『白昼夢』
まだ僕が十にも満たなかったと記憶している。
その日は僕の歳の離れた姉さんの結婚式だった。昔ながらのしきたりで花嫁である姉さんは嫁ぎ先の家で白無垢を着て袴姿の新郎と並んで盃を交わした。
僕は姉さんの盃を持つ手がやけに白く艶めいていたことを覚えている。
三三九度が終わると顔見せと言って宴会である。子供の僕は退屈でいたずらがしたくなった。
義兄の家を探索しようとこっそり抜け出して廊下から台所から玄関から中庭から、蓋のあるものは開け、覗けるものがあれば覗いた。
途中、女中さんから「坊ちゃん、二階は駄目だよ」と目を三角にして言われたけれど、お構いなしに二階も覗くことにした。
ギシギシと軋む階段をできるだけそっと登る。二階は駄目だと言われたら行くしかないだろう。
襖を開けると真っ白な髪をした子供が目を見張って震えていた。
「だあれ?」
僕より少し年下の風貌の子だけど、口調がもっと幼い。幼児みたいだ。
「こわいひと?」
あまりにも怖がるので、手を振って違う違うと釈明する。
「うーん、多分僕はきみの親戚?になるのかな?」
「しんせき?」
「うん。だから怖くない」
そう言って子供に向かって笑って見せる。
「よかったぁ」
その子はやっと笑顔になった。
「君は祝言には出ないのかい?」
僕は疑問に思っていたことを口にする。
「しゅうげん?よくわからない。わし、ここからでちゃだめなんだって」
「なんで?」
「わし、びょうきだから。うつるから、でちゃいけないんだって」
僕は少し気の毒になった。祝言が終わるまでは一緒にいて遊ぼうかと提案したら、その子は
「にいさんにわしのびょうきうつっちゃうよ」
と悲しそうな顔をしたので少しくらい大丈夫と誤魔化しておいた。
その子とは遊んだというよりは遊びを教えたと言った方が近い。しりとりも、ままごとも、お相撲も何もかも知らなかったから。
しりとりは言葉を知らなすぎて成り立たなかった。ままごとも役割自体がわからなくてできなかった。唯一できたのはお相撲で、それでもひ弱な彼はすぐに転んで連敗になった。
正直ジリジリと時間が経つのを欲していた。それでも踵を返さなかったのは、彼の置かれた境遇に同情してのことだった。
下の方でざわざわと物音がした。宴がお開きになったのだ。
「にいさん、ありがとう」
子供は少し寂しそうな笑みを浮かべたが、それをかき消すように頭をガシガシとかいて
「たのしかった。ありがとう」
再びありがとうと言った。
僕は作り笑顔でさよならを言うと急いで階段を駆け降りた。
下には姉さんがいて、
「心配したんだから」
と呟いた。
あれから何十年が経つだろう。僕は結婚して子供も孫もできた。あの後義兄さんにそれとなくあの家に子供は居ないかと聞いたのだが、さらりと居ないよ、と言われてその話はお終いになった。姉には顛末を話したのだが、座敷童子なんじゃないのと一蹴された。
今までがむしゃらに生きてきて、年老いて考える余裕ができたら彼のことを考えるようになった。
不思議な子供だった。彼はまだ生きているのだろうか。それともほんとうに座敷童子だったのだろうか。
ゆめうつつのなか、今もそれを考える。
#無垢
『主人公として生きる』
大魔王を倒した勇者はその後どう生きるのか。
王子様と結婚したシンデレラは、目を覚ました眠れる森の姫は、大円団を迎えたあの物語の続きは?
