椿餅

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 時刻は午前五時を三十分ほど過ぎている。他の季節であれば多少なりとも空は明るくなっている時間帯だが、冬場はまだ日も昇らない。玄関から家の外に出れば、車のフロントガラスに霜が降りていた。一見したところ、霜の層は厚く、エンジンをかけヒーターをつけてワイパーを動かしてもすぐには溶けそうもない。もしかするとウォッシャー液も凍ってしまっているだろう。ならば、フロントガラスにぬるま湯でもかけた方が手っ取り早い。そんな判断をしてすぐに家へ取って返す。キッチンへ向かい、空のペットボトルを探す。二リットルくらい入るサイズのものがあればいいのだが──。

「おはようございます……どうされました?」

 同居人である年若い彼がちょっと不思議そうな表情で私を出迎えた。首にタオルをかけているということは、洗顔が終わった直後くらいだろうか。

「おはよ! 車、フロントガラスが霜でバッキバキでさあ、やんなっちゃうよね」
「ああ……もうそんな季節ですか」
「あ、さっき顔洗ったとこ? ちょうど良かった!」

 見つけた二リットルサイズの空のペットボトルを携え、洗面所へ向かう。水を出し、念のために手で温度を確かめると──。

「うわ冷たッ! えっ!? ち、チヒロくん! お湯にしないで顔洗ってたの!?」
「……お湯にはしてないです」

 私に名前を呼ばれた彼は、洗面所の入口で申し訳無さそうな顔をして立っている。

「そ、そっか〜……」
「お湯にしておけば良かったですね、すいません」
「そんな、謝んないで! 私がお湯欲しかっただけだから……」

 お湯に切り換えてから一分後には、温かい水が蛇口から流れ出して来た。ペットボトルの飲み口を蛇口に当てて、温水を溜めていく。

「でも、水で洗うのも悪くないかもね。ばっちり目が覚めそう。私も明日から試してみようかな」
「いや、お湯でいいと思います。普通に冷たいんで」
「そうなの? ……あ、冷たいとは思ってるんだ?」
「冷たいです。これからもっと冷たくなるんで」
「そうなんだ……」

 温水が十分に溜まったので、蛇口を閉めた。ペットボトルの蓋も閉め、濡れた手を手早くタオルで拭く。

「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 再び玄関を出て、車の側まで近寄る。ペットボトルの蓋を開け、フロントガラス全体に温水を流しかけていく。バリバリと音を立てながら、霜は形を崩していく。

「……明日からは、毎日準備しなきゃだなあ」

 ああそうだ、と私は思いつく。温水入りのペットボトルを準備するのは、キッチンではなく洗面所でやることにすればいい。そうすれば、妙なところで我慢強いあの青年もお湯で顔を洗うのではないだろうか。蛇口からお湯が出てきたとき、彼は何か思ってくれるだろうか。ほんの僅かでもいい。寒々しいほどに達観したあの顔つきの幾ばくかが、朝の洗顔に使う温水で和らいでくれればいい。
 そう思いながら、私は車に乗り込む。シートベルトを締めながらサイドブレーキを外し、車のエンジンをかけた。

1/11/2024, 10:00:46 PM