椿餅

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1/16/2024, 4:44:47 AM

 白い地平線の上に明るく澄んだ青空が広がり、その所々に千切れたようにして広がる雲が点在していた。
 高度一万メートル上空から眺める景色は、どこもあまり変化のないものだった。いや、変化などあるわけがない──地上にあって変化するものの全てが、何もかも消えてなくなってしまったのだから。空からかろうじて分かるのは、かつての陸地と海の境界くらいでしかない。

 ──今までは探査機の映像でしか分からなかったけど。最近は廊下を歩く度に、これが見えるんだよね……。

 立ち止まり、窓を眺めながら彼女は思いを巡らせた。
 大した役目のない自分ですら、この白い大地を目にする度に、何と表現したらいいのか分からない、とてつもなくやり切れない気持ちになってしまうのだ。これがもっと大きな役目を背負っている人間ならば、その苦しみはどれほどのものだろうか。
 彼が真正面から歩いてきたのは、そんなことを考えていた最中だった。

「やあ、おはよう」
「……おはよ」
「随分と暗い顔をしているね。何か心配ごとかな?」

 日常のほとんどを朗らかな表情で過ごしている彼は、その表情通りの声色で私に話しかけてきた。

「……心配ごとというか、取り越し苦労というか──杞憂というか。変に考えすぎて、要らない力を使ってしまって疲れてしまって、それで憔悴しているというか……」
「それはほとんど答えじゃないか! 何てすぐに解決できそうなお悩みなんだ、是非私に相談してくれたまえ!」
「……そういうの、恋愛関係しか受け付けないんだと思ってた」
「お悩み相談は大好きさ」

 嘘か真か判然としない様子ながらも、さあさあと急き立てるようにしてこちらに話すよう促してくる。口先で人を丸め込むことに関しては海千山千の彼に私が敵うはずもなく、私は全てを彼に話した。ただし、なるべく簡潔に。廊下を歩いてこの白い世界を見る度に、落ち込んでしまうのだ、と。話を聞いた彼は、満面の笑顔で私に告げた。

「ふむ。ならば話は早い──しばらく廊下は、目をつぶって走り抜けるといい!」
「……の、脳筋!」

 私の反応の何が面白いのか、彼は声を上げて笑った。

「常に何にでも取り組んで全て真面目にやり切る必要なんかないよ。疲れているときに、疲れることはしちゃダメさ。今の君に必要なのは、力を温存して回復に回すことだよ。悪夢を見るにしたって気力体力は必要だからね。あまりに疲れすぎると夢すら見ずに朝が来たりするだろう?」
「……それは、まあ、確かに」

 彼もまた、窓から見える白い大地を見る。表情は相変わらずだが、その雰囲気はどこか人ではないもののようだった──実際、厳密に言えば彼は人ではないのだが。

「何も変わらない、ずっと同じ景色を見続けるというのは、君が想像しているよりも過酷なものだ。疲弊して当然だよ」

 彼のそのことばが、どうにも実感のこもった声色に聞こえた私は、よせばいいのに彼に尋ねてしまった。

「……それって、自分もそうだったから……?」

 彼は、黙って微笑んだまま、私に向き直った。

「そういうことにした方が君が納得しやすいというのなら、それでもいいよ」
「……うん」

 私は、目を閉じて大きく息を吐いた。そして、目の前の彼を見る。

「じゃあしばらくは、窓は見ないようにするね」
「走らないのかい?」
「……廊下は走っちゃダメなんだよ」

 あれ、そうだったかい、なんておどける彼を見て、私も思わず笑ってしまう。

「──ああ、そういえば君を呼んでくるように言われて来たんだった。なるべく急ぎで、と」
「えっ、そうなの!? じゃあ早く行かなきゃじゃん!」

 私はすぐさま踵を鳴らして駆け出した。それに彼が余裕綽綽といった様子で続く。

「こらこら、廊下は走っちゃダメなんじゃなかったかな?」
「緊急事態は別! 急ぐよ!」

 笑いながらもさり気なく窓際に回ってくれた彼に、後でちゃんと礼を伝えよう、と思いながら、私は目的地に向けて走った──とりあえずは、前だけを見て。

1/15/2024, 3:32:14 AM

 どうして、なんて私が一番聞きたい。

「なあ」
「なあに」
「喉乾かんか?」
「……何が欲しいの? ……緑茶? 紅茶? コーヒー? それとも冷たいやつ?」
「そうさなァ……お前が淹れたものならば何でも美味かろうが──おお、そうだ! アレがいいな! あの、冷たい茶で、切った果実を入れた、甘くてシュワッとしたヤツ」
「何だっけ……? ……ああ、アイスティーの炭酸割り? ……アレかあ、一回しかやったことないのに良く覚えてたね。今レモンないから、オレンジでやってもいいなら作るけど」
「ふむ、ならばそれもまた良しだ。ホレ、さっさと作りにいくぞ。立った立った」
「はいはい」