人生は点じゃない。その一瞬を生きるだけでは短すぎる。どの物語にも続きがあってサイドストーリーがあって登場人物一人一人が生きている。
僕は僕の人生の主人公なのにそんなことも忘れていた。終わりのない旅は本当は怖い。目的もなく生きるのは怖い。一つの区切りとしての目標は次の目標の布石。そうやって一つ一つステップアップして僕の人生の中の、例えば大魔王を倒したりするんだろうけど。
でも、その後は?考えたことある?ずっと幸せな物語なんてない。最期は笑って死にたいなんて言うけれど僕は自分の最期を見通せるほど達観してない。
人生は片道切符。途中下車はあるけど強制終了と同じ。皆は一律に寿命という旅路を完走する。
当たり前のことが僕は怖いんだ。だから、宗教学とか哲学とかの学問や目上の人に助けを求めるけど、本当は自分で考えなくちゃいけないのはわかってる。
魔王を倒すという目標、王子様とあるいはお姫様と結婚するという目標。それも人生の到達点なんだろうけど、僕は気づいてしまったんだ。
到達点だけを見ている自分に。
「帰るまでが遠足ですよ」
誰もが聞いたことのあるこのフレーズがリフレインする。
僕は何か勘違いしている?人生において目標が全てだと思ってたけど、人生自体が目標かもしれない。
たとえ僕がなにも成し遂げられなくても悔いのない人生を生きることが目標。
でも、悔いのない人生ってなんだろう。
よく考えたけど、出てこない。
ただ、暖かな居場所があれば、そこで僕の好きな人たちが笑ってくれればそれでいいのかもしれない。その居場所を作ることこそが目的なのかもしれない。
ふとそう考えて自分を内省すると僕は守るべきものがない『からっぽ』の主人公だということに気づく。
魔王を倒した勇者は世界を『』していた。
シンデレラは王子を『』していた。
急に答えを突きつけられて、僕は眩暈がした。
『からっぽ』の心に『』を満たすには。
僕はオズの魔法使いのブリキの木こりのように、リアルの物語で足りないものを探すことにする。
それこそ、終わりなき旅を大円団で終わらせるために。
#終わりなき旅
『休憩時間』
半袖のユニフォームを肩までたくしあげると健康的な小麦色の肌が眩しい。浮かんだ汗の玉がつぅ、と腕まで流れて肘のほうへ消える。君はおちゃらけてうちわの代わりに手のひらで風を仰いでみせた。
水筒の氷がカランと音を立ててカルピスの海に沈む。
入道雲と青い空、少し向こうにひこうき雲。
もうすぐ夏の大会だから、今年で最後の夏だから。
僕らは大人が羨む青春ってやつを精一杯楽しむんだ。
#半袖
『失恋』
久しぶりに彼からの呼び出しがあった。
天にも昇る気持ちで、はやる気持ちを抑えて約束の場所へ向かう。
(もしかして今日こそプロポーズが貰えるのかな?いやいや、遅めの誕生日プレゼントをサプライズで渡してもらえるのかも)
期待しながら辿り着いた居酒屋で、私は地獄に落とされた。
決まりの悪そうな彼の、口をつけていないソフトドリンク。どれも現実的じゃないのに目に焼き付く。
別れ話ならちゃんと嫌いになってからしてほしい。
「君は僕にはもったいない」
そんな言葉で誤魔化され、作り笑いでさよならを言った。彼は早々に去り、私は一人居酒屋に残された。
天国から地獄に来た気分。いいえ、うすうす分かっていたけど気づかないふりをしていただけね。
彼の態度がそっけなくなったのは誕生日に会えなくなった時からわかってた。プレゼントなんかないって本当は知ってた。
でも私は恋をしていたかった。愚かな恋に溺れていたかった。彼のことが好きで、私のことが好きな彼が大好きだったから。
一人残された居酒屋でハイボールを飲みながら私は現実に戻ってきた。
「ああ、恋は辛いなぁ」
ハイボールが喉に染み渡る。大人な苦味のある発泡酒は彼の思い出とともに嚥下され、胃の奥にストンと落ちていった。
#天国と地獄
『月明かりの下、君を想う』
「願い事は言葉にしたら叶わないんだよ」
いつだったか、あの人は昔そう私に教えてくれた。
それ以来、私は黙って祈るようになった。
あの人が側にいなくなってもそれは変わらなかった。
自室の窓からは人々の暮らしの象徴である灯りがよく見える。誰もいない交差点の信号が点滅して赤になる。
日曜の夜はひどく静かで、アルコールの入ったグラスを少し傾けるとまるで違う世界へ入り込んだかのような錯覚を覚えた。
月明かりが窓を伝って入り込んでくる。それはひどく神々しく、敬虔な教徒になった気分にさせる。
なぜだか少し目の奥がツンとした。感傷的な時はやることは一つしかない。
背筋を正し、目を軽く瞑って両手を合わせる。
願い事はひとつ。
想いを込めて、真剣に祈る。
もしかしたら願いが叶うかもしれないから。
『あの人とまた暮らしたい』
分かっている。馬鹿馬鹿しい。あの人の意思で出て行ったのだから戻ってくるはずはないと。
でも、私は信じて待ってる。
私には祈ることしかできないから。
瞳をあけて月を見た。
大きな月だった。薄黄色の光を宿す月面の影に、あの人の面影が見えた。
私は少し泣いた。
#月に願いを