七雪*

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6/1/2023, 9:21:07 AM

 燦々と日の照りつけるコンクリートの上に、水滴がぽたりと落ちて小さな染みを作る。少年は右手の指で掴んだアイスバーの棒を日陰に寄せて、木の椅子の上に座り日に焼けた脚をぶらぶらとばたつかせた。まだ夏ではないらしい。日除けの下から緑と青の景色を臨むと、喧しい蝉の代わりに、粒のような虫の声がか細く空に飽和する。熱に溺れ、溶けかけたアイスバーを勢いよく頬張ると、少年は日陰からコンクリートの道のど真ん中へと飛び出して行った。

 虫たちの音の群れを凌いで、からんと乾いた音が鳴る。錆びた屑籠の中で、無地の木の棒が弧を描くように踊った。


「やあ、少年。今日もイタズラか?」
 少々草臥れた店の前。少年が店の中を覗くと、後ろで黒髪を一つに纏めた少女が顔を出す。少年を揶揄うように、にししと笑う少女の瞳の中には、年相応の茶目っ気が見て取れた。
「ちげーよ。ばーちゃんの手伝いだっての。ほら、いつものミカン。さっさとしろよ」
「まー、随分と口が悪くなったもんだねぇ。お姉ちゃんは悲しいよ」
「三つしか変わんねぇだろ。いい加減その話し方やめろよ」
「もう、可愛くないったらありゃしない。はい、これミカン。おばあちゃんによろしく言っといて。あ、振り回して持って行っちゃダメだからねー」
 少年と軽口を叩きながらも、少女は小慣れた手つきでミカンを袋に詰めていく。袋から取り出したお金をバラバラとトレーの上に乗せた少年の前に、ミカンの入った袋を突きつけて、少女はにこりと笑った。
「んなことするわけねーだろ」
「石を投げて障子を破ったやつがよく言うねぇ」
「……あれはわざとじゃねーし」
 少女の言葉に、少年は少々言い淀みながら言葉を返す。
あれは、言うなれば事故だ。ばーちゃんの家に草履を盗みにやって来たイタズラ猫を追い払うために、思いっきり投げた石。それが、偶然障子を貫いてしまったのである。あの後散々怒られた少年にとって、この出来事は早々に忘れたいものであった。
「ま、早いとこおばあちゃんのとこに帰ってあげな。あと、これはお姉ちゃんからのプレゼント」
 少女は透明な瓶の中から一つ飴を掴み出し、少年の手に握らせた。少年の掌の上でころんと転がるそれは、ビニールの包装に包まれた、檸檬味の飴であった。

 さー帰った帰ったと少女に背を押され、少年は帰途に着いていた。まだ落ちない日の光を全身に浴びて、少年は歩を進める。むんむんと身体に纏わりつく熱気は、左手にかかったミカンの重みも加わって、夏をより気怠いものへと昇華させていた。アイスバーの冷たさが恋しくなって、少年は右ポケットへと手を突っ込む。取り出したのは、先程貰った飴。ミカンの入った袋を抱え直すと、少年は器用に包装を剥いて水分を欲する口内に、黄色の飴を放り込んだ。

 甘い檸檬の味が、初夏の空に広がった。

5/19/2023, 2:03:25 PM

 かがみの裏側の世界。

 それは。僕らと同じようで異なる形を成している。
レタスとキャベツ、小松菜とほうれん草。同じ色に似た形。けれども、決して同一にはならないのだ。レタスはキャベツには成れない。僕らが鏡の向こうの人間に成ることが出来ないように。

 まがいものとは何だろうか。時に、僕らはどうやってそれを区別する?僕らは日常的に信じている。鏡に映った僕も、今此処に存在する僕も、同じ「僕」という存在だと。鏡の僕は、本物の僕そのものじゃない。鏡という性質上の問題ではあるが、鏡の僕は本物の僕を歪めたものに過ぎない。

 でも、やっぱりそれも「僕」だろう?
まがいものだろうが、僕という存在の一部だ。

 異なる形を成していようと、それの本質は僕で在ることに変わりは無い。僕という人間は、鏡の向こうの僕には成れないけれど、鏡の僕もまた、僕という存在を共有する生き物だ。

 僕という存在がなくなれば、鏡の僕も息絶えてしまう。僕らは謂わば、最も身近な運命共同体なのだ。

5/16/2023, 11:39:14 AM

 朝が来ると、夜はいなくなっていた。
それは、足音も立てずに去っていった。朝は、鳥の声に急かされてやってくるというのに。色素の薄い青の上に星は見えない。月はまだいるだろうか。窓を開けて、早朝の空を仰ぐ。哀を溶かした藍染の空は、澄んだ色に変わっていた。風に吹かれて届いた朝の匂いが鼻腔を擽る。自然と心は凪いでいた。昨日の僕が眠ってしまう前に、夜の下で感じたツンとした感覚は朝に掻き消されてしまった。夜におやすみを告げて、朝に挨拶をする。そして、今日の僕によろしく、と。

5/15/2023, 12:11:13 PM

 君って枠に当てはまる?

自分の一部を切り取って、既存の仲間に入れようとしてたり。

最近のニュースのトレンドにもならない?

それはそうかも。

いつから自分って探すものになっちゃったんだろう。

君は知ってる?

探すってことはさ、もう在るってことだよね。

君はたくさんある? 君の「答え」ってなんだろう。

正しさって、それにあるのかな。

僕? 僕はね、自分のことは探さない。

見つけてるって意味じゃないよ。

まだ、創ってる途中なんだ。

5/11/2023, 10:08:17 AM


 その日、蝶が春の空を泳ぐのを僕は窓越しに眺めていた。

 すっかり見慣れた病室の白。それはあまりにも潔癖で、自分が異質な黒い染みの様に感じた事を覚えている。あれから何日が過ぎたのだろう。僕の足は未だに動かないし、意識ははっきりとしているというのに、声は形を作らない。病室を忙しなく動き回る看護師さんを見て、自分は何処か別の世界に迷い込んでしまったのかと錯覚してしまう。今日はいい天気ですよ、と厚めのカーテンが開かれた窓の外には、陽の光をいっぱいに浴びた黄緑色の木の葉たちが、ぐんと背を伸ばして風に身を揺られている。チチチ……と鳥の囀りが聞こえ、僕は猛烈に外が恋しくなって……、されども、動かない身体に絶望した。

 何とか動く首を窓の方にもたげて外を覗く。すぅっと窓の外をよぎった白に、僕ははっと目を見開いた。それは、蝶だった。僕を包む白い空間よりも、幾分か自然に塗れた白色。春の空を泳ぐ名も白い蝶……あれは、モンシロチョウだ。蝶は白い羽根をちらちらと羽ばたかせ、窓の近くを舞っていた。窓からは花の一輪も見えない。自由なのに、何処か縛られた様な蝶を見て、僕は何とも言えない思いを胸に抱いた。

 迷い込んだ蝶は、しばらく病室の窓の外を円を描くように飛ぶと、やがて陽に向かって飛び立っていった。窓の向こうに映るのは、水々しい葉と、青に染まった空。跡も残さなかった蝶を想って、僕は優しい日の光に身を委ねる。いつか、空の下でまた逢えるように、と願いながら。

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