【忘れられない、いつまでも】
※なお、私は霊感まったくありません。
俺の上にのしかかった女の、真っ赤な唇が囁く。
「忘れられない体験にして、あ、げ、る」
「そりゃ誰だって忘れられないでしょうよ令和の時代にボディコン幽霊に襲われたら。後日SNSで愚痴っちゃいますよ誰も信じてくれないだろうけど」
俺はただいまパンツ一丁の格好で自宅のベッドに横たわり、女の幽霊――たぶん色情霊とかいうたぐいのやつに襲われている。深夜二時、草木も眠る丑三つ時。草木が眠るんだから俺も眠りたい。なんでいい感じに寝入ったところを、恋人でもないやつに起こされねばならんのだ。
一応、俺の名誉のために言っておくが、べつに幽霊女に脱がされたわけではない。夏はパンイチで寝る習慣があるだけだ。そのせいで、初っ端から絵面がとんでもないことになってしまった。読者の皆様には謹んでお詫び申し上げます。
「あれ、金縛りになってるわけじゃないのか」
俺は幽霊女をすり抜けてあっさり身を起こした。
「中途半端に霊感がある人には、効かないのよね」
幽霊女がふいっと浮かんで、悔しそうに舌打ちする。
たしかに俺にはちょっとした霊感があって、余計なものを見てしまうことが稀によくある。今日もうっかり目が合ってしまったから、こうなる予感はあった。まあ、どこぞの潰れたスナックの前で退屈そうに佇む時代錯誤のボディコン女に、つい目が釘付けになったというかなんというか、そこは男のサガでして、決してやましい気持ちで見ちゃったわけではないんです。だから夜這いは勘弁してください。
いや、幽霊相手にしたてに出る必要はない。体を動かせるならすでに勝負はこっちのもんだ。俺にはインターネットで学んだ歴戦の幽霊撃退法がある。
俺はやにわにパンツを脱ぎ捨て、全裸になった。剥き出しのケツを両手でバンバン叩き、白目を剥きながらベッドを忙しなく昇り降りする。
「びっくりするほどユートピア! びっくりするほどユートピア!」
「な、なにそれ……おったまげー……なんですけど……」
目を丸くした幽霊女が、天井付近で硬直する。俺も硬直した。
「も、もしかして、ご存知ない? そして、効かない!?」
今までの幽霊は、みんなこれで撃退してきたのに!?
唖然とする俺を、首を傾げてふしぎそうに見つめる幽霊女。
真夜中の二時。カーテン越しの街灯でうっすら照らされた部屋。床に投げ捨てられたパンツ。ベッドに片足をかけた全裸の俺。白目がちに天井を見上げている。両手はまだケツの上。
できることなら、今すぐ記憶を消し去りたい。過去に遡ってインターネットの知識ごと葬りたい。
ふいに、幽霊女が噴き出した。
「ふふっ、ナウいじゃん、おもしろい男」
「ウワーッ建ってはいけないフラグが建った!」
幽霊女と青春ラブロマンスを繰り広げるつもりは毛頭ない! これはもう一刻も早く成仏していただかねば! 毛頭のない寺生まれのTさん、都合よく助けに来てくれ! 俺は国分寺生まれのイニシャルTでニアミスなんだよ!
俺はパニックに陥り、思わず全裸で土下座を決行した。
「すみませんが、ただちにお引き取りください。俺には十年間片想いしてる子がいて、その子のために純潔を守り通してるんです」
「えっ、キモ……。でももう、あなたに取り憑くって決めちゃったのよね。四十年ぶりぐらいにあたしを見つけてくれた、唯一の人だから」
俺の目の前まで降りてきた幽霊女が、気だるそうにワンレンをかきあげる。
「あなた、あたしがこの世を移動するための、アッシーにならない?」
「古っ……いや、アッシー目当てならいちいち襲う必要はないだろ! 憑いてまわられるのもごめんだけど!」
「あなたのしょうゆ顔、けっこう好みなのよね。せっかくだから生気を吸い取って、一緒に成仏するのもありかな、なんて」
「成仏する気はあるんだな!? 俺はないけど!」
「そりゃまあ、できるもんなら成仏したいわね。ずっと幽霊ってのも退屈だし」
「よしわかった、俺があんたの成仏に全面協力しよう。幽霊がこの世にとどまってるのは、未練があるからだ。あんたはいにしえのバブリー時代から残ってるようだが、いったいなにがそんなに未練なんだ? アッシーが欲しかったのか? まだバブル期を遊び足りないとか、男とデートしたかったとか? それとも、男にフラれた恨みでもあるのか? まさか、誰かがまだあんたのことを想ってて、この世に縛り付けてるパターンか?」
「そういうパターンの幽霊もいるだろうけど、あたしは正反対よ。あたしのことを覚えてる人が誰もいなくなって、世界のすべてに忘れ去られてしまったことが未練で、こっちにとどまってるの。幽霊になってれば、いつかは誰かにあたしのことを見つけてもらえるでしょ。あなたみたいに」
「幽霊の未練も多様性の時代かよ」
この世から忘れ去られた人間がどれだけいると思ってるんだ。そんな理由でいちいち残られてちゃ、幽霊の人口密度が人間より多くなってしまう。人間より六倍羊が多いニュージーランドかよ。
「じゃあ、俺があんたのことをずっと忘れずに覚えてたら、あんたは心置きなく成仏できるってわけだな?」
俺にのしかかってきたとき、忘れられない体験がどうのと言っていたのも、未練のせいか。
「そうねぇ。あなた、あたし好みのハンサムだし、あなたが墓場に入るまであたしのこと覚えてるって約束してくれるなら、成仏してやってもいいわ。もし忘れられたらすぐに戻ってきて、思い出させて、あ、げ、る」
ちくしょう、なんてたちの悪い呪いだ。
これで俺は幽霊女のことを、正真正銘、本当に忘れられなくなってしまった。それも、一生。
仕方ない、あとでSNSに愚痴って、筆記による記憶の定着を図るか。いっそ、最近始めた書く習慣アプリに、愚痴と一緒につらつら書き残しておこうか。
「生きてるあいだも、幽霊になってからも、すっごく退屈な人生だったけど、最後に忘れられない素敵な思い出ができたわね。あなたのおかげよ、ハンサムさん」
本当にもう成仏する気らしい。彼女の姿は薄れつつあった。えっ、早っ。こんなスピーディ成仏ができるなら、これまでのグダグダなフリは、俺の全裸土下座は、なんだったんだ。
「俺たち、この十数分のあいだに、そんな素敵な思い出になるような友好を結びましたっけ……?」
もうほんのり影を認識できる程度になっていた彼女から、クスクスと笑い声が聞こえる。
「びっくりするほどユートピア」
「それは忘れてくれー!」
俺の深夜の叫びは、誰もいない天井に吸い込まれていった。翌日、大家さんからしこたま怒られましたとさ。どっとはらい。
5/10/2023, 4:18:25 AM