雲っこひとつない蒼天はすがすがしい。ちょっと前まで肌寒さに悩まされていたのに日差しはすっかり春になっていた。膝掛けに、毛布、冬にお世話になった暖かな布をしまうべく押し洗いをして次々と物干し竿に掛けていった。
「ハローハロー。こちら冬に大変お世話になった毛布たち、労いも込めてたくさん春の日差しを浴びせてね」
背中に降り注ぐ日を背にして誰が聞くこともない私と毛布と太陽のやり取り。強風や突風もなくそよそよと擽られるような優しい風が洗濯物にあたっていた。曇らなければ午後になる前には乾くかもしれない。
とっても洗濯日和であれもこれもとまとめて洗って干していく。掛けれる箇所は全て埋め洗濯以外にも、こんなに天気がいいのだから…何かしたい。毛布を裏返して乾き具合を確かめていると、掛けられた毛布の下に靴が覗き続いて布越しにくぐもった彼の声。
「お嬢さん、せっかくの『快晴』に俺とピクニックなんてどうだろう?サンドイッチにデザートをお持ちしました。戻る頃にはちょうどいい時間だ」
暖簾のようにめくりあげると彼がバスケットを片手に立っていた。一体どこから現れたのだろう。
「飲み物は?」
「君の好きなフルーツティーを。春の日差しの代わりに俺が労いにきたよ」
私のやり取りを盗み聞いていたらしい。ぽかぽかした日差しは好きだが形を留めることはできないし、少し切ないなとは思っていた。彼という形があってつい甘えてしまう。ピクニックから戻る頃にはちょうど取り込む時間のはず。
「春を満喫できそうな場所に案内してね」
毛布を潜り差し出された手を取ると、春の陽気みたいに彼は笑った。
随分と広い国に派遣されたんだ。熱帯雨林が広がっていたかと思えば砂漠まで、同じ国の領土だとはにわかに信じがたい。熱帯のじめじめした暑さがあったかと思えばカラカラに干からびてしまいそうな暑さの中にいる。熱気で視界はゆらりと歪み蜃気楼を初めて見た。
夕方から夜にかけて昼間の暑さ、熱波が嘘のように消え一気に冷え込み、寒々しい環境に切り替わった砂漠に驚きを隠せない。故郷の寒さに慣れていても日中は汗をかくほど暑くて、急激な気温の変化には対応しきれなかった。太陽がいかに偉大か身に沁みたよ。
遮るものがなく澄んだ夜空は壮観だ。故郷にも負けないほど星は瞬いて素晴らしい輝きを見せている。
辺り一面の砂、砂漠も空にも静寂が広がっている。君に見せたらさぞ驚くんだろうな。まだ調査段階のため連れていくことは叶わないけど。
なるだけ思いを込めて矢をつがえ弦を引く。
腕の筋肉が悲鳴をあげはじめ限界まで弓を引き絞って『遠くの空へ』。
君が眺めている暗闇を切り裂くかの如く一筋の矢を放った。君がいる街に届くわけないが届きそうな気がして。きっと流れ星だ、なんて喜ぶのかな。
指先に刷毛を載せ中央、左右に滑らせる。多すぎず少なすぎず分量の調整が難しいけどうまく塗れたと思う。1番視界に入るであろう親指がよれることなく満足のいく仕上がりになった。ネイルを塗るべき箇所はあと9本残っている。利き手は綺麗に塗れるとして何ら問題はないが、問題は利き手じゃない方。
持つ手はぷるぷるするし真っ直ぐに線をひけないのだ。かといって落として塗り直せば右手に塗ったネイルが剥げてしまうからそれは避けたい。考えあぐねていると
「俺が塗ってもいい?」
一部始終を見ていた彼がネイルの小瓶をさらっていく。青色の小瓶の中身は瓶と同じく海の色で一目惚れをして買ったもの。大好きな彼の色でもある。
真剣な眼差しが爪に注がれ、爪の先に丁寧に丁寧に青が塗られていく。自分ではなんとも思わなかったのに塗料の冷たさと刷毛の動き、『言葉にできない』くすぐったさに我慢できなくてクスクス笑ってしまった。
「くすぐったい」
「お客様、笑うとブレてしまうよ」
