ヨネリは赤い魔法瓶を、頬杖をついてじっと見つめていた。
「ヨネリ。パンとスープを机に運んでおくれ」
キッチンから、母の声がヨネリを呼ぶのが聞こえた。魔法瓶から目を離し、椅子を降りてキッチンへと向かう。ふわり、と焼きたてのパンの香りがヨネリの鼻腔をくすぐり、パンを皿に乗せた母がこちらを振り返った。
「熱いから気をつけるんだよ」
「うん。わかった」
差し出されたトレーの上には、美味しそうな朝食がいっぱいに乗せられている。一気に眠気が吹き飛んだヨネリは、うきうきとした様子でトレーを机の上に運んだ。
机上には、二つのトレーが向かい合わせに並んでいる。母とヨネリは、いただきますと手の平を合わせ、パンをちぎって口に放り込んだ。まだ温かいパンは幼いヨネリには少し熱かったのか、口をはふはふとさせながら食べている。美味しそうにパンをほお張るヨネリの姿に、母は小さく微笑んだ。
「ねえ、お母さん。魔法瓶はどうして魔法っていうの」
パンを飲み込んだヨネリが、母に尋ねた。一見ただの瓶に見えるが、何か不思議なマホウがかけられているのだろうか。
「これの事かい。魔法瓶はねえ、中の温度を一定に保つことができるんだよ。昔の人には、それが魔法みたいに思えたんだろうね。それだから、魔法瓶と呼ばれているのさ」
母は赤い魔法瓶を撫でながら、ヨネリに話して聞かせた。ヨネリはなーんだ、とつまらなそうにパンを齧る。魔法って、案外つまんないものなんだな。ヨネリは胡乱な目で魔法瓶を見つめた。昨日、寝る前に読んだ児童書に書かれていた魔法は、あんなにもわくわくするものだったのに。赤い魔法瓶には、やっぱり魔法なんてかけられていないように思える。ヨネリは、人差し指でこつんと魔法瓶をつっついてみた。魔法瓶からは小気味の良い音が僅かに返ってくるだけで、ヨネリの期待には応えてくれない。
くすくすと笑う母をむっと睨んで、口の中に残ったパンくずを、ヨネリはまだ温かいスープで喉の奥に流し込んだ。そうして中身を飲み終えたスープボウルを、机にことりと置く。温かいスープを飲んだ後は、身体がぽかぽかする。そしてなんだか、幸せな気持ちになるのだ。先ほどの母の言葉を思い出し、ヨネリはもう一度赤い魔法瓶を見た。このスープの温かさをいつまでも保ち続ける事ができるのなら、それもマホウなのかも。
ごちそうさまでした、と二人で手を合わせて、食器を乗せたトレーをキッチンへ運ぶ。流し台に食器を置くと、ヨネリは台の上に乗って、食器を洗う母の手伝いを始めた。キッチンからは、仲良く談笑する親子の声と、食器を洗う水の音が聞こえてくる。そんな幸せな様子を、赤い魔法瓶は静かに見守っていた。
天が見下ろす地上の中心で、俺は泥水に這い蹲った。神のふりをした傍観者どもから、嘲笑と罵声が降り注ぐ。此処は今、地獄と然程違わない事だろう。握り締めた拳の上に、己の額から流れた血と、冷たい水滴が滴り落ちた。前回までの、俺に向けた称賛の声など聞こえない。俺に向けられたのは、醜い不浄の念から造られた言葉の刃だ。やがて、流れた血液の赤は、泥に混じりどす黒く変色する。今、この円く囲まれた透明な檻の中に居るのは、圧倒的な勝者と、惨めにも膝をついた敗者だけだった。その様式だけは、従来のそれと変わりないというのに。
”勝者”が天に拳を掲げる。その途端、傍観者共は水を打ったように静まり返る。コロシアムに降り続く冷たい雨は勢いを落とし、分厚い雲間から、太陽が顔を覗かせた。嗚呼、天すら奴に味方するというのか。場内は掌を返したかの様に”勝者”に礼賛の言葉を贈る。俺の居場所は、もう此処には無い事をまざまざと思い知らされた。
