【愛を叫ぶ】
※ほんのりグロ表現があります。苦手なかたはお避けください。
いくら叫んだところで、もう声は届かないだろう。人影はあっという間に遠ざかってしまった。
男は地下シェルターに戻り、防護服で着ぶくれた体を丸めた。地上はひどい吹雪になりつつあった。
いま男にできることは、たったひとつ。吹雪が収まるまで、この狭い一畳シェルターに身を隠して縮こまることだけだ。一晩か、あるいは二晩か。もしくは、飢えて死ぬまでか。
たとえ吹雪が晴れて外に出られたとしても、再び誰かに巡り会える保証はなかった。人が地上の支配者であった時代は、もう終わったのだ。死の灰混じりの吹雪を避けてかろうじて人が生きられるのは、各地に残っている地下シェルターの中だけ。それも、ここのように雪除け付きのシェルターでなければ、雪に埋められて二度と外に出られなくなる。
男は目を閉じた。このシェルターに、食糧はもうない。体感で四日、水すら口にしていない。死は確実に、そこに迫っていた。
※ ※ ※
吹雪の音が止んでいることを確かめると、男はシェルターの蓋を開け、外に這い出した。
瓦礫に吹き付けた雪が、そこかしこに溜まっている。かつて見た真っ白な雪ではない、灰色に汚染された、汚らしい雪だ。
空すらも灰色に染まり、太陽は見えない。一年前から、空はずっとこんな調子だ。人類が太陽を拝める日は、二度と来ないかもしれない。
いまは空が真っ暗ではないから日中だろう、と判断できる程度で、午前か午後か夕方か、とっくにわからなくなっている。
ナタを杖代わりにしてゆっくりと立ち上がる男以外、動くものはなかった。風の音すらも絶え、あたりはしんと静まりかえっている。
「おーい!」
男は防護マスクの下から声を張り上げて、よろよろと歩き出した。先日人影が消えていったほうへ。
あのとき見た人影の足取りに、迷いはなかった。もしかしたら、行き先にシェルターがあるのかもしれない。だれかが避難しているとすれば、きっと食糧がある。
雪の上にあるべき人影の痕跡は、とうに掻き消されていた。男の引きずるような足跡だけが、雪を抉っていく。雪はブーツが半分埋まるぐらいに積もっていた。これからもまだまだ積もるだろう。いくら雪の多い地域とはいえ、男の感覚では、まだ初夏だったはずだが。
男はふと足を止めた。
行く手に、シェルターのありかを示す赤い旗が見えたのだ。棹はぽっきり折れて、旗は雪に薄く埋もれた状態で広がっている。
モノクロの世界に、突如として色が割り込んだ。旗のくたびれた赤、そして、付近の雪を染めている、旗よりもどす黒い――いや、もとは鮮やかな赤だったはずだ――雪の灰色と混ざり、赤黒く変色したもの。
これは、生き物の血だ。
雪が隠しきれぬほどに夥しく散った、血と、内臓。
「……熊か」
男は愕然とつぶやいた。
あのとき見た人影は、熊だったのかもしれない。永久の冬ごもりに倦んだ熊が目覚め、うろついていたのだ。空きっ腹を抱えて。
この旗が立っていたシェルターの主は、熊の訪いに気づき、狩って食糧にするつもりだったのだろう。赤黒く染まった雪の塊に、猟銃が突き立っていた。
男は重い足どりでのそのそとその場所へ近づき、すがるような手つきで銃に触れた。そして、引き抜いた。
銃身は半ばでくの字に折れていた。
「はははっ」
男は突然笑い出した。折れた銃を投げ捨て、代わりにナタを突きたてる。
「はははっ」
男は膝を折った。笑い声とともに、雪の上に崩れ落ちる。
男が人影を求めてここに来た目的は、熊と同じだった。しかし、もうその食糧はない。熊に奪われてしまった。
人が暮らしていたなら、シェルター内の食糧はとうに尽きているだろう。だから男はシェルターの主を食べるつもりでいたのだ。
「ははは、俺はまだ生きてるぞ!」
雪に倒れ臥した男は、首を掻きむしるようにして防護マスクを剥ぎ取った。
この防護マスクは、最初は男のものではなかった。防護服も、もちろん男のものではなかった。武器のナタもだ。シェルターもだ。水も、食べ物も。自分が生きるために、奪って奪って、奪い尽くした。 もう男が奪えるものは、折れた銃身しか残っていない。
「このクソッタレな世界で、勝ち続けた俺だけが生きてるぞ! ざまあみろ、俺が最後の一人だ!」
這いつくばった雪の上から、誰もいない場所に向かって叫ぶ。こだまは返らなかった。
「俺の勝ちだ! 俺の勝ちだ!」
男は赤黒く染まった雪を掴むと、狂ったように口の中に掻き込んだ。
そして、それきり、動かなくなった。
風が強くなってきた。また吹雪が訪れようとしている。
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愛にもいろいろあるので、今回は逆張り狙いの自己愛に振り切ってみました。ダウナーな話が続いたのでまたコメディも書きたいですね。なお土日は書く習慣お休みします。
5/12/2023, 4:18:29 AM