似合うような。
 牧師が腕いっぱいに抱えている真新しいオーナメントのひとつを手に取って、少年は鼻歌交じりにツリーを飾りつけていく。少年の身長とぴったり同じに育った若いモミの木は、一年前、教会のシンボルツリーになるようにと、少年が善意で植えてくれたものだ。牧師が教会を離れれば、この木を手入れする者はいなくなる。木は勝手気ままに伸びて、いつかその枝で教会を押しつぶすだろう。それはただの自然の摂理であり、モミの木自身にはなんの思惑も悪意もない。この場所に木を植えた少年も、そんな未来までは予想していない。教会を見放す決心をした牧師だけが、知っている結末だ。
 牧師は来年度の引退や引っ越しのことを、少年にまだ告げていなかった。告げるべきタイミングに悩んだまま、今日まで来てしまった。引退を知ったら、牧師を慕う少年は悲しむだろう。見捨てられたように思うかもしれない。牧師になろうという熱意すら、失ってしまうかもしれない。それは仕方のないことだとしても――前途ある純真な若者を失望させてしまうことが、老いた牧師には大きな罪のように感じられるのだった。
 告げねばならぬときは必ずやってくる。それなら、早いほうがいい。だが、いまの楽しげな少年に、わざわざ悲しみを注ぐことこそ罪深い。そう思って、牧師はただ黙って立ち尽くしている。もっとも、いまの牧師は少年の手が届く位置でオーナメントを抱えている係だから、下手に動くわけにはいかない。少年の飾りつけは順調で、最初は重かった腕が、じわじわと軽くなっていく。いっぽうで、モミの木はいかにも重そうに枝を下げていく。
 ぴかぴか光る玉、金のモール、サンタクロース人形、ジンジャーマンクッキー人形、そして、金色のベルを抱えた天使。少年はこれら大量のオーナメントを、山向こうの町の雑貨屋で、小遣いをはたいて買ってきたという。村人にも忘れ去られつつある寂れた教会を、せめてクリスマスだけでも賑やかにするために。なんという善意だろう。小さな信者の心遣いに、牧師は胸を痛めた。こんなことなら、少年の冬休み前に引退を告げるべきだった。いや、それを知ったら、少年は「最後だから」と言って、もっとツリーを飾りたてたかもしれない。
 最後にひとつ、手中に残ったベツレヘムの星を、牧師は少年に差しだした。少年は星をツリーのてっぺんに括りつけると、全体を確かめるように一歩下がった。それから、得意げに牧師を見上げた。
「どう、このバランスの妙技。こいつ、かっこよくなったでしょ」
 牧師は目尻に皺を溜めて笑い、うなずいた。老いた教会の荒れ庭に、不自然なほどに真新しいクリスマスツリーが誕生した。かつて救世主が馬小屋でお生まれになったときも、このように不自然な組み合わせだったのかもしれない。そう考えれば、クリスマスツリーの背後に突き出た教会のおんぼろな佇まいも、荘厳なものに見えてくる。
 そのとき、庭の隅の野放図な草むらを揺らして、野良猫が姿をあらわした。隣の廃校に最近住み着いた、いかめしい顔のぶち猫だ。牧師はなんの世話も焼いていないのだが、猫はたまに顔を見せにやってくる。説教は嫌いらしく、日曜日には決して姿を見せないから、少年とは今日が初対面だ。
 少年は牧師の視線の先を追って猫を見つけたようだ。大きな黒目が、まんまるになる。クリスマスツリーを見つけた猫の目も、まんまるになった。太陽光をぴかぴかと反射するオーナメントが、不審なものに見えたのかもしれない。
「猫、触っていい?」
「彼はいま忙しいので、やめておきましょう」
 少年と牧師が会話するあいだも、猫はまんまるの目でツリーを見据えていた。ぐっと姿勢を下げ、尾を揺らして、じりじりと根元に迫っていく。
「こっち来てる」
 少年が声を弾ませた、次の瞬間。
 猫が地を蹴った。
 伸びあがる体。
 牙を剥いた口が、垂れた枝先の天使を捕らえる。
 天使に抱えられた金のベルが、リリン、と慌てたように鳴る。
 猫はベルと天使の飾りを咥えたまま、着地。
 なぜか、得意げに牧師を振り返る。
「あっ、僕の飾り、とった!」
 一瞬呆気にとられ、我に返って叫んだ少年を、猫はちらりと見やった。しかし、なんの興味もいだかなかったようだ。すぐにぷいっと視線を逸らし、尾を揺らしつつ、ゆうゆうとした足取りで草むらに紛れてしまった。
 リン、リン、と猫の歩調に合わせて揺れるベルの音だけが教会の庭に残され、それもやがて、遠ざかって聞こえなくなった。
 猫を追って駆け出そうとする少年の肩に、牧師はそっと手を置いた。少年がもどかしげにたたらを踏む。
「彼は、なにもとっていませんよ」
 牧師は穏やかに告げた。だが、少年は悔しそうに唇をひん曲げる。
「とったよ、飾り泥棒だよ! 窃盗は悪い行いでしょ! 汝、盗むなかれって、聖書の――」
「彼はなにも盗んでなどいませんよ。この世界のすべてが、彼のものなのですから。己のものを、いったいどうして盗み得るでしょう」
「えっ、世界は父なる神が――」
 敬虔な少年は、理解し難い、と言わんばかりのまんまるな瞳で、牧師を見上げた。それから、はっとしたように、猫が消えた草むらを振り返った。
「もしかして、悪い行いに縛られてるのは、人だけ……?」
「そう。あの猫のように、罪を知らず、善悪の別を持たないものこそが、この世でもっとも自由なのでしょうね」
 牧師は少年の肩に手を置いたまま、ペンキの禿げ落ちた木造の教会を見上げた。
 教会の奥の祭壇では、人類の罪を贖った救世主が、朽ちかけた木の十字架に、人の姿のままひっそりと掲げられている。今日も、明日も、明後日も。教会が崩れ落ちるその日まで。
 牧師は少年に視線を戻した。そして、願った。どうか庭のモミの木が、早く大きく育ちますように、と。
 深く息をつき、ゆっくりと口を開く。
「ところで、あなたに告げなければならないことがあるのです」

4/27/2023, 7:46:37 AM