sleeping_min

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【初恋の日】

「ウガァッー!」
 牙を剥き出して襲いかかってきた凶暴な半魚人、マーマンの首を一刀のもとに断ち切る。予想よりもはるかに柔らかなその手応えに、勢い余ってたたらを踏んだ。と思ったら、船が横波を被ったのか甲板が大きく揺れ、私はバランスを崩して転がってしまった。
「勇者様、お怪我は!?」
 後列にいた彼が慌てたように駆け寄り、手を差し伸べてくる。
 私を見つめる真剣な眼差しと、白魚のような頼りない手のギャップに、私は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
 彼は私のパーティに半年前に加入したという賢者だ。ローブをすっぽり頭まで被った、やや陰気な雰囲気の青年。フードの陰では、理知的な金色の瞳が鋭く光っている。その瞳が私を見つけてにっこりと柔らかく笑うたびに、心臓がどきりと跳ねてしまう。武器代わりの魔術書を抱えこんだときにローブの袖からチラリと見える、折れそうなくらい細い手首。光を透かしそうなほどに、白く滑らかな肌。なにもかもが私と正反対で、だからこそ、気になってしまう存在――っていうか、これはもう、完全に恋だ。初恋だ。
 私は生い立ちゆえに、二十になるこの歳まで、色恋沙汰とは無縁だった。それでいいと思っていた。勇者である以上、魔王打倒の使命を果たすまでは、色恋にかまけている暇はない。そもそも、勇者は博愛であるべきだ。特定の誰かを好きになるつもりはなかった。
 なのに、どうして彼への気持ちを抑えることができないんだろう。
「君が好きだ! どうしょうもなく好きだ!」
 彼の手に助け起こされたついでに、いてもたってもいられずにそう告げると、フードの下の目が大きくみひらかれた。そして――
「僕もですよ。ずっと、あなたが好きだったんです」
 甘く囁く声。はにかみで目を細めた、夕陽よりも眩しい笑顔――これ以上やめて、せっかく立ち上がったのに、また甲板に転がっちゃいそう。
 でも、どうしてだろう、何度もこの言葉を聞き、何度もこの笑顔を見たことがあるような気がする。
「もしかして、私は、その……昨日も、君を好きだった?」
「ええ。今日の告白で百八十回めです」
 彼はとても嬉しそうに告げる。私は赤面した。なんということだ、私は何度も何度も彼に惚れ、そのたびに告白していたということか。
「君はよっぽど私のタイプなんだな……」
「光栄です。日々そうありたいと願っているので」
 彼は嬉しさがこらえきれないというように私を強く抱きしめると、頬に小さなキスをくれた。明日の私が彼のことを忘れても、きっと私の肌だけは、このキスの感触を覚えている。

 ※ ※ ※

「まーたやってるよ、あのラブラブバカップル」
 暮れなずむ甲板の端で、聖騎士の青年が鎧を鳴らして肩をすくめた。
「毎日見せつけられる俺らの身にもなれっての」
「賢者くん、いい趣味してるよね。あんな筋骨隆々で汗臭い女のどこが好きなのかしら。今はあたしみたいに、ぴちぴちの細い子がトレンドでしょ」
 聖騎士の隣で長い杖を抱えこんでいる魔術師の少女は、みごとにぶんむくれている。
「おっと、毎日賢者くんに失恋してるからって、勇者様のことを悪く言うなよ。あのかたは一途だし、なにごとも全力でぶつかっていく、見ていて気持ちのいいかただ。賢者くんが惚れるのもわかるぜ。あーあ、世界が平和になったら、俺が婿入りするつもりだったのにな。ぽっと出のやつに横から掻っ攫われちまったな」
「まったく、うちのパーティ、あたし以外みーんな勇者様に夢中なんだから」
 魔術師の少女はまたむくれる。
「毎日毎日呪いの説明から始まって、賢者くんの紹介をして、今日の予定を説明して、敵の呪文でうっかり眠らないようごてごてに護符つけてもらって……同じことの繰り返しで、エルフのあたしでもいい加減飽きるわよ」
「その繰り返しの日々ももうすぐ終わるさ。さっきのマーマンでようやく解呪の薬の材料が揃ったんだ。あとは賢者くんに調合を任せればいい」
「あー、やっとだよねー。五つの材料集めの旅、大変だったなー。ああ、これで、やっと……やっと安心して、パパの仇の魔王を倒しに行ける……」
 魔術師の少女は船の縁にもたれかかり、そのままへなへなとへたりこんだ。

