天が見下ろす地上の中心で、俺は泥水に這い蹲った。神のふりをした傍観者どもから、嘲笑と罵声が降り注ぐ。此処は今、地獄と然程違わない事だろう。握り締めた拳の上に、己の額から流れた血と、冷たい水滴が滴り落ちた。前回までの、俺に向けた称賛の声など聞こえない。俺に向けられたのは、醜い不浄の念から造られた言葉の刃だ。やがて、流れた血液の赤は、泥に混じりどす黒く変色する。今、この円く囲まれた透明な檻の中に居るのは、圧倒的な勝者と、惨めにも膝をついた敗者だけだった。その様式だけは、従来のそれと変わりないというのに。
”勝者”が天に拳を掲げる。その途端、傍観者共は水を打ったように静まり返る。コロシアムに降り続く冷たい雨は勢いを落とし、分厚い雲間から、太陽が顔を覗かせた。嗚呼、天すら奴に味方するというのか。場内は掌を返したかの様に”勝者”に礼賛の言葉を贈る。俺の居場所は、もう此処には無い事をまざまざと思い知らされた。
コロシアムを去る間際、一等下の剣闘士が俺を見ていた。奴の表情が示していたのは、決して生温い感情などでは無かった。それは、"嘲り"だ。奴は、俺を嘲り笑っていた。不意に、俺は頭から水を被せられたかのような錯覚に陥った。今まで靄のかかっていた視界の端が、一気に輪郭を帯びて鮮明に映り込む。全てだ。全てが俺を嘲っていた。年下の若い剣闘士に負けた、惨めな負け犬!先程までの罵声が盛りのついた犬の如く、轟々と囃し立てられる。俺は、何か一つでも言い返してやろうと口を開いたが、俺の喉はまるで張り付いてしまったかの様に、一向に声は出て来そうになかった。奴等の顔がぐにゃりと、俺が昔惨めに負かした剣闘士共の面に変わる。これが、敗者への罰なのか?あの日、俺の前に伏した弱小な敗者共へ投げた軽蔑の念が、今は俺に向けられている。俺は、いつからあいつらと同じ畜生に落ちぶれた?延々待てど、答えは出なかった。否、答えられなかったというのが正しいのか。ただ、一つ。理解できた事があるとするならば。俺に残ったのは決定的な敗北のみという事だった。
俺は、看守共に連れられ寝床に戻った。大人しく俺が牢に戻ったのを見て、看守共は満足そうに去っていく。俺を入れた牢の鍵が壊れている事に気付かずに。看守の気配が消えた頃を見計らって、俺は静かに鉄の扉を開ける。目指すのは、二つ隣の古い牢。今は使われていないそこは、かつて俺に学を教えた剣闘士の寝床だった。錆びた扉を開けて、奥に伸びている一枚の襤褸きれを退かす。その下には、人一人は通れそうな狭い穴が開いていた。俺は躊躇無くその穴に身体を滑り込ませ、穴の壁に手をついて前へと進む。しばらく進んだ先に小さな水の流れる音が聞こえ、己の拳で脆い土壁を崩した。どうやら其処は街の地下水路のようだった。
足場を伝い、梯子を登る。そして、俺は地上の土に手を掛けて、地下から這い上がった。己の頭上に目をやると、辺りはとっくに黒い闇に包まれていた。その闇の中で、半月が微かに煌めいたのを見届けた。
4/14/2023, 9:35:30 AM