諦めとか妥協とか、全部引っくるめてハハ、という声になって消えた。カラカラと開いた扉の奥から「もう閉店だぞー」という声がして、金色の頭が顔を出す「って、なんだお前か。どうした、こんな時間に」烏養は私を見てそのままレジまで降りてきた「ごめん、お店終わってんのに」「それはいいけどよ、まあ座れ」きっと何か察してくれた烏養が店の椅子に腰掛ける。「いいか」とタバコを取り出すので、小さく頷く。カチ、とライターの音と葉が燃えるチリ、という音だけが店中にこだまする「浮気されてた」ああ、もう涙は枯れたと思っていたのに、言葉にすると溢れてくる。零れてしまわないように息を止めたのに、パタパタと大粒の雨が降る。目に止まるのは自分の薬指に光る約束の証、世界で1番幸せだったのに「相手の子、妊娠してるの」烏養はどんな顔をしてるんだろう、止まらない涙を見られたくなくて、顔を上げられない「別れよう、だって。申し訳ない、だって」ロボットみたいに、あたえられた言葉だったみたいにツラツラと話せるのに、息ができないくらい苦しくなっていく「えーほんと、だっさいんだけどー」ほらまた笑えてくる。烏養は黙ったまま、鼻を掠めるタバコの匂いが妙にホッとする「まだあんだろ」俯いた頭がグッと押し込まれ、わしゃわしゃとかき混ぜられる。堰を切ったように溢れ始める、全部全部全部「おーし、泣け泣け、全部吐き出せ」
もう未練なんてないと思っていたのに、そんな顔をするな。今度はお前を攫う覚悟ができてしまう。でも今は。
それでいい
好きとか嫌いとか聞かれてもわからない。どうしてそんなにまっすぐな目で好きだなんて言えるんだろう「嫌いもひっくるめて好きだから」まるで私の心の中を読んだみたいに彼のセリフは続く「あのさ、」「好きかわかんない、とか言わないでよ」「言わせてよ」エスパーみたいなこの男のこの性格だって、知らないわけじゃない。外で降る雨の音が強くなる。雨を背景にオレンジジュースをストローで飲む180超えの高校生男子を独り占めできる贅沢も分かっている「彼氏、いないって言ってたよね」「じゃあ付き合う、は違うじゃん」「それはね」わかりやすくため息をついてみたものの、変わらない表情でストローを咥えている「俺にかわいい彼女ができたら嫌じゃないわけ?」「それは」「毎日惚気て紹介なんかしちゃってさ」「なんで私と毎日会う想定なのよ」「好きだから毎日会いたいに決まってんじゃん」彼女の話はどこにいってしまったのか、会話にならない会話に今度は無意識にため息が出る「好きとか嫌いで括れないわけ。英のことをそういう風に考えたことない」もう10年以上一緒にいて、急に好きと嫌いなんて言葉で片付くわけない。もっと複雑で、難解で、ぴったりな言葉が浮かばない「でも、英とずっとこうして一緒にいたいな、と思うよ」歳を重ねて、いつの間にか私の背なんて追い越して、子どもっぽいところは変わらないけどたまに見せる男らしい表情にドキッとした日だってある「ちょっと待ってよ、散々焦らして告白返し?」珍しく顔を赤くしている英に余裕そうに笑ってみせる「好き嫌いなんてとっくに超えてるんだよ」
1つだけ
『私の宝物』という文字を指でなぞる。当時の自分のことなんて覚えていない、いったい何を書いたんだろうと次のページを捲る「猫って…」「ん、どうしたの?」呆れたように笑えば、隣の彼女が時枝の手元を覗き込む。歪な字で『ネコ』と書かれた横に、猫らしきイラストが並ぶ。きっと自分が描いたものだ「この時から猫、好きだったんだ」彼女の傍らにはアーサーととみおが気持ちよさそうに丸くなっている。いつの間にか俺よりも彼女に懐いてしまった「私の知らない充を知ってるなんてずるいぞ」呑気に眠るアーサーに恨めしい視線を送る彼女に頬が緩む「すっかり俺より君の隣が心地良いみたいだね」「でも充がいない時はベランダに向かってよく鳴いてるよ」先のベランダを指差して、その光景を思い出すように微笑む彼女の視線を追う「さてと、あともう少しだね、頑張ろっか」二匹の猫に気を遣いながら彼女が立ちあがろうとするので、もう少し、とその肩に頭を寄せる「珍しい」「俺も甘えたくなることくらいあるんだよ」春の日差しがカーテンの隙間から覗く昼下がり、小さなあくびがついて出る。つられるように彼女も口を開け、お昼寝しちゃいそう、と呟く「私の宝物はね、充とアーサーととみおとの、この毎日かな」「先に言っちゃうなんてずるいなぁ」ちょっとだけ、と目を瞑れば瞼の向こうに幸せの色が見えた。