 ※ ※ ※

 僕の恋人は、呪われている。
 記憶を弄ぶ力を持った魔王の幹部、あいつを倒したときに呪われた。あいつはきっと彼女の記憶を全て消し去りたかったのだろうが、術を完成させる前に絶命したもんだから、呪いは中途半端に発動した。以降、彼女はたった一日しか記憶を保てなくなった。夜眠ると、その日にあった出来事を全て忘れてしまうのだ。
 僕はどんな呪いでも解けるという触れこみで、賢者として彼女のパーティに加入した。実際、僕にはあらゆる呪いを解く万能薬の知識があった。足りないものは、薬の材料だけ。勇者のためならと、パーティの仲間は材料集めに快く協力してくれた。
 万能薬の調合に必要な材料は、彼らに告げた〝五つ〟だけじゃない。本当は、七つある。
 まず一つめ、〈エルフの聖なる王族が集めた精霊花の蜜〉。これは簡単だった。パーティ内にエルフの王女がいて、彼女の里帰りついでに集めてもらった。
 二つめ、〈闇魔女の涙〉。これも案外なんとかなった。闇魔女のもとへ至る道のりは茨やら峡谷やら毒沼やらで面倒だったが、魔女の家に辿り着いた僕たちが事情を話すと、すぐに「可哀想にねぇ」とぼろぼろ泣いてくれた。辺鄙な場所にずっと一人で住んでいるから、話し相手に飢えていたらしい。熱烈な歓迎ぶりだった。一晩泊めてもらった翌日、監禁されかけたのを振り切って逃げ出すほうが、行きの道より大変だった。このときに飛空挺を入手できたおかげで、その後の材料集めが捗った。
 三つめ、〈サラマンダーの逆鱗×九〉。サラマンダーは業火を噴く巨大ドラゴンで、火山に棲みついている。飛空挺のおかげで、各地の有名な火山を九箇所、楽に回ることができた。もはや世界一周観光旅行だった。サラマンダー自体は、もちろん勇者パーティの敵じゃない。僕たちのせいでサラマンダーが絶滅しないか、エルフの魔術師が心配していた。たぶんもう手遅れだ。
 四つめ、〈神の住まう天空城の庭に生えている黄金のリンゴ〉。火山巡りで空を飛んでいた最中、たまたま天空城を見つけることができた。城はすでに廃墟で、リンゴはかろうじて実ってたけど、手入れされてないから虫がついていた。味も以前よりは落ちていそうだ。
 五つめ、〈マーマンの目の裏の栄養たっぷりなところ〉。あそこおいしいよね。ちょっと生臭いけど。マーマンは船で魔王城近くの沖に出ればだいたい襲ってくるから、それを撃退するだけで入手できた。それが今日のできごと。
 そして、誰にも告げていない六つめ。〈不死鳥の血〉。不死鳥は僕が別次元に閉じこめちゃったから、もうこの世界にはいない。でも、血は魔王城の宝箱に瓶詰めで入れておいたから、夕食後、パーティの目を盗んでこっそり宝物庫に転移するだけで入手できた。
 最後、秘密の七つめ、〈魔王の角〉。これはもうすでにとってあるから、問題ない。
 僕の手元には今、全ての材料が揃っている。
 自分の角を削って粉にしたものを、他の材料とともに混ぜる。これで、完成。あらゆる呪いを跳ね除ける解呪の万能薬、一人前の出来上がり。
 小さな薬瓶に詰めた万能薬を、彼女の船室に持っていく。彼女はベッドに腰掛け、僕を待っていた。周囲にはすでに他のメンバーも揃っていて、期待に満ち満ちた眼差しで僕を見つめてくる。
