七雪*

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9/14/2023, 1:26:29 PM

思い出の中で秒針が刻む価値を反芻して
音もなく風化していく蝉の聲を、未だ心の一室で描いている。

8/28/2023, 7:18:34 AM

 石灰色の古びた煉瓦に囲まれた厳かな空間の中で、男は独り立ち尽くしていた。否、今は少年と形容するべきだろうか。彼の姿は、遠い記憶のなかにある幼い彼自身と瓜二つなのだから。

 少年は溟い空間の中で目を醒ました。
ささくれの一つも無い足裏に伝わる感触は、硬い石畳と水の冷たさ。少年はここが現実ではないと早くも理解した。
夢であることを認識できる夢を明晰夢という。夢であるはずなのに、やけに感覚がはっきりとしているのはこれが明晰夢だからなのだろうか。少年は冷静な思考を巡らし、改めてこの空間の全貌を視界に収めた。

 落ち着いた配色に飾り気のない柱。
ここは……ああ、そうだ。教会に似ている。幼い頃に両親に連れられて訪れた町はずれの教会。内装こそ差異はあれど、満たされた空気に懐かしさを憶える。少年は風化した石の柱にそっと触れて、足元に広がる水溜りを僅かにちらつく光の源を目指して歩みを進めた。

 少年が辿り着いた先には、塗装の剥げた扉があった。
扉の隙間から光がこちら側に漏れ出ていたのだろう。少年は吸い込まれるようにドアノブに手を掛け、扉を開ける。

 溟い空間から一転、眩しいほどの太陽光が少年の瞳を眩ませる。やっと光に慣れた少年が面を上げると、目の前には色とりどりの花で埋め尽くされた花畑が一面に広がっていた。

「ここは……」

 少年の応訪を喜ぶかのごとく、ざあっと一陣の風が花畑を吹き抜ける。渦巻いた花の香りが少年の鼻腔をくすぐり、少年は郷愁の念を胸に抱いた。

「そうか……。ここは、あの子との思い出の場所だ」

少年は心の奥底にしまい込んでいた記憶を手繰り寄せて、ほう、と形にならない息を零す。いつの間にか忘れていたあの子との思い出……。少年の頬に涙がつたう。

あの子との別れ際、溶けるようなあの子の碧色の瞳に映ったかつての自分も、今のように涙を流してあの子との別れを惜しんでいた。

もう一度、あの子に会いたい。

記憶と寸分違わない鮮やかな花畑。あの日と同じ姿の自分。全てが同じはずなのに、ここにはあの子だけがいなかった。

「もう、変わってしまったんだ。……あの頃とは」

二度と戻れない光景に手を伸ばそうとして、少年は諦めたように静かに手を下ろした。涙が少年の頬をつたって、足元の花弁を濡らす。

少年の思い出の箱庭の中。幼い頃の想いを胸に抱いて、少年はやがて意識を手放した。

6/28/2023, 2:44:53 PM

 三秒前の空の色を、爪の色と喩えようか。
明日にも姿を変える空を、僕は明確な形に象って、思い出の中に付箋を貼って綴じるのだ。

 あの初夏の空はラムネの色をしていた。
茹だるような暑さの中、ただ頭の中で涼しい思い出を反芻する。冷蔵庫から取り出したかのような水滴の光る瓶を脳裏に描いて、熱った手で自販機のボタンを押す。ピッと聞き慣れた電子音を鳴らし、自販機は目当ての飲み物を吐き出した。手を伸ばして容器を掴むと、ひんやりとした感覚が手のひらを伝い、身体を蝕む熱を急激に冷ましていく。鈍い痛みにも似たそれは、夏でしか味わうことの出来ない飲料の良さの一つだ。

 残念なことがあるとすれば、この飲料がラムネではないことだろう。あいにく、今日は眩しいほどの晴天であった。

6/16/2023, 11:32:10 AM

 前の僕は、どんな人間だったかな。
アルバムを見ても、ちっとも思い出せないんだ。
僕の中には、前の僕の記憶がちゃんと残っているのに。

 ねえ、テセウスの船を知っている?
ある物の全てのパーツを新しいものと取り換えたら、はたしてそれは以前の物と同一物なのか、って質問のこと。
人間の細胞もね、七年も経てば全部新しいものに変わっちゃうんだって。

