夕飯を食べられるようになった。口の中が乾燥でめくれて、物を口にいれても噛めなかった。それでも食べなければと思い、ひと噛みするごとに白湯を含んだ。飲み込もうにも、嚥下できず、白湯で流し込んだ。唇がめくれて腫れ上がって感覚がなくなり、汁物が食べられなかった。温度のあるものは舌にしみて痛くて。
食べる、飲み込む、という事に全神経をかけた、今までに一時期までは、魚や肉も普通に食べて来た。ずいぶん前までは牛タンだって、何も思わずに食べて来た。だけど、食べる、という尊い営みは、口から命を入れるという事で、どんな命を自分の命とするのかを、わたしはわかっていなかった。
いただきます、とごちそうさまを丁寧に言えば、何だって食べてもいいとさえ思っていた。だけど、違った。
わたしが、ヴィーガン食をこれからもしたところで、動物は誰かの手によって殺されていく。その『誰か』は、わたし自身だ。いくらどんなに、動物性のものは食べません、と言ったところで。
だけど、思う。言霊は生きている。わたしが伝えた事が空に漂って、必ず、思いやりがあり世の中の不条理に心を痛めている誰かが、必ずキャッチする。わたしの事なんか知らない知りもしない誰かが、「あ、もう今日から魚も肉も卵食べなくていいや、ピザもケーキも要らない」と、突然思い始めるかもしれない。
一瞬の休みもなく絶え間なく神様の働きがあるから、と、わたしは信じている。
今日は地主さんに、助けていただきながら畑を耕して土を柔らかくして、新しい畝が出来上がった。
明日、目覚めないとしても今日に満足している。
小康状態と言ったらいいのか、自分の身体の事なのに、身体の中で何がどう行われているのかサッパリ分からない。
自分がどうなっているんだろう…、どんな状態なのか知りたい…。10日以上前に主治医の判断で皮膚科へいったら、「即入院して欲しい状態」と言われたが。
この、『知りたい』と思う気持ちが、焦りになっしまう事がある、という事がよく分かった。
あれから抗生物質は飲んでない。なのに、喉がイガイガして水を飲むとむせる。血のような味というか、そういうものも感じた。口角が切れて笑うことができないのに、自分の状態に笑ってしまう。口の中が腫れて頬に違和感がまだある。発疹が消えてない。紫斑も増えてはないが消えてない。
悪くもなく、良くもなく。ハタと、止まってるような気がする。
神様は奇跡など起こさない。わたしが、はいかいいえを選んでいるだけだ。医療行為は受けますか、それは「いいえ」。今の状態が本当のわたしです、それは「はい」。
自分の身体の中がどういう状態なのか、分からないけれど、何も失ってはいない。今日から少しずつ畑の草取りをする事になっている。
時々強ばった肌がピリッとする。肝臓がチクリと痛む。何かが反応しているのかなと思う。何かを始めようと思うのは、身体の中でも、何かを始めようとしている、同じ事なのかもしれない。
倦怠感はなく、発熱は一時あったけど平熱に戻った。
自分に驚くのは、今まで他人に、知っている人であっても大きく手を振って自分から声をかけるなど、そんな事をする性格ではなかったのに、声をかけずにはいられなくなった。人として、そんな事は当然出来ているはずのことが、わたしは今まで出来ていなかっんだと気づいた。
どういう状態になろうとも、これが本来のわたしなんだと思う。神様と賭けをしてはならない、命は元々神様のもの。
「はい」「いいえ」だけを許されている。その他のものは、全て、悪から発生するんだと知った。
動物性のものを一切食べてない。驚くことでも何でもない当たり前の事だった。2000年前にもう既に動物の悲しみは必要なし、と神様に言われていたのに、人間はその味を忘れられず他人の手を汚してまで動物を食べて、自分達の生活の為に利用して来た、ということを教えられた時に、ピンと来た。
ただのヴィーガン食であってはいけない、と教えてもらった時に、そこに神様の意図を知らなければ、ただの自分の健康のためになってしまう、ともすぐ分かった。そこに今のわたしのピントがピタリと合っただけの事だった。何も特別などない。サラサラと血が流れて、心地好さ感じてる、そのことは体験してみないと分からない。
