椿餅

Open App
1/10/2024, 12:53:17 PM

「……大学を中退してその件で父と喧嘩をして家出したね」

 そこからまた、色々あって今ここにいるわけなんだけどね。
 どうしようもなくて出た苦笑いを顔に貼り付けて、彼女はそう返事をした。

「ま、またどうしてそんなことに……」
「喧嘩の原因は、私の進路についてだったんだけど。滞在費用込みで返済義務のない奨学金が貰えるって話を聞いて、こうしちゃいられないって思って自分だけで決めちゃったの。大学を卒業するタイミングで同じ条件の話が来るとは限らないから、じゃあ今行っちゃうかって。父はそもそも、私がこの道に進むのを歓迎してはいなくて。進むにしても、大学は卒業して欲しかったらしくて。それで、人生初の親子喧嘩。次の日、貴重品とパスポートを持って家を飛び出したってわけ」
「な、なるほど……」

 この呟きには、同郷の年上の彼女の話に対する相槌としてのものだけでなく、「そういえば二十歳の頃って何してました?」という質問は気軽に大人にするものじゃないんだな、という実感も大いに含まれていた。

「じゃあもう、かなり人生の転機ですね」
「そうだね。今思えば、本当に節目になった年だったなあ」

 二十歳かあ、と思わず溜息のようにして呟く。
 そんなこちらの様子を見て、彼女は軽く歯を見せて笑う。

「まあ、私ほどじゃないにしても何か変化のある年にはなると思うよ──多分、そういうものだと思う」
「はあ……」

 普段は同郷のくだらない話に付き合ってくれている彼女が、何故かその時だけはまるで知らない大人のような顔を見せてきたせいか、何だか妙な──どちらかといえば、あまり良くはない──気分になった。

「……思ってたより、ちゃんと大人なんですね」
「思ってたより!? ちょ、ちょっと! 普段の私って、そんなに子どもっぽいかな!? ……自分が大人かどうかの自信は、まあ、確かにないけど……」

 そうやって頭を悩ませてくれればいい、と思った。
 大人になんかならないで、ずっと側で一緒に悩んで欲しい。置いていかないで、でもなく、追いつくまで待ってて、でもない。どうかどうか──どうかまだしばらくは、子どもの僕と同じことばで話して、似たようなことで悩んでくれる貴女でいて。
 そんな声にならない、呪いのような祈りの感情を持ちながら、僕は彼女の横顔を見つめていた。

1/9/2024, 10:44:45 AM

 夕焼けの赤い残光の残る空に、白い弓のようにして輝く月が浮かんでいる。そんな月を見て、私はまるで彼のようだな、と思った。私にとっては、見上げると首が痛くなるような場所にいて、それでいて清らかで光り輝くもの、それが彼という存在だった。
 けれども、私が彼をそんなふうに──自分からは遠く離れた場所にある綺麗な価値ある何か、といった扱いをすると、急に不機嫌になるのだ。それは、私が意識したものであっても、また無意識のものであっても。また、そのどちらでもないものも。彼はその、静かな、それでいてよく通る声で、私に嘆息しながら言う。いくら美しい言葉で表現したところで、貴女が私から距離を置こうとしていることに変わりはないでしょう、と。
 そうかもしれない、と私は思った。彼から離れたい──離れたところにいたい、遠くから見ていたい、という気持ちが確かに私にあるのだろう。どこかで私は彼を恐れたり、怖がったりしている部分があるのかもしれない。
 それにしても、何だって彼はそれを私に許そうとしないのだろう。何度言っても遠巻きにするような聞き分けのない人間など、捨て置けばいいものを。問いかけるようにして空を見上げても、三日月は何も答えてはくれなかった。