石灰色の古びた煉瓦に囲まれた厳かな空間の中で、男は独り立ち尽くしていた。否、今は少年と形容するべきだろうか。彼の姿は、遠い記憶のなかにある幼い彼自身と瓜二つなのだから。
少年は溟い空間の中で目を醒ました。
ささくれの一つも無い足裏に伝わる感触は、硬い石畳と水の冷たさ。少年はここが現実ではないと早くも理解した。
夢であることを認識できる夢を明晰夢という。夢であるはずなのに、やけに感覚がはっきりとしているのはこれが明晰夢だからなのだろうか。少年は冷静な思考を巡らし、改めてこの空間の全貌を視界に収めた。
落ち着いた配色に飾り気のない柱。
ここは……ああ、そうだ。教会に似ている。幼い頃に両親に連れられて訪れた町はずれの教会。内装こそ差異はあれど、満たされた空気に懐かしさを憶える。少年は風化した石の柱にそっと触れて、足元に広がる水溜りを僅かにちらつく光の源を目指して歩みを進めた。
少年が辿り着いた先には、塗装の剥げた扉があった。
扉の隙間から光がこちら側に漏れ出ていたのだろう。少年は吸い込まれるようにドアノブに手を掛け、扉を開ける。
溟い空間から一転、眩しいほどの太陽光が少年の瞳を眩ませる。やっと光に慣れた少年が面を上げると、目の前には色とりどりの花で埋め尽くされた花畑が一面に広がっていた。
「ここは……」
少年の応訪を喜ぶかのごとく、ざあっと一陣の風が花畑を吹き抜ける。渦巻いた花の香りが少年の鼻腔をくすぐり、少年は郷愁の念を胸に抱いた。
「そうか……。ここは、あの子との思い出の場所だ」
少年は心の奥底にしまい込んでいた記憶を手繰り寄せて、ほう、と形にならない息を零す。いつの間にか忘れていたあの子との思い出……。少年の頬に涙がつたう。
あの子との別れ際、溶けるようなあの子の碧色の瞳に映ったかつての自分も、今のように涙を流してあの子との別れを惜しんでいた。
もう一度、あの子に会いたい。
記憶と寸分違わない鮮やかな花畑。あの日と同じ姿の自分。全てが同じはずなのに、ここにはあの子だけがいなかった。
「もう、変わってしまったんだ。……あの頃とは」
二度と戻れない光景に手を伸ばそうとして、少年は諦めたように静かに手を下ろした。涙が少年の頬をつたって、足元の花弁を濡らす。
少年の思い出の箱庭の中。幼い頃の想いを胸に抱いて、少年はやがて意識を手放した。
8/28/2023, 7:18:34 AM