「これで、本当に呪いが解ける?」
 彼女に薬瓶を手渡すと、潤んだ黒い瞳が僕を見上げてきた。僕は頷いた。
「そのために、僕はここにいるんです」
 彼女は僕の目を見て力強く頷くと、ためらいなく、瓶の中身を一気に飲み干した。
「げ、なんか血生臭いリンゴみたいな味」
 瓶から口を離した途端に、鼻をつまんで咳きこむ。ごめん、マーマンの臭み取り忘れてた。リンゴもちょっと腐ってたかも。
「あれ、すごく眠くなって……。待って、やだ、まだ寝たくない」
 傷だらけの手が、僕の袖にすがりつく。
 彼女はいつも、眠りを怖がる。眠ると、その日の僕たちの思い出が、交わした愛の囁きが、全て消えてしまうと知っているから。
 普段は魔物相手に容赦なく剣を振るう彼女が、眠りに落ちる直前は、せつなげな瞳で僕にすがる。そのギャップに、心臓の奥をぎゅっと掴まれる。愛おしいけれど、苦しい。彼女にはできるだけ、安らかに眠ってほしい。
「この薬は、眠っている間に、その体にかかった全ての呪いを解いてくれます。だから、今日はもうおやすみなさい。新しく始まる明日のために」
 僕は彼女の額にそっとキスを落とした。いつもの眠りの呪いをこめて。
 やれやれ、まただぜ、と聖騎士が肩をすくめる気配。やってられない、とばかりに魔術師が部屋を出ていく。他の仲間もそれに続き、船室には僕と勇者だけが残された。
 ベッドでころんと眠りに落ちた彼女に、毛布をかける。
 僕の大切な恋人を苦しめている不完全な呪いは、不出来な部下のやらかしだ。でも、今となっては、よくやった、とあいつを褒めずにはいられない。せめてもの褒美にと、豪勢な墓に弔っておいた。墓の効果で、そのうちまた元気に転生してくるだろう。
 僕はあの日、幹部と彼女の戦いを千里眼で見ていた。どんなに傷だらけになっても真っ直ぐに立ち向かっていく彼女の強さに、その瞳の光に、たちまち恋に落ちた。生まれて十八年、魔王になってたった三年、まだ妃のことすら考えたこともなかったのに、あっという間の初恋だった。
 部下の不始末を利用し、賢者のふりをして勇者パーティに潜りこんだ。魔王城でなにするともなく退屈な日々を過ごしていた僕にとって、彼女やその仲間たちと一緒に世界中を旅して回る冒険の日々は、あまりにも刺激的だった。そのうえ、惚れた相手からの、毎日の告白。彼女はどんなに照れたとしても、その気性と同じぐらい真っ直ぐに、強く、恋を告げてくれる。そのときの彼女の表情を思い返すたび、口元がだらしなく緩んでしまう。
 でも、こんなに楽しい恋人ごっこも、今日限りだ。万能薬を飲んだ彼女には、今後どんな呪いも効かなくなるだろう。僕が彼女の告白を毎日聞きたいがためにかけていた、ささやかな魅了の呪いも。
 勇者の初恋の日々は、これでおしまい。
 明日目覚めたとき、初対面の僕を見て、彼女はなにを思うだろう。陰気な僕の姿は、彼女の目に、どんなふうに映るだろう。
 すやすやと寝息をたてる彼女の頬に、最後のキスを落とした。
 願わくば、もう一度、彼女の唇から恋の告白が聞けますように。まだ君が魅了の呪いにかかっていなかった、本当の初対面の、あの日のように。

5/8/2023, 6:12:14 AM