コロシアムを去る間際、一等下の剣闘士が俺を見ていた。奴の表情が示していたのは、決して生温い感情などでは無かった。それは、"嘲り"だ。奴は、俺を嘲り笑っていた。不意に、俺は頭から水を被せられたかのような錯覚に陥った。今まで靄のかかっていた視界の端が、一気に輪郭を帯びて鮮明に映り込む。全てだ。全てが俺を嘲っていた。年下の若い剣闘士に負けた、惨めな負け犬!先程までの罵声が盛りのついた犬の如く、轟々と囃し立てられる。俺は、何か一つでも言い返してやろうと口を開いたが、俺の喉はまるで張り付いてしまったかの様に、一向に声は出て来そうになかった。奴等の顔がぐにゃりと、俺が昔惨めに負かした剣闘士共の面に変わる。これが、敗者への罰なのか?あの日、俺の前に伏した弱小な敗者共へ投げた軽蔑の念が、今は俺に向けられている。俺は、いつからあいつらと同じ畜生に落ちぶれた?延々待てど、答えは出なかった。否、答えられなかったというのが正しいのか。ただ、一つ。理解できた事があるとするならば。俺に残ったのは決定的な敗北のみという事だった。
俺は、看守共に連れられ寝床に戻った。大人しく俺が牢に戻ったのを見て、看守共は満足そうに去っていく。俺を入れた牢の鍵が壊れている事に気付かずに。看守の気配が消えた頃を見計らって、俺は静かに鉄の扉を開ける。目指すのは、二つ隣の古い牢。今は使われていないそこは、かつて俺に学を教えた剣闘士の寝床だった。錆びた扉を開けて、奥に伸びている一枚の襤褸きれを退かす。その下には、人一人は通れそうな狭い穴が開いていた。俺は躊躇無くその穴に身体を滑り込ませ、穴の壁に手をついて前へと進む。しばらく進んだ先に小さな水の流れる音が聞こえ、己の拳で脆い土壁を崩した。どうやら其処は街の地下水路のようだった。
足場を伝い、梯子を登る。そして、俺は地上の土に手を掛けて、地下から這い上がった。己の頭上に目をやると、辺りはとっくに黒い闇に包まれていた。その闇の中で、半月が微かに煌めいたのを見届けた。
『八十年振り 巨大彗星、地球に接近か』————
新聞の一面を飾る記事に、俺の目は釘付けになった。今朝、隣の席の三村が何時になく頬を紅潮させて、天体の話を聞かせてきた事が頭によぎる。ははん、なるほどな。コレがやって来るからか。記事を斜め読みしていくと、どうやら明日の夜にみることが出来るらしい。俺の心は何時になく浮き立った。
翌日の朝。予鈴に間に合うように教室に滑り込むと、クラス内は巨大彗星の話で持ちきりだった。天文部の三村は流行り好きの女子たちに囲まれて、デレデレと相合を崩している。アイツの長ったらしいうんちくも、今なら聞いてもらえるのかもしれない。いや、もらえないだろうな。
自分の席にどかりと座り、俺はポケットからカンニングシートにも似た、小さく折り畳まれた紙を引っ張り出した。他人に見られないよう、机の下でこそこそと紙を広げる。そこには、『秘密の計画 ナンバーワン』と大きく雑に書かれた文字が踊っている。下には細かい手順が載せられており、今日の計画についての詳細が書かれていた。ここら一帯で背の高く、天体観測に好条件の建物は少ない。ならば、学校の屋上に忍び込んでしまおうと俺は足りないアタマで考えたのだ。改めて、この計画にざっと目を通す。何だか、小学生の頃にタイムスリップしたみたいで非常に胸が高鳴った。昨日、夜遅くまで書き連ねた甲斐がある。どこを取っても申し分の無い、カンペキな計画……。自慢の計画書を眺めて、俺は満足気にニヤリとほくそ笑む。
決行は、今夜だ。
――そう、思っていたのだが。俺は今、自宅の寝室で休息を余儀なく取らされている。何故ならば、あの後、興奮して学校の階段で思いっきり足を踏み外してしまったからだ。ずいぶん派手に転がり落ちて、足と胴を痛めた俺は動くこともままならず、こうしてベッドの上に縛り付けられている。言わずもがな、この状態では巨大彗星なんて見る事は愚か、外出なんてもっての外だ。渾身の計画が水の泡になっていくのを肌で感じ、俺は深い溜息を吐いた。