みんな、自分が何者なか知りたいんだと思う。知りたい究極が信仰なんだと思う。信仰者は貪欲だと思う。それが一歩間違えれば悪魔にでもなれる。自分の知りたいという気持ちを利用されて、いつの間にか悪魔に加担しているっていう姿はニュースでもよく見るし、実際に仲間で、誰からも孤立してしまった人を何人も見て知っている。そういう人は、神様というよりも、自分だけで考え過ぎてそうなってしまっていた。
身体が弱っている時、気持ちがイラつく時は気を付けなければいけない。そういう時こそ、キリキリと自分の思考を切り詰めたくなるから危険なんだ。
そんなに難しい事ではなく、自分の中で、サラサラと血が流れていれば、その心地好い方へ心を向けているだけでいい。実際に少しずつ、わたしの周りが変わってきてる。食べ物を変えるだけ。神様の名の元に、徹底的に一切、魚肉類のものを摂らない。加工品添加物酒砂糖を摂らない。わたしがやった事は、ただこれだけ。今後は使っている物もよく調べて、シルクの靴下を好んで履いていたけれどこれも止める。
ここの畑に何を植えようか、その事を思うだけで涙が出る。これからは育てる側になれるんだ。自分の身体も今の状態も引き受けた以上、わたしは『生き切る』。
夫に、わたしが精一杯生きて喜びの人生だったと、感じてもらえるように、わたしが生きていかなければ、と思ってる。この先、わたしがどんな姿に変わり果てようとも、心は失っていないんだと。
わたしが死んで、必死に生きて神様にあんなにすがっていたのに…、と思われてしまったら、どんなにわたしが『生き切った』と、満足したところで、神様はわたしを許さない。『裁き』も受けられなくなる。「まだ、やり残しがあるだろう」と、堕とされてしまう…
できることは、
夫と共に喜んで、つらい時はつらいと言う。嘆いてもいい。泣いていい。だけど、神様とだけは離れない、この意思だけは貫く。『神様なんだよ』と、言って笑う。
芽が出ても出なくても、『神様だね』って、言う。『しあわせだょね』って、言う。言って言って、言いまくる。
『…今日はこんな事があった』と、いつも話しをする。その営みの全てに、神様を憎まないようにという願いを込めて、明るく生きる。これも完全燃焼、『生きる切る』中のひとつの訓練だ。
夫も死んだら神様の元へ行き、『裁きを受けるか?』と、聞かれる。そこで、『受けます』と、即答できるかどうか、それはわたしには分からない。
夫の学びとわたしの学びは違うから、夫の学びをわたしが引き受ける事はできない。
夫の身代わりなることもできない。手伝うこともできない。ただ一番学び合わなければならない相手であるのは確かだけれど、『一緒に』、でありながら『一緒』ではない。
夫は神様に「いいえ」と応える人生になるかもしれない。そうなったとしても、生きているうちに、神様だけではなく、他人や世の中や病気を『憎む』生き方だけはして欲しくない。
人間は受け入れるか、拒絶するか、どちらかしか選べない、ただただ選ぶことだけを許されている。どっち付かずの事をやっていたら、応えを先延ばしにしていたら、手遅れになってしまう。何も選べない選ばなかった、そんな生き方になってしまう。
息子の人生は全く違う。血は繋がっているけれども、息子は息子の家族や他人との繋がりの中で、神様と出会う人生を送るだろう。
息子には神様との縁を、もう授けてある。あとは本人次第だ。
わたしはペットとして、ハムスターを今までに4回飼ったことがある。動物を愛する心を持っていると思っていたし、痛みも理解できると勘違いしていたし、虐待などしたことも考えたこともない。
だけど、わたしが選ばなかったハムスターたちは、誰にも選ばれなかったら殺処分になる。そのことはほんの少し知っていたのに、殺処分のボタンを誰かに押させていた。わたしはペットととして、ペットを飼う事は、動物を間接的に殺していたのだと理解していなかった。信仰者なのに。
