未完の花

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夫に、わたしが精一杯生きて喜びの人生だったと、感じてもらえるように、わたしが生きていかなければ、と思ってる。この先、わたしがどんな姿に変わり果てようとも、心は失っていないんだと。

わたしが死んで、必死に生きて神様にあんなにすがっていたのに…、と思われてしまったら、どんなにわたしが『生き切った』と、満足したところで、神様はわたしを許さない。『裁き』も受けられなくなる。「まだ、やり残しがあるだろう」と、堕とされてしまう…

できることは、
夫と共に喜んで、つらい時はつらいと言う。嘆いてもいい。泣いていい。だけど、神様とだけは離れない、この意思だけは貫く。『神様なんだよ』と、言って笑う。
芽が出ても出なくても、『神様だね』って、言う。『しあわせだょね』って、言う。言って言って、言いまくる。

『…今日はこんな事があった』と、いつも話しをする。その営みの全てに、神様を憎まないようにという願いを込めて、明るく生きる。これも完全燃焼、『生きる切る』中のひとつの訓練だ。


夫も死んだら神様の元へ行き、『裁きを受けるか?』と、聞かれる。そこで、『受けます』と、即答できるかどうか、それはわたしには分からない。

夫の学びとわたしの学びは違うから、夫の学びをわたしが引き受ける事はできない。
夫の身代わりなることもできない。手伝うこともできない。ただ一番学び合わなければならない相手であるのは確かだけれど、『一緒に』、でありながら『一緒』ではない。

夫は神様に「いいえ」と応える人生になるかもしれない。そうなったとしても、生きているうちに、神様だけではなく、他人や世の中や病気を『憎む』生き方だけはして欲しくない。

人間は受け入れるか、拒絶するか、どちらかしか選べない、ただただ選ぶことだけを許されている。どっち付かずの事をやっていたら、応えを先延ばしにしていたら、手遅れになってしまう。何も選べない選ばなかった、そんな生き方になってしまう。


息子の人生は全く違う。血は繋がっているけれども、息子は息子の家族や他人との繋がりの中で、神様と出会う人生を送るだろう。

息子には神様との縁を、もう授けてある。あとは本人次第だ。

わたしはペットとして、ハムスターを今までに4回飼ったことがある。動物を愛する心を持っていると思っていたし、痛みも理解できると勘違いしていたし、虐待などしたことも考えたこともない。

だけど、わたしが選ばなかったハムスターたちは、誰にも選ばれなかったら殺処分になる。そのことはほんの少し知っていたのに、殺処分のボタンを誰かに押させていた。わたしはペットととして、ペットを飼う事は、動物を間接的に殺していたのだと理解していなかった。信仰者なのに。

信仰するとは、一人悟りを得る事でも修行する事でも懺悔する事でもアーメンと祈ることでもない、ただ自分ためでもないかぞくのためでもない。

自分のため、家族のためだけなら、信仰者止めて、神社へ行ってお賽銭投げて御朱印もらって家族と楽しんだ方がいい。

もう祈ってるだけては駄目なんだ、唱えているだけの世界はもう終わったんだ。

今のこの世の中を見れば、それは分かる。戦争や揉め事はあちこちで身近で始まってる。病気もどんどん増える。信仰者ならば、覚悟した方がいい、ますます厳しくその身を差し出さなければならなくなる日が来る。

この汚い世の中に出て、自分が雑巾やバケツになって汚物の受け皿になる事。それも苦しみや悲しみではなく、明るく明るくどこまでも明るく。そのエネルギーは神様のもの。神様から来るもの。自分の努力さえ無力だ。

それは何故か、心の明るさが、明るさで世の中を綺麗にする事が出来るからだ。その明るさは、修行とか自力なとでは到底成し得ない。

ただにこやかに笑っている、我慢しているという明るさとは全く別物だから。

信仰者なら、自分が引き受けるのだと、覚悟を決めなければならない日が必ず来ます。






3/22/2026, 1:03:02 PM