 彼と付き合っている、と彼を知っている人たちに告げると、「お前は騙されている」、「何か致命的な弱みを握られたのか?」、「逃げるなら今のうちだぞ」などと、散々な言われようだった。

「お前たち、そういうのはせめて本人のいないところで言わんか」

 仲の良い友人たちからの発言に不機嫌そうにはしているものの、彼本人もそれらを否定する様子が一切ないのもまた滅茶苦茶な話だ。ある程度は言われても仕方がない、という自覚でもあるのだろうか。ないとは断言できないのがこの男の性質の悪いところだ。

「おい」
「なあに」
「手を出せ手を」
「手……? え、なんで……?」
「男心の分からんヤツだな〜! 折角並んで歩くのだから、手ぐらい握らせんか! サッササッサと一切こちらを振り返りもせずに歩きおってからに……」
「キッチンすぐそこだもん」
「距離や時間の問題ではなーい!」
「……はいはい、どうぞ」
「何だそれは! やる気ゼロではないか! 大体、お前から『一緒に行こ♡』とでも言えばこんなことにはならんのだぞ!」
「……鋭意努力します」
「そういうのは違う! 要らん!」

 ぶつぶつ文句を言いながら、彼は背後から抱きついてきた。終始聞き分けのない子どものような言動だが、体格は人並み以上に良いのでまるで後ろから猛獣に襲いかかられたような状態になる。

「全く、何て可愛げのない女だ……甘えたいとか、いちゃいちゃしたいとか、そういう感情はないのか? んん?」
「……私がそう思う前にそっちが甘えてきたり、いちゃいちゃしてくれるからそれで満足しちゃうのかも」
「……それは……なるほど、そうか……ふむ──いや! 騙されんぞ! いい加減、お前からも何かしてこい! そういうのをサボるのは許さん!」
「何か……? 何かって、何?」
「知らん! 自分で考えろ!」
「…………頑張りまーす」
「だーかーらだなー! どうしてそう素直にならんのだ! 大体、お前はいつも──」

 どうして、こんな彼と一緒にいるのかなんて。
 ──今のところ、「好きだから」以外の理由は見つかりそうにはない。

1/14/2024, 3:11:47 AM

「それはもう、是非やって欲しいですね。『お帰りなさい、あなた。ご飯にする? お風呂にする? それとも、私?』……と」
「……いつも思うんだけど、そういうのどこで覚えてくるの?」

 私から彼に教えた覚えは一切ないので、きっと他の誰かに教えてもらったのか、あるいはライブラリーにある資料などを見て覚えたのだろう。彼は、日本のこういった俗っぽい知識についてこちらが想定している以上に興味関心が高く、私と同世代くらいの──最近では大分上の世代のものも含まれてきたが──お決まりのやり取りについては、あっという間に覚えてしまっていた。

「どこでも良いではありませんか。何なら、私がそう聞きますから貴女が答えてくれるというのでもいいのですよ」
「えっ、それでもいいの!?」

 てっきり新妻というシチュエーションが気に入ったのだとばかり思っていたのだが、そういうわけでもないらしい。

「余人の介入する隙がなく、二人だけで生活の全てが完結しているというところが良いのです」
「そこ?」
「はい、そこです」

 顔を綻ばせながら、彼は話を続けた。その語りに熱が入っているところを見ると、余程気に入っているらしい。

「愛し合う者同士が二人だけで暮らす、というのは実に難しい話で──やはり限界がありましたから、色々と」
「……そっか、スーパーとかないからか」
「ええまあ……、スーパーとかなかったですからね……」

 こちらが敢えて衣食住だけの問題、という結論にした意図は伝わったらしい。確かに彼のいう通り、愛し合う者同士が一緒にいられること自体が奇跡みたいなものなのかもしれない。彼の場合、一緒になることがそもそも難しかったのだから、尚更そう思ったのだろうか。

「ええ、夢のような話です」

 背後から抱き寄せられると、彼の腕の中にすっぽりと納まってしまう。普段は戯けて夢見がちなことを言うくせに、実は誰よりも現実の残酷さを痛みとして感じてしまうひとだから、こちらもつい甘やかしてしまう。

「じゃあ、まあ……一回くらいはしてみる?」
「本当ですか!? それなら──」
「──普通の格好でいいなら」
「……バレました?」
「絶っ対、何か変なこと考えてると思ってたけど……!」
「いいではありませんか、二人きりなんですから」
「良くない!」

 そういいつつも、私は彼の腕から抜け出さず、彼に抱きつかれたままになっている。このまま絆されてしまえば、いつか彼の望み通りにしてしまいそうだな、と思い、私はそっと溜息をついたのだった。

1/13/2024, 4:36:43 AM

 おはよう、と微笑みながら彼女がこちらを見ている。彼女に朝の挨拶を返すと、彼女はふっと真顔になってシーツを被り、目元しか見えなくしてしまう。

「どうした」

 何かやってしまったか、とは思うものの、心当たりはない。こちらはたった四文字のことばを発しただけなのだ。彼女とオレとは、定型文すら気軽に言えない仲ではなかったはずなのだが──。