中々寝付くことが出来ず、カチカチと時を刻む時計をじっと見つめていた。一際大きな音を発した時計の針は、とうとう九時を回る。そろそろ、彗星が見える頃だろうか。部屋に取り付けられた窓からは、彗星はおろか、その尾すら見えそうにない。次に巨大彗星が接近するのは、およそ八十年後。その頃、自分はまだ生きているのだろうか。すっと冷たい感覚が身体に染み渡り、俺は思わず唇を噛んだ。
やはり、このままじっとしていることは俺には出来ない。おもむろに壁に掛けられた制服に手を伸ばす。制服のポケットに手を突っ込み、癖のついた計画書を引っ張り出した。紙を破らないように、折り畳まれたそれを机の上に広げる。悲鳴を上げる足を無視して、寝台から身体を乗り出し、裏面に言葉を綴った。それはまるで手紙の様でもあり、願い事とも取れる内容だ。いつもの俺ならば、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすような文。俺は、擦り切れたその紙切れを、無事であった手で空の宅急便の形に仕上げていった。そうして出来上がったのは、酷く不恰好な紙飛行機。決してカッコイイとは言えないが、黒く掠れた筆跡も、深くついた折り目も、この紙飛行機だけの勲章だ。
ベッドの上に膝をつき、窓から漏れる僅かな星明かりに、世界で一つだけの紙飛行機をかざす。ここから彗星は見えないが、きっと届くだろう。俺は小さく音を立てて、窓を開けた。夜の冷たい空気が、部屋の中に流れ込んでくる。手紙の出発地点にはぴったりの場所だろう。右手に持った紙飛行機を、夜風に乗せてぐっと押し出す。
彗星への手紙は、たった今宇宙に向けて飛び立った。
傘の小窓から、雨に染まった街を眺めた。
水で出来た礫がぴんと張られた生地の上で跳ねる。
テレビの中から聞こえる万雷の拍手のごとく
雨は弾けるような音を奏でて
音もなく流れ落ちた。
これは誰に向かっての賛美だ?
声の形になり損ねた白い息は
冷たい空気の中へと
一つ、静かに溶け込んだ。
あなたの言葉を、私はまだ憶えているの。
静かに腰を下ろした電車の座席。朝焼けの色がやけに朱く視界に映る。その光景はまるで夕焼けの様にも見える。ただ、日の居場所が違うだけ。淡い日の光に薬指をかざすと、指輪の縁が小さな星の様に、白く輝いた。
やがて扉が閉まり、私を乗せて電車は動き出す。中々返信の来ない携帯を触るのは気が引けて、窓の外を窺った。私を乗せた電車は進んでいるというのに、空は動かない。じっと、ただ立ち止まってそこにいる。まるで、夜を待っているかのように。私は、指輪にそっと手を触れた。あの人と私を繋ぐ、確かな形が指を通して伝わってくる。あと、一年。地平線の向こうのあの人を想って、片方の手のひらで包み込む。縁に彫られた二人のイニシャルに、指を這わせて。
アナウンスが車両内に響き渡る。いつもの駅に着いたようだ。まだ目が覚めない太陽の代わりに、白い月が空に昇っていた。夜の時の様な輝きも持たない、ただの白い岩の塊。けれど、違う様で、同じ月な事に変わりはない。不意に、あの人の笑顔が脳裏にちらついた。あの人と私の形も、学生の時とは変わったのだろう。だけど、変わらないものだって、私達の間には存在する。その事に気づかせてくれたのは、他でもないあの人の言葉だった。髪もボサボサで、ちっとも格好なんてついていなかったけれど。でも、来てくれた。逢って、私がずっと欲しかった言葉を私にくれた。互いの想いが、漸く通じ合った。その時の私は、世界で一番幸福だったに違いない。空っぽだった私の心は、確かにその言葉で満たされたのだから。
随分と長く待たされたけれど、これからその空白をゆっくりと埋めていこう。顔にかかった後れ毛を、耳に掛ける。地平線の向こうの小さな星の持ち主に、笑みを一つ残して歩き出した。
これからも変わる事のない、たった一つの想いを胸に抱いて。