いつの間にか桜が咲くのが早くなった。春、というには少し肌寒い夜「おつかれさまです」時間を確認し、荷物とコートを掴んで足早にオフィスを出る『もしもし、ごめん今かいしゃで、た』ほとんど無意識にかけた電話、視線を上げると同じように携帯を耳に当てた彼がいた。唐沢は小さくこちらに手を挙げ、携帯を耳から離した、同時にぷつりと通話が切れる音がする「おつかれさん」「…びっくりしたぁ。わざわざ来てくれたの?」「ちょうど、この辺に用があってね」嘘か本当かわからないけれど素直に受け取り隣に並んで歩き出す。いつものタバコの匂いに混じって香るのはこの満開の桜の匂い、上を見上げれば月明かりに照らされた桜が咲き乱れている「桜、綺麗だね」「昼間とはまた違うな、ダイナミックだ」いつもと変わらない通勤路も、特別な場所のような気さえしてくる「すこし、遠回りしようか」そう言って彼が指差すのは桜並木の歩行者専用道路、いつの間にか繋がれた腕を引かれ遊歩道へ入る「う、わぁ」さつきとは比べ物にならない満開の桜、花びらがまるで絨毯のように敷き詰められ、ここだけ異世界のような空間に思わず声が漏れる「仕事忙しくって、春がきたことも忘れてたや」「俺は君がこんなに綺麗だってこと、思い出したよ」「えっ?な、なに」急に歯の浮くようなセリフをこぼす唐沢に体温が上がる「結婚、しようか。明日も明後日も一緒にいられるように」
春爛漫
教科書に書かれた「ままならない」という表現をみて、今の自分にピッタリだと思った。そうまさに、ままならない状況が続いている「澤村、聞いてる?」「あ、あぁ、すまん」心ここに在らず、気にしているのは目の端に映る幼馴染の姿、見たことのない男子生徒と何やら話をしている「いや、どうなのかな、わかんないけど」会話の端が聞こえ、困っている様子が伺える「そこをなんとか!」「う、うーん、私そういうの苦手で」「なんの話だ」「っ、大地!」思わず間に入るも相手の男はさっきまでの笑顔は何処へやら、引き攣った頬が痙攣気味だ「俺が話し、聞こうか」「い、いや、すみません!出直します!」一目散に廊下を去っていく男に悪態をつく「出直さなくていいっつーの」「大地、顔こわいって」「助けてやったのにその言い方か?」「それは…どうもありがとう、とっても助かりました」「素直でよろしい」これまでは無意識に彼女の頭をぽん、と撫でていたのが、最近は自分がズル賢いと思うくらいには計算してやっている「なんだか急に2年生から声かけること増えたんだよね」「西谷とか田中あたりに言っておくよ」「いやいや、大丈夫!この間も縁下くんが気にして声かけてくれて、助かったんだ」伏兵は味方にあり、と言ったところか「そうか、縁下が」強かな奴め「大地が幼馴染でよかった〜」当の本人は無邪気に愛想を振り撒く達人だ。このセリフも何百回と聞いてきた、もはや傷つきもしない「俺はそろそろ幼馴染、飽きてきたけどな」「飽きるとかある…?」「はぁ…お前ってさ、本当にこういう時気が利かないよな」それはいいよ、そのままで、なんて今言うつもりもないけれど「まあ、気にしなさんな」最後は俺が全部掻っ攫うから。
誰よりも、ずっと
自販機の前で何を買おうか指を迷わせていると後ろから伸びる指がボタンを押す。がこん、という耳障りな音とともに落ちてくる飲み物は「コーラ」ため息をついてコーラを後ろ手に渡す「さんきゅ」もう一度小銭をじゃらじゃらとかき混ぜ、投入口に突っ込む「最近研究室来てないな」「あー、うん。訓練室篭りきりよ」後ろで炭酸の抜ける音がする。毎度毎度同じ飲み物を美味しそうに飲んでいるが飽きないのだろうか「え、何、もしかして新作作ってる?」「そんな楽しい仕事じゃない。遠征艇のシミュレーション」ついて出たため息に「うわ、つまんなそう」と声が重なる。どれを買うか、また指が迷い始める「雷蔵が担当してる人型ネイバー、どうなの」「いい奴だよ、楽しいし」がこん、と音がして結局同じ飲み物を手に入れる。今が何時で、どうして雷蔵がラウンジにいるのかも知らないが、まだ仕事が山ほど残っていることだけは確か。