「……どうしたってほどのことじゃないんだけど」

 彼女はどこか決まりが悪そうな声色で、オレが彼女に何か悪いことをしたわけでは決してない、というようなことを柔らかく説明した後で、小さく零した。

「……なんか、そんな……昨日は何もなかったです、みたいな表情見たら、急にこっちが恥ずかしくなってきちゃって……」

 具体的にそれはどんな表情か、と彼女に尋ねれば律儀な彼女は口元までシーツを下げ、考えながら口を開いた。

「……こう、淡々とした表情っていうか……とにかく、いつも通りなんだもん……朝、同じベッドで起きて、顔見て、どきどきしちゃったのは私だけみたいな気持ちになって……」
「そうか」
「そう」

 ごめんね、とささやく彼女を抱き寄せる。

「確かにオレはお前と同じことは考えていなかった」

 話を続けるものの、意識の大部分は吸い込むとどこか胸が高鳴る心持ちにさせられる彼女の髪の香りに占められる。

「……だが、今しばらくはこうして怠惰に過ごしたいと思ってはいる」
「……そうなの?」
「そうだ」
「じゃあ、もうちょっとだらだらしよっか」
「ああ」

 それから、二人でシーツに包まりながら、他愛もない話をして過ごす。二人して空腹が限界になれば流石に動くだろうが、それはまだ先の話だ。

「髪、指でくるくるするの好きなの?」
「嫌か」
「ううん、いつもするな、って」
「指通りがいいから飽きがこない」
「そっか。ふふ……」
「そちらもよく頬を指でつついてくるが」
「柔らかくてクセになるんだもん」
「そうか……そうか?」

 こうして、どことなく気怠げな朝の彼女を独占できる日々が続けばいい──ずっとこのまま。

1/11/2024, 10:00:46 PM

 時刻は午前五時を三十分ほど過ぎている。他の季節であれば多少なりとも空は明るくなっている時間帯だが、冬場はまだ日も昇らない。玄関から家の外に出れば、車のフロントガラスに霜が降りていた。一見したところ、霜の層は厚く、エンジンをかけヒーターをつけてワイパーを動かしてもすぐには溶けそうもない。もしかするとウォッシャー液も凍ってしまっているだろう。ならば、フロントガラスにぬるま湯でもかけた方が手っ取り早い。そんな判断をしてすぐに家へ取って返す。キッチンへ向かい、空のペットボトルを探す。二リットルくらい入るサイズのものがあればいいのだが──。

「おはようございます……どうされました?」

 同居人である年若い彼がちょっと不思議そうな表情で私を出迎えた。首にタオルをかけているということは、洗顔が終わった直後くらいだろうか。

「おはよ! 車、フロントガラスが霜でバッキバキでさあ、やんなっちゃうよね」
「ああ……もうそんな季節ですか」
「あ、さっき顔洗ったとこ? ちょうど良かった!」

 見つけた二リットルサイズの空のペットボトルを携え、洗面所へ向かう。水を出し、念のために手で温度を確かめると──。

「うわ冷たッ! えっ!? ち、チヒロくん! お湯にしないで顔洗ってたの!?」
「……お湯にはしてないです」

 私に名前を呼ばれた彼は、洗面所の入口で申し訳無さそうな顔をして立っている。

「そ、そっか〜……」
「お湯にしておけば良かったですね、すいません」
「そんな、謝んないで! 私がお湯欲しかっただけだから……」

 お湯に切り換えてから一分後には、温かい水が蛇口から流れ出して来た。ペットボトルの飲み口を蛇口に当てて、温水を溜めていく。

「でも、水で洗うのも悪くないかもね。ばっちり目が覚めそう。私も明日から試してみようかな」
「いや、お湯でいいと思います。普通に冷たいんで」
「そうなの? ……あ、冷たいとは思ってるんだ?」
「冷たいです。これからもっと冷たくなるんで」
「そうなんだ……」

 温水が十分に溜まったので、蛇口を閉めた。ペットボトルの蓋も閉め、濡れた手を手早くタオルで拭く。

「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 再び玄関を出て、車の側まで近寄る。ペットボトルの蓋を開け、フロントガラス全体に温水を流しかけていく。バリバリと音を立てながら、霜は形を崩していく。

「……明日からは、毎日準備しなきゃだなあ」

 ああそうだ、と私は思いつく。温水入りのペットボトルを準備するのは、キッチンではなく洗面所でやることにすればいい。そうすれば、妙なところで我慢強いあの青年もお湯で顔を洗うのではないだろうか。蛇口からお湯が出てきたとき、彼は何か思ってくれるだろうか。ほんの僅かでもいい。寒々しいほどに達観したあの顔つきの幾ばくかが、朝の洗顔に使う温水で和らいでくれればいい。
 そう思いながら、私は車に乗り込む。シートベルトを締めながらサイドブレーキを外し、車のエンジンをかけた。

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