大切なもの
今日ってエイプリルフールじゃん、とクラスの誰かが言った。嘘をつくなんて滅多にしないし、じゃあ今日この日に嘘をつきますか、と言ったら乗り気はしない。嘘をつくこと自体が人を傷つけるのに、さらにそれを笑いに昇華させる高等技術は持ち合わせていない。何よりそういう『キャラ』じゃない。「真剣に何考えてんの?」頭の上から声がするので思わず顔を上げればよく見知った顔。「いや、特には」説明も面倒で濁した回答も、彼女は気にしていないようで、片手に持ったスマートフォンをいじりながらこちらに声をかけてくる。「今日、空いてる?」「唐突だな、なんでだ?」「彼氏のふりしてほしいんだけど」スマートフォンから目を離した彼女と目が合う。何を言われたのか理解ができずに、数秒見つめ合う形になる。「やっぱ、だめ、すかね?」諦めたような乾いた笑い「奈良坂に頼むことじゃないよね、ごめん」「いいぞ」「え?う、うん…いいの?」「あぁ、今日だけか?」これはエイプリルフールだ、と頭が理解してからはスラスラと言葉が出てくる。相談をしてきた当事者の方が目を丸くしている。「ほ、ほんとに?」「なんだ、冗談だ、なんて言うのか?」あくまで真剣に、この行事に騙されて『あげる』ことくらいはできる。「あ、ありがとう!本当に助かる。塾の子に彼氏いるって嘘ついちゃって…嘘に嘘を重ね、今度連れてくことになってしまいまして。奈良坂くらいにしかお願いできなくて!」「…エイプリルフールじゃないのか」「へ?……ちがう」勘違いしていた自分に少し恥ずかしくなるのと、嘘じゃなくてもいいのなら。「ふり、でいいのか」「え」「俺はお前が彼女だといいな、と思っていたけど」「そ、それはエイプリルフール…?」首を振ってニヤリと笑う。
エイプリルフール
冷蔵庫に貼り付けられたそれを、いつの間にか意識せずとも見るようになった。最初の頃は早く返さなくてはと、気持ちばかりが焦っていたのに、今や最初からここにいたように、落ち着いてしまっている。何となく手に取ることも憚られ、あの日から随分時間が経ってしまったような気もする。「さすがに、返さんと」分厚くて存在感のあるハガキは思っていたより軽くて「当たり前やろ」あほか、と呆れたように独りごちる。裏を返せば懐かしい名前、指でなぞっても何もないのにそのざらついた感触になぜか口元が緩む「おセンチやなぁ」リビングのボールペンを手に取り、『御出席』の『御』を二重線で消し、丸をつける。「すごく嫌な女だと思ってくれてもいいから」この招待状を送った時に貰った電話を思い出す。電話口で早口気味に話す彼女の声が懐かしくて、思わず笑ってしまった。「笑ってる?」「あぁ、悪い。電話で話す時、自分いっつも早口やんな」「そんなこと覚えてなくていいのに」他愛もないどうでもいい、でも俺たちしか知らないはずのことなのに、少しだけ胸が痛んだ。「結婚するの。敏志には来てほしくって」「イケメンの元カレって紹介してくれるんか」「そういうの嫌いなの知ってるくせに」俺じゃない男と結婚するくせに、恋人同士のようなやり取りをするなよ。電話の向こうの声や二人の空気は何ひとつ変わらない気がするけれど、きっとそれも都合よく自分が思っているだけ。自分たちはもう違う道にいるんだと、踏み込めないこの上澄みを掬う会話でハッとする。「いい返事、待ってるね」耳元で鳴り続ける電子音が聞こえた気がする。メッセージ欄に何を書こうと筆を迷わせ諦める。「幸せにな」