 それって、なんだか寂しくなるね。
だって、僕の知らないところで、僕は僕を失っちゃうんだ。
酷い話だと思わない?前の僕が知ったら、何て言ったのかな。

 僕はさ、僕が生まれることを、前の僕に望まれてたかな?
僕という人間は一人きりで、"産まれる"のも一度きり。
これからも、僕が新しく産まれることなんてない。

 だけどね……、僕は生まれたんだ。他でも無い、前の僕によって。
 ね、ほら。考えてみてよ。僕という存在は今も"僕"によって造り替えられているんだよ。それはね、これからもずっとずぅっと、僕という人間が生き絶えるまで続いていくんだ。

 "僕"のテセウスの船の答え。これは、"継承"だよ。僕を、次の僕へと繋いでいく、成長という名前の継承。


 さあ、一年後の僕に、"僕"の答えを届けよう。
 

6/1/2023, 9:21:07 AM

 燦々と日の照りつけるコンクリートの上に、水滴がぽたりと落ちて小さな染みを作る。少年は右手の指で掴んだアイスバーの棒を日陰に寄せて、木の椅子の上に座り日に焼けた脚をぶらぶらとばたつかせた。まだ夏ではないらしい。日除けの下から緑と青の景色を臨むと、喧しい蝉の代わりに、粒のような虫の声がか細く空に飽和する。熱に溺れ、溶けかけたアイスバーを勢いよく頬張ると、少年は日陰からコンクリートの道のど真ん中へと飛び出して行った。

 虫たちの音の群れを凌いで、からんと乾いた音が鳴る。錆びた屑籠の中で、無地の木の棒が弧を描くように踊った。


「やあ、少年。今日もイタズラか?」
 少々草臥れた店の前。少年が店の中を覗くと、後ろで黒髪を一つに纏めた少女が顔を出す。少年を揶揄うように、にししと笑う少女の瞳の中には、年相応の茶目っ気が見て取れた。
「ちげーよ。ばーちゃんの手伝いだっての。ほら、いつものミカン。さっさとしろよ」
「まー、随分と口が悪くなったもんだねぇ。お姉ちゃんは悲しいよ」
「三つしか変わんねぇだろ。いい加減その話し方やめろよ」
「もう、可愛くないったらありゃしない。はい、これミカン。おばあちゃんによろしく言っといて。あ、振り回して持って行っちゃダメだからねー」
 少年と軽口を叩きながらも、少女は小慣れた手つきでミカンを袋に詰めていく。袋から取り出したお金をバラバラとトレーの上に乗せた少年の前に、ミカンの入った袋を突きつけて、少女はにこりと笑った。
「んなことするわけねーだろ」
「石を投げて障子を破ったやつがよく言うねぇ」
「……あれはわざとじゃねーし」
 少女の言葉に、少年は少々言い淀みながら言葉を返す。
あれは、言うなれば事故だ。ばーちゃんの家に草履を盗みにやって来たイタズラ猫を追い払うために、思いっきり投げた石。それが、偶然障子を貫いてしまったのである。あの後散々怒られた少年にとって、この出来事は早々に忘れたいものであった。
「ま、早いとこおばあちゃんのとこに帰ってあげな。あと、これはお姉ちゃんからのプレゼント」
 少女は透明な瓶の中から一つ飴を掴み出し、少年の手に握らせた。少年の掌の上でころんと転がるそれは、ビニールの包装に包まれた、檸檬味の飴であった。

 さー帰った帰ったと少女に背を押され、少年は帰途に着いていた。まだ落ちない日の光を全身に浴びて、少年は歩を進める。むんむんと身体に纏わりつく熱気は、左手にかかったミカンの重みも加わって、夏をより気怠いものへと昇華させていた。アイスバーの冷たさが恋しくなって、少年は右ポケットへと手を突っ込む。取り出したのは、先程貰った飴。ミカンの入った袋を抱え直すと、少年は器用に包装を剥いて水分を欲する口内に、黄色の飴を放り込んだ。

 甘い檸檬の味が、初夏の空に広がった。

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