信仰するとは、一人悟りを得る事でも修行する事でも懺悔する事でもアーメンと祈ることでもない、ただ自分ためでもないかぞくのためでもない。
自分のため、家族のためだけなら、信仰者止めて、神社へ行ってお賽銭投げて御朱印もらって家族と楽しんだ方がいい。
もう祈ってるだけては駄目なんだ、唱えているだけの世界はもう終わったんだ。
今のこの世の中を見れば、それは分かる。戦争や揉め事はあちこちで身近で始まってる。病気もどんどん増える。信仰者ならば、覚悟した方がいい、ますます厳しくその身を差し出さなければならなくなる日が来る。
この汚い世の中に出て、自分が雑巾やバケツになって汚物の受け皿になる事。それも苦しみや悲しみではなく、明るく明るくどこまでも明るく。そのエネルギーは神様のもの。神様から来るもの。自分の努力さえ無力だ。
それは何故か、心の明るさが、明るさで世の中を綺麗にする事が出来るからだ。その明るさは、修行とか自力なとでは到底成し得ない。
ただにこやかに笑っている、我慢しているという明るさとは全く別物だから。
信仰者なら、自分が引き受けるのだと、覚悟を決めなければならない日が必ず来ます。
薬疹が治まりつつあるのに、3日くらい前から、太ももに紫斑があるのに気づいた。全身よく見ると、脹ら脛の血管の辺りにもポツポツとふたつ。これは?ぶつけたわけでもない。口の中の渇きは治まりつつあるけれど治っていない、文字が滲む読みにくくなっている、瞼の裏がごろついている。
調べたらシュグレーン症候群なるものにヒット。薬疹から発症する事例が少なくない、難病だった。
これも引き受けることになるかもしれない。進行はゆるやかで10〜20年。そのうちに肺や腎臓まで侵される。失明する可能性は、それよりも早く大きい。
余命10年と考えれば御の字だと思う。それだけあればかなりの事が成せる。
またこの生検を受ければ、もしシュグレーンだったら投薬治療が始まってしまう。
ほっとくことにした。
わたしはこれから様々な病気を引き連れて生きて行くことになる。余命10年あれば有難い。これ以上の治療延命は望まない。
わたしは今までビクビクして生きてきた。怖いことは予測して遠回りして、多少靴が汚れても自分が汚れないように、慎重に歩いて汚い世の中を歩いて来たと思う。
これからは、この身を持って汚い事を引き受けなければならない。病気もそう。
出来る限り汗をかいて泥にまみれて畑を耕して、失敗したり喜んだりして、最後まで『本当に生きる』ということを全うしたい。受け取った身体を薬や動物の命や血で汚しきったまま死ぬわけにはいかない、少しでも綺麗にして還したい。
『本当に生きる』それが神様に対する礼節で、礼儀だと思う。自分の命を自分でどーこーしようなんて、不遜だと思う。どうにもできない。
人間は、掃除の役目として生まれて来て、それを志願して生まれてきて、親も兄妹も親戚も友人も知人も全て選んで生まれてきて、病気もそうなると覚悟を決めて、ご先祖様の願いが遺伝子の中に書き込まれていて「自分たちが逃げ回っていた神様の裁きを、一緒に受けて欲しい」との願いがあり、それを受け継いで生きて学ぶと決めて生まれて来た、全て自己責任なんだから、不貞腐れる理由は思い当たらない。
それを少しでもわからせてもらえただけでも有難い。『生き切る』と終わるのとでは、全く違う。自分で覚悟を決めなければ、『生き切る』事は出来ないんだ。
わたしの今回の場合は、自己免疫が肝臓を攻撃したのだけれども、少し普通と様子が違い、主治医が慎重に経過を診ている。
例えば、薬剤に対して突然発疹がある。
これも重大な事らしく、「肝臓の経過が良好なのに、何故?…」と、主治医が首を傾げた。わたしは、とにかく薬剤に対して反応が出やすい。
何故か。
それは、身体の異物を排除する力が強いからだ。普通の人なら受け入れてしまう薬剤という異物を、わたしは受け入れない。それを人は『弱い』というけれど、それは逆で不純物を自分の物としない、という細胞のミトコンドリアの意思による。
