「最悪」
それはあの人の口癖だった。息を吐くように放たれるその言葉は心を重く淀ませる。自分が悪いのだと知っている。けれど八つ当たりでもあるのだからタチが悪い。
逃れたくても逃れられない空間でまたひとつ 呪詛が生み出される。言霊なんてものが本当にあるのな,らこの場所は空気を吸うだけで即死するほど呪われていることだろう。そんな想像に小さく笑ってしまえばまた上から声が責めたる。
「本当に最悪」
こちらを睨めつけるその濁った瞳に映るのはきっとつまらない世界。空虚に捕われ何も見えない盲目。目の前にいるはずのこの姿すら見えていない。
何かに当たらなければ生きていけないのならこの人はどこまでも寂しく悲しい人だと思う。使うはずの言葉に惑わされ感情を消耗する。最良以外全て最悪などこまでも極端な思考回路。
「あなたはいつでも最悪だね」
もし最悪なんてものがあるのなら。それはきっとあなたが気づいていないこと。言ったところで変わらないなんて当然の事実を。いつまでもずっと目をそらす。
だから きっとこれも最悪で最悪じゃない出来事。だって,全部最悪ならそうじゃないのと同じ。
「さよなら」
大好きだったよ。今でも好きだよ。でもこのままじゃ何も変わらないからお別れ。
最悪ではないこの感情を表す言葉が欲しい。頬を伝う雫が風に晒され冷たくて凍えそうになるから。またね とは言えなかった。
「誰にも言えないことってある?」
「あるとは思うけれど,具体的な事言ったら破綻するんじゃない?」
小さく吐息を零して君は笑った。言われてみればそうなのだけれど,なんか妙にモヤッとした気分を感じた。特別な秘密を自分だけに教えて欲しいというわがまま。その感情を要約してしまえばそう言えた。
「それに言えないというよりは,言わないが近い」
独占欲にも似ている感情。目の前の相手の例外に 圧倒的かつ唯一の特別になりたいと願ってしまった。
口を噤むその理由すら全部さらけ出して貰えたらなんて身勝手な願い。それを見越したように細められる君の真っ直ぐな瞳。
「ああでも,他人には言わないことでも 君ならいいかな。聞きたい?」
婀娜っぽい いたずらな笑みを浮かべて視線を絡めてくる。知りたい?秘密。と囁いて近づいてゆく距離。普段と同じその近さが妙に気恥しいのはきっと君の纏うどこか甘い香りのせい。くらりと酔いそうなホワイトムスク。
声も出せずに視線もそらせずにただ黙って頷く。雰囲気にすら惑わされそうな思考回路はすでに不明瞭。
「あのね,ーーーーーー」
その先は誰にも教えない。二人だけの秘密。
「なんで恋なんだろう」
ふわりと首を傾げる君は,ひどく不可思議そうに並べられた本を見つめる。入口のすぐ側 目に入りやすいその場所には特集コーナー。
「絶対に愛じゃなくて恋でしょ。失愛なんて聞かない」
"失恋"をテーマにした本を一つ一つ手に取りながら言葉を重ねる。そう考えると恋人も不思議な単語 そう思わない? と。
パラパラと本をめくる様子すら様になるのに口ずさむのはひどく哲学的で答えずらい質問。
「恋はひとりで 愛は共に。なら,恋を失えば愛になりそうなものなのに」
「恋でしか繋がれないなんて悲しい関係。愛で繋がれば否定的。日本語って難しい」
この関係はなんだろうね? 凪いだ海のように満ちた 透ける瞳が向けられる。その手には既に本はなく 指先同士は軽く絡み合っていた。
それは返答を求める質問であると同時に,解答を求めない疑問であった。なぜならこの関係はどちらにも分類されるものではなかったから。
「関係を恋と 感情を愛と呼べばいい。関係が切れても思いは残るから」
相手を思うのなら,それは愛に感じられた。だから君に対する関係は分からずとも,名を付けなくとも気持ちは変わらない。
それはきっと告白に似ていた。どこか寂しそうに笑う君が見えたから。
「……そっか」
リン 小さな鈴の音がする。