じゃあとその場を離れた後ろから名前を呼ばれ振り返る「どうせ仕事おわんないんでしょ。うちきなよ」思考は停止しているので、意味がわからなかったが雷蔵の後ろをついて歩けば彼のラボに案内される「久しぶりだ〜」例のネイバーはというと、今は起動停止しているようでオブジェクトのようになっている。適当に座れば「いっつもそこ、座るよね」「そうだっけ?」「どうする、寝る?」彼の個人ラボには簡易ベッドがある、何度もお世話になっているそのスペースに視線を動かす。仕事終わってないんだよ、と頭は言っているが体は限界だ「仕事…」「はあ…とりあえず寝な」なんでため息をつかれたのか、いつもなら悪態をつくところだが、脳はしんでいる。促されるままベッドに吸い込まれ、沈む体と意識の向こうで雷蔵にお礼を言っておく「俺が見てないと全然だめじゃん。そばに置いておくから」遠くの方に聞こえたセリフが夢じゃなかったと気づくのは、また明日の話。
これからも、ずっと
よし、小さく呟いた声は誰にも聞こえない。立ち上がって向かうのは彼女のもと、今日こそは「おーい、いる?」そろりと開けた扉から窺うように部屋に入る。声に気づいた彼女は顔をあげ、おつかれ、とひとこと「忙しい?」「ん?いや、もう帰ろうとしてたところ」制服に着替えた彼女の手元には部誌「あ、もしかして最後?ごめん」閉めなきゃだもんね、と慌てて片付けを始めるので「あ、いや、ゆっくりでいい」彼女の近くまで駆け寄る。制汗剤の香りは俺たちのものと違い、フルーツのような甘い匂い「スガと澤村は?」「あ、もう帰ったよ」先に帰れと言ったのは俺だけど、とは言わず、確かにいつも一緒に帰っているから聞かれるのは当たり前だろう。変に思われるかも、と苦笑いが溢れる「残り、東峰だけ?みんな今日早くない?」「そんな日もあるよ」あんなに意気込んだ割に全然きっかけが掴めなくて、いつも以上に会話がぎこちない気もする。大地の呆れた声が聞こえる気もする「東峰、鍵取って欲しい」「あ、あぁ、悪い」手慣れた様子で体育館を閉める作業を進める。大きな体育館にはたった二人「ねーえ、東峰!これ、誰のだろう」「西谷のタオルだな」「はあ、洗ってやるか」「いや、待って」当たり前のように自分のバッグに西谷のタオルを突っ込む彼女の手を思わず掴む。目を丸くした彼女に、自分がしでかしたことに気づき次の言葉に詰まる「ど、したの」「あ、のさ…ちょっと嫌だなって」思わず彼女から視線を外し、掴んだままの腕も離すタイミングを見失う「東峰…?」こちらを覗き込む彼女の視線にひとつ呼吸を整える「好きな子が別の男子の私物持って帰るの、嫌だなって」「え、と」「急にごめん。好き、なんだ」まっすぐに見つめる俺の瞳に応えるように頷いた彼女の顔も真っ赤で、夢みたいだと呟いた。
君の目を見つめると
新しい靴を下ろしたのに雨が降ったり、好きな人にすでに相手がいたり、それを全て運が悪いと言っていたけど、どうやら本当についていない人間なのだと実感する「大丈夫です、なんとかします」切れた電話にため息をつく。なんとか、って、何よ。ため息ひとつ、夜空に消えていく「どうしようか」「さすがだね」見知らぬ土地で聞き慣れた声、驚いて振り向けばやあ、と片手を上げる影「なんで」ここに、までは言えず、近づいた彼は相変わらずのスーツに身を包み、笑顔を浮かべている「なんとなく、嫌な予感がして」「そんな理由で来る場所じゃないのよ」「でもホッとしただろ」「さすがだね」さっきの彼と同じように笑って見せる「お腹空かない?」遠くに見える灯りを指差し歩き始める。隣に並ぶ彼からいつものタバコの香りが鼻を掠める「どうしてここがわかったの」「俺は君のスーパーマンだろ」そうだ、どうしようもなくなったときは、颯爽と現れて私を助けてくれる「私ってラッキーな人間かも」「え?」独り言のように呟いた言葉に自分で笑ってしまう「ビール飲んでもいい?」「ダメなんて言ったことあるかい」「いいよ、って言わせたいの」「もちろん、いいよ」その腕に自然と絡まることだって、今日は許して。
星空の下で