母から血液が綺麗な状態で育てられて、なるべくそれを維持してきた。病気をしてもなるべく自分の自然な治癒力で治るように過ごしてきた。鬱になった時も薬は使わず、お金がかかってもプログラム治療を受けた。季節性の喘息も、マイコプラズマ肺炎の時も、薬を使わなかった。東京に居る時までは…
引っ越してきて、病院が遠い…、不便。いつ何が起こるか分からない…。この不安が、わたしを狂わせた。頭が痛い…、鎮痛剤を。便秘になる…、下剤を。咳が止まらない…、病院でせき止めを。そうやって少しずつ自分を狂わせてしまった。少しの風邪でも漢方薬を飲み、栄養ドリンクを飲んだ。
3年前の薬剤による急性肝炎の時に、もっと薬服用について、重く受け止めるべきだった。今回も急性肝炎と診断を受けた時に、点滴を1週間も受ければ治るだろうと、たかを括っていた。
また、同じ生活に戻る事は許されなかった。180度考え方を変えなければならなくなった。反省どころか、悔い改め。
人間は死んだら、誰であっても、
神様の元へ行く。そこで、聞かれる。
「おまえは裁きを受けるか?」と。
そこで、一瞬でも躊躇えば、もう一度人間として堕とされる。というより、「やり直させてください」と、いうより他はない。
生きている間に神様からの裁きを受けられる人間は居ない。それは身体も心も汚れきってるから。裁きを受けるに値しない。
この世の苦しみは、裁きでも罰でもない。何故、あんな良い人があんな酷い目にあうんだろう…、それは、この汚い世界に合わないからだ。神様が両手で他人のために捧げたその命を掬ったからだ。
ニュースを見た者の目からみると、憤りに堪えないのは、ニュースを見たものたちに、悔い改めを促しているからだ。だから、最も目を背けたくなるような、憤りと衝撃を与えられる。
「おまえたちは、この状況を遠くから見て、自分の心に指を差せ、真の犯人は、見ているだけのおまえたち自身ではないか」と。
戦争は遠くの誰かと誰かが起こしているんとおもったら大間違い。自分の心の中で常に、誰かと自分を比較して、どっちがマシか天秤にかけている。何かあれば、イラッとするのは、戦争の切れ端だ。人を嫌うのも、憎むのも戦争だ。
それを止める。
止めるにはどうしたらいいか。
まず、魚肉卵牛乳、チーズなどの動物性たんぱく質、酒、添加物、サプリ、ジュース、スィーツ…、
など、不自然なもの、攻撃的なるような動物性のものを口から入れない。動物の悲しみと苦しみが残っているから、それを体内に入れれば、その悲しみが身体に感染る。
だからまず、自分の血液を清潔に保つ事から始めるんだ。
そもそも、この世に生まれてきたのは、幸せになるためではない。苦しむためでもない。『汚い世の中を綺麗にします』、と神様に誓って生まれてきた。それはつまり、世の中のために尽くします、という意味でもあった。
それが分かれば、この世の中のしがらみから少しの解放される。そしたら、今度は自分の使っている物を見直す。バック、財布、ベルト、靴下、ジャケット、布団…、動物の皮や羽を搾取した物で溢れている。
「自分は何も悪いことしていないのに…なぜ酷い目に合うのだ…、」そう思う時、自分は何も悪いことをしていない動物たちから命を搾取している存在なんだと、気づいたほうがいい。自分がされた事よりも、してきたことの方が、ずっと罪深い事に気づく。
酷い目に合い続ける人は、やり直すことが出来る、必ず。先祖からの因縁でも何でもないからだ。自分の中にミトコンドリアに遺伝子に先祖が全て書き込んでいる。『願い』がある。だから、2度と生まれることのないように、そういう生き方をして欲しいという『願い』だ。それを先祖の悪因縁とするのは間違っている。
わたしは、土地を借りるにあたって、雑草だらけの石ころだらけの場所を借りる事に決めた。そこから始める。自分が今までとんでもない思い違いをして生きてきた。それを、少しずつ土に返して耕して、人との縁を育てようと思う。
わたしは病気が治るようにとは祈る事は、神様に対して不敬だと思う。
病気は治らなくて良し。そんなこと気にしないくらい、命を完全燃焼させる。
もう生まれたりしない。
そのために。