それはきっと恋の始まりの音だった。
「梅雨なんて嫌い」
頬を膨らませそっぽを向く子供らしい仕草は、大人っぽい優等生の雰囲気とかけ離れていて妙な優越感を感じさせた。これを知っているのは自分だけなのだと。
「息が詰まる」
閉塞的。そんなふうに言いながら降り注ぐ比較的小さな雨粒に手を伸ばす。まるで光を求めるように、やけに淋しそうに。
押しつぶされそうな色に囲まれることを恵みには思えない。たとえ必要不可欠だとしても。手のひらに溜まった雫を紫陽花の葉に落としながら君は謳う。
「声も聞こえないぐらいに荒れればいいのに」
傘に隠された横顔。微かに見えた表情は言葉とは裏腹に、やたらと綺麗な笑みを乗せていた。
指先が動いて くるりとまわる大きな花びら。水しぶきを飛ばして軽やかなステップをふむ。
「早く帰ろっか。扉に隔たれらればこの音も悪くない」
よくわからなかった。嫌いだと言ったそれから楽しみを見い出せる理由が。文学的な言い回しを好む瞳に映る世界が、自分と同じものを見ているという事実が。
だって大概の人と同じように 梅雨を嫌う理由は不快だからで、家に入ろうと感想は同じだった。音は耳をさ奏でる騒音で気を滅入らせる要因以外の何でもなかった。
「哀しい音楽。匂いを連れて耳を撫でる」
不思議なメロディー きっと気に入る。なんていう君はいつだって知らない世界を見せてくれる。
どんな 香りも風景も空気すらも、いつもと違うように彩られていく。それはまるで魔法のようにすっと心に染み込んだ。
「嫌いだけど、たまにはいいかな」
そうやってまた景色が変わった。みずみずしい花弁が、揺らいだ姿を映し出す水たまりが きらめくコンクリートが特別になった。
テーマ: «梅雨» no.8 73
「怖いな」
「なにが?」
きょとん と擬音を当てたくなるような,キャラメル色の瞳に見つめられて,ようやく自分が声を出していたことに気がついた。
さっきまで読んでいたはずの小説は栞を挟まれ机の横に避けられている。
「いや。なんでもない」
「そう」
不満げな眼差しで数秒,納得できないと二三度 瞼が瞬く。それでもやがて引き下がった。
それから,次の瞬間にはまた何でもないように,本を手に取って視線を落とし口を噤んだ。
声が上げられることのない静寂の空間。ただただ呼吸とページをめくる音だけが響く。
一人と一人が重なった時間。それは日の差し込んだ図書館のような,どこか不可思議な特有の空気が流れる。
そんな空気に酔わされて 娯楽の為なはずの文章を紐解くようになぞる表情を眺めながら,問いかけられた言葉の返事を 一人考える。
怖い。なにが。『(真っ直ぐな)その視線が』
なんて言えるわけがない。理由を聞かれても説明できない。だって自分自身よくわからない。
わからない思いを無理やり あえて言語化するのなら,きっと僕が臆病だから なのだろう。隠している心の奥を覗かれるようで,互いが違う生き物だと まざまざと見せつけられるようで,どうしようもなく恐ろしくなる。
揺るぎない 不躾なほど真っ直ぐな 氷細工の太刀のような視線が。第三者のエキストラであることを許さないから。誰にも染まらない凛とした姿勢が。間違うことも躊躇うことも否定するから。なんでもないように核心をつく言葉が。正しさだけを示し続けるから。
今回の作品は気に入ったのか,柔らかく緩んだアーモンド型を見ながら思う。"瞳は心の鏡"いつかどこかで見たそんな表現が妙に腑に落ちる。そんな瞳の持ち主だと。
飾り気も誤魔化しもない そんな性質がとても好ましくて,酷く眩しくて やっぱり恐ろしい。
ああ,これはまるで。
「鏡みたいだから」
誰にも聞こえないように 空気だけを震わせるように呟いた端的な理由。聞こえているのか いないのか,今度は疑問が投げかけられることは無かった。
テーマ : «見つめられると» no.7 - 66