この感覚は後で彼にも体験してもらおうと思う。きっと彼も笑うはずで、静かな時間が過ぎていった。
「ムラなく塗れたと思うけど、どうかな?」
解放された手を広げると指先に海が。気泡だって、刷毛筋も何も見当たらない完璧な仕上がりに、彼の器用さにほぅっと息をついていた。
川沿いの桜並木は見事の一言につきる。両側に満開の桜が咲き誇り、川の表面は桜の花びらで敷き詰められていた。河川敷には桜とは別の春の花、チューリップやマーガレットが植えられて花開いている。色鮮やかながら喧嘩することがない。これが『春爛漫』と言うのだろうか。
桜吹雪が巻き起こり道行く人々の歓声は自然のショーに対して上げられて、花びらのシャワーで視界が桜色に染まっては、はらはらと揺れて落ちていった。
「思ったより風が強いけど、とっても綺麗…!」
パステルカラーのワンピースを着て俺の先を歩いていた君はくるりと振り返る。プリーツスカートが広がったかと思えば体に添って閉じてまるで花びらのようだ。
「昼間の桜もだけど、夜桜も綺麗だよ。桜を見ながら花見酒なんて風流だろうね?」
「それはぜひ飲んでおかないと勿体ないね。夜が待ちきれなくなっちゃう」
ちょっと気の早い君がまた背中を見せて「おつまみは何がいいかな」と呟き近くの桜を見上げていた。
風が一際強く、俺たちの髪を乱した。例えるならぶわわっと下から吹き上げられるような風だ。
「きゃ」
「…!」
君のワンピースは軽やかに見せてくれる反面素材が薄い。案の定スカートはふわりと翻り…かわいい悲鳴をあげて押さえていた。けど反応が遅かった。口笛を吹きそうになったのをこらえる。
「み、見た…?」
「見て…ないよ?」
君の視線に堪えかねて明後日に目が泳いでしまう。桜と色味が合いそうな淡い水色の下着なんて断じて見ていない。ちょっと眼福だとか、風に感謝したとかは…まぁ、あるけど。俺たちの周りに人がいなくて良かったと思っている。「似合ってるよ」と口走りそうになったがそれは帰ってから伝えるとして…。
「これなら気兼ねなく歩けるかな?」
またイタズラな風に遊ばれたら大変だと、ジャケットを君の細い腰に巻き付けた。
「『誰よりも、ずっと』君を知っているよ」
「例えば?」
彼に私のことどれくらい知ってる?と尋ねてみた。ただの好奇心で客観的な事が知りたくなったのだ。自分だとあまりに思い付かなくて。
「優しくて感情移入しては泣いてしまうところ、好きな食べ物は最後まで残して俺に分けてくれるし、良いことがあると真っ先に話してくれるね。怖い時は俺の服を握ったり。そうそう、この間は俺の服を着て寝ていたっけ」
ぎくりとする。体格差がどれほどあるのかシャツを当てるだけでは実感が薄くて着てみた時のことだ。彼が泊まる用に何着か私の部屋に置いてあって取り出した。ダボダボで、着た瞬間に彼の香りに包まれて安心してしまい気が付いたらソファで寝ていた。起きたあとすぐに脱いだというのに彼は私が寝ている間にやって来て出ていったんだと知った。機嫌が良かったのはそういう…。
「爪はいつも綺麗に整えられてるね。…あ、背中のくびれ付近にホクロがあるよ。あと足の付け根にもあって、すごくセクシーだ」
私の知っている部分と知らない部分が次々出てくる。ホクロがそんな所にあったなんて知らなかった。しかもそれって彼に体の隅々まで見られているという意味で。私が知っているのは彼の項にホクロがあるというくらいなのに…
「も、もう、大丈夫…」
「それに自分から聞いたのに恥ずかしがるところに…」
「もういいってば…!」
彼の口を思いっきり抑えた。もごもご言ってる…。まだあるの?ぱっと手を離した。すると私が逃げないように力強く抱き締めた。
「っぷは…。君が思う以上に知ってるつもりだよ。自分の事が分からなくなったらいつでも聞いて。誰よりも君を見てる自信があるから」