海から陸に誘い、幻想的な美しい尾ひれを脚へと変えてくれた君は人魚だった。白いキメ細やかな脚は溜め息が出るほど。もともと脚だったと言われたって頷いてしまう。
見惚れてその脚に似合うと贈った靴はハイヒールだった。歩き慣れてないと俺が1番わかっているのに。立ち姿も絵になった。ただ、陸に上がって数日の君は歩くことをしたことがない。一歩踏み出すとたちまちバランスを失って地面に座り込んでしまった。靴の汚れを急いで払って、眉をハの字にして俺を見上げる。
「1人で歩くには早かったね。手を貸すかい?」
膝をつき手袋を嵌めた手を君に差し出す。乗せた手を引き寄せて立ち上がらせた。肘に掴まるように促して君の目的地まで連れていく。困り眉はそのまま、陸に来てから俺が見るのはこの顔ばかりだ。
目的地の海岸に着くと君を待っていたお友達が集まってくる。楽器のような音が聞こえるのに俺には彼らの言葉の意味を理解できない。たまに海に手を伸ばす君は声を出さない代わりに笑顔で答えていた。
君とは文化も言葉も違う。
広すぎる海の壁を越えたはずがまた新しい壁がある。歌声は聞いたことがあれど言葉を交わしたことはない。それはビンに閉じ込めて保管しておきたいほど、誰にも知られることなく独り占めにしたかった。
たぶん、おとぎ話のように声と引き替えにして脚に変えてしまったんじゃないだろうか。あの物語と違うのは君が人魚だとすでに知っていること。
友人たちと話す術を失って陸に上がった君は幸せなのか。
邪魔をしないように離れて彼らの様子を見ていると俺の足下に海水がかかる。靴は濡れずに砂浜が吸い込んでいき、君が大きく手を振って口を開いて。
「 」
『声が聞こえる。』
「…え?」
「 、 !」
たどたどしく呼んだのは俺の名前で微かに鼓膜を揺らした。嬉しそうに何度も何度も繰り返して呼んでいる。
疑問だってどうだっていい。君のもとへ急ぎ、足をとられながら砂を蹴る。
早く、傍に駆け寄って、名を呼ぶ声を一番近くで聞きたくて。
『秋恋』
「秋恋って聞くと少し寂しい感じがするかも。落ち着いて大人な恋愛かとは思うんだけど」
恋と言う単語にどきりとした。
「じゃあ夏は?」
「ザ・青春。恋愛に真っ直ぐで汗が光輝く若い恋…?」
若い恋ってなんだろう。君は自分で言っておきながら首を傾げ出して目をつぶる。
「秋空や秋雨なんてのは聞いたことあるけど、秋恋っていう単語は耳にしたことがないな。言葉遊びかい?」
「ううん、今読んでる本に秋恋って言葉が出てきたの。物語の中で詳しく説明されてなくて、少し引っ掛かっちゃって。私の中で使い方を考え中…」
最近買ったガラスペンが午後の日差しを反射してノートを色付かせている。秋とは、恋とは。連想ゲームのようにチャートが広がっていた。君の中でしっくりくるものがなかなか探せないようだった。
ガラスのペン先が別の色を吸う。紅葉色のインクで秋恋と書いて「あ」と言った。
「閃いたの?」
「なんで寂しいって思うのか分かった。夏が暑すぎて秋になったとたん急に冷え出すからだ。温度差が原因かも」
「恋が落ち着くってことかな。2人の付き合い方が板につく頃…それは穏やかなことじゃないか」
「あとは目移りしやすくなったり…」
聞き取れるギリギリの声量で言う君は何か隠し事をしているらしい。恋が云々と2人で考えていたというのに穏やかじゃなくなった。
「…へぇ。目移り?」
俺以外に?とは言わない。
「それはどこにいるんだい?」
返答次第でこの後の行動が変わるから、努めて冷静なフリをして君から情報を得よう。
「えっとね…」
ノートの後ろのページからこそりと取り出す。写真かメモか。用紙は何だって構わない問題は中身だ。紫いものケーキと南瓜のケーキがそれぞれ写っている。君が好きそうなスイーツ。
「紅葉のインク見てたら思い出して、どっちも食べてみたくてね…」
2枚のクーポン券を大事に取り出して恥ずかしそうに言う。
君って子は…!
「恋よりも食欲じゃないか」
「えへ」
俺の嫉妬は短時間で終わり、肩の力が抜けてしまう。
「頭使ったから甘いもの食べたいな」
「連れてってね」と甘えられれば君に弱い俺は快諾してしまう。俺以外、物くらいなら見逃すよ。
天気予報は晴れだった。見目の良い、青々とした笹の葉を選んで窓枠に差す。会えるだろうと胸踊らせ、お手製の短冊に願い事を書いては少ない葉っぱに吊り下げた。
夜。天気予報は真っ赤な嘘。期待していた夜空は嘘と同じくらいの厚い雲に覆われて見えそうになく、目をきらきらと輝かせることもない。湿った生ぬるい風は天気が荒れる予兆だった。天候が不安定なら船は様子を見るため進まず、港に着くはずもない。
彼に、会えない。天の川に橋がないのと同じ様に。
果てしない海を天の川に例え、小さな船を橋に見立てて。対岸で待つ私は────
「ただいま!」
湿気を吹き飛ばすカラリと明るい声が玄関に響いた。忙しない足音が近づいて
「空は見た?見てないならすぐに行こう!見ないと損だ」
興奮冷めやらぬ彼に挨拶も返せないま腕を掴まれ連れ出された。街の灯りから離れ、岬にたどり着く。じめじめした空気は変わらず、分厚い雲の中には雷雲まで混ざっている。
「変な天気だから何も見えないよ。降ってくる前に……」
「あ!」
彼が指を指す。彼の指先、1ヶ所だけ雲が切りとられたかのような、待ちわびていた沢山の星々がささやかに輝いた。握り直された手に力が入る。
「……空の2人は会えたのかな」
「あの隙を見逃すわけないさ。……会いたかったよ、俺の織姫」
眺める星空に似た、粉砂糖みたいな甘い声が波風とともに溶けていった。
天気予報の「折りたたみ傘でこと足りるでしょう」を鵜呑みに、帰ろうとしたら大雨で、傘を開けば元気がない。
支えが1ヶ所折れていた。折れた木の枝のような、布が支柱の重みでぶらりと垂れ下がる。ボタボタ打ち付ける雨粒は容赦がなくて、最短距離を伝って肩と鞄を濡らしていった。水溜まりも存外深く、靴下まで浸みだして…『最悪』だ。
君と駅で待ち合わせしているのに。詳しくは駅のホームだが。屋根はあるものの横殴りでは意味がない、濡れてなければなと思う。
もうすぐ着くと連絡を入れて、階段を上ればキョロキョロしている分かりやすい君がいた。同じく階段を上がった人たちと俺の被害は著しく違う。君は目を見開いて、俺は肩をすくめた。
「傘が壊れていてさ、最悪だよ」
君からタオルを受け取って荒っぽく拭う。カフェデートのつもりだったが足下の不快感は耐え難い。
「ごめん、俺の家でいい?コーヒーか紅茶しかだせないけど」
半乾きのまま夜風に当たると、一段と冷えて夏はまだ先なんじゃないかと疑った。
家へ帰る道中も雨は止む様子がない。君の傘も折りたたみ傘だから大人2人は少々きつくて。
「もっと寄って。これ以上濡れたら風邪引きそう。でも付きっきりで看病してもらうのも…」
寝込む俺を心配する君に好き放題わがままを言って甘えるのも悪くないんじゃ…。
「行けなかったカフェ、リベンジするんだから…風邪ひいちゃ嫌」
傘が一瞬傾いた、がすぐに直す。
君が腕に抱きついてきたから、意図しなかった重みに傾いただけ。温かさと同時に柔らかな感触も伝わってきてしまうのだが、役得ということにしておこう。
カップルのド定番という相合傘が出来たのだからそれほど『最悪』ではないかもしれない。
君の素直な感情表現は見ていて退屈したことがない。泣いたり笑ったり、自分を偽ることをあまりせず、立場上言えないこともある俺の気持ちを汲み取って代弁してくれたり救われている。
無理をしているとわかるのは君を良く観察してるからだけじゃなく顔にでているからだ。ちょっと眉を下げて笑うところは付き合ってからずっと変わってなくて。街道を散歩している今も、ほら。
「足、痛めたんだろ?見せて」
履き馴れていない靴で靴擦れしたことを隠して歩き続けようとしていた。ベンチに引き上げ患部の状態を見る。皮がめくれかけて保護するように絆創膏を貼る。
「応急措置にしかならないけど、歩きにくいならすぐ言ってくれ」
「ありがとう。何でわかったの?」
「君の専門家だからかな」
ちょっと得意気に答えたら「えぇ!?私、研究対象?」鈴のような心地よい声で笑っている。
コロコロと忙しない君の心はきっと『カラフル』なんだろう。口に含んだら七色の飴玉みたいに次々味が変わって夢中にさせるんだ。君を曇らせる出来事は極力排除するつもりでいる。