「あなたはいいね」
なんてことのないセリフだった。嫌味と呼べる精一杯の含みは,特別この心を切り裂いたりもすることはなく ただ投げつけられては消えた。何の変哲もない振動として。
そう。決して痛くはなかった。『そう? かもね』いい子と呼ばれる笑みと眼差しで返事できるくらいに 心を動かされない出来事だった。優しさは一欠片もない,マリアのような慈悲深さで。
"大した意味も意図もない,苛立ち紛れの八つ当たり"あの人の行動を言葉にするならそう言えたから。
……自分の感情もコントロールできない子供の戯言
そんなものは琴線に触れなかったから。
きっとそれは,傲慢な余裕に似ていた。自分は恵まれているのだと相手を下に見るが故の 余裕。それは,ある意味で揺るぎない自身の価値を見出すきっかけのひとつだった。
あるものを 与えられたものを 数える性質。この身を心をつくるそれ。幸せに生きる為の小さな鍵。
むかし誰かに尋ねたことがあった。'何故羨むの'と。答えは覚えていない。それと同じシーンは幾度となく繰り返されて,今に至る。
『悲しい人だね あなた』
幸も不幸も紙一重。表も裏も見方次第。結局どれも同じこと。 そう伝えても詮無きこと。その事実はもう知っているから。
『ないものねだり なんて』
意味がない とは言わないよ。
テーマ : «ないものねだり» no.6 - 55
大っ嫌いだった。憎んでると言っても過言ではないくらい。ただただ嫌悪していた。そこに一欠片の嘘も誤魔化しもない。本当に疎んでいた。
けれど,それは きっと誰よりも。ほかのどんな人物よりもずっと,心の奥底 一番深く仄暗い感情の在処に居座る存在。
忘れたくても忘れられない。必要不可欠で,この身を形づくる要素。それ無しで語ることが出来ないくらい絡みついて纏わり付いた呪縛。一生解けない鎖。
僕が毒と名付けたそれを あなたは愛と呼んだ。罰と呟けば祝福と囁いた。不幸の種と笑えば春の風だと微笑んだ。
いつもいつも隣にあった。熱を感じるほど傍に。きっとどこまで行っても交わらない。ねじれた関係。永遠に触れられない,同一平面上にすらあれない関係。
……知ってたのに。
終わりが嫌いだった。始まりを恐れた。別れを嫌った。出会いを避けた。手を伸ばせなかった。
「なんでだろう」
零れ落ちた生暖かい何か。揺らぐ視界と淡い色の世界。冷たい空気が喉を塞ぐ。
「好きじゃないのに」
はじめて吐いた嘘は,心無い強がりは 空気を震わせて消えゆく。誰にも拾われずに意味もなく。
「……一緒に,見たかったな」
飾り気のない本音を,叶わない願いを 攫うように薄紅色が吹雪く。責め立てるようにも慰めるようにも思えるそんな風。
一人の幼子は月明かりが射すそのときまでただそこに。
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テーマ : «好きじゃないのに»
芯まで冷やすような風が吹きつける昼下がり君と連れ立って歩く。春立つといえど寒々しさが残るそんな季節。隣合う体温が微かな熱を伝え合う。
視線を上へとあげてゆっくりと立ち止まる。ふるり と小さな身震いをしながら君は呟いた。
「こんな時期に来るものじゃないね」
視線の先にあるのは裸の木々といくつかの遊具。なごり雪がかすかにある地面はところどころ白く色づいていた。
3月も間近に迫ってはいても桜だけが植えられた公園に春の色はまだ薄い。
「彩も賑やかさもないから侘しくなる」
枝の伸びた桜の木の幹に寄りかかるようにして囁いた。それはまるで誰にも視線を向けられないその桜の声のようにも聞こえて。
「またすぐに鮮やかな姿を見せるのでしょうけど。なんか物悲しいよね」
壊れ物を扱うかのように冬芽にそっと手を伸ばしながら,笑みを浮かべた。愛し子を見つめるようにも 観察する学者のようにも見える入り交じった感情を写す瞳。
「人の心に残り続ける姿はほんの3週間もありはしないのに。連想されるのはその様子だけなんて」
小さな命を慈しみ憐れむように言葉を紡ぐ。哀を乗せた声色はどこまでも透明で温度がない。
真っ直ぐな視線が見ているものは桜だけではなくてきっと他の何かで。それがどうしようもなく悲しかった。
「……帰ろっか」
君がそう言って笑みを見せたのは僕がいたから。君一人なら空の色が変わるまでずっとそこに立っていたのだと思う。桜の精のように佇んで。
寄りかかった体をふわりと動かして歩を進める。視線は既に前を向いていて何かを見つめてはいなかった。
柔らかな風が春の訪れを予言する。すぐ側までやってきたそれは儚げな美しさをはらむ。
刹那に消えて思い出だけを残す薄紅。それは目の前を歩く君に似ていた。
テーマ : «小さな命»
日中の蒼穹の片隅今にも消えそうな青白さで,されど凛として佇む破月。帳におおわれた時より希薄なそれを愛おしげに眺める人物。
どこか物悲しい雰囲気で,けれど薄く笑みを浮かべた表情を浮かべる。まるで決して叶うことの無い想いを抱え,それでもその想いを捨てることなく抱き続けているような 酷く静かな片想いみたいな空気を纏う。
「月が綺麗ですね」
儚げな先輩の横顔に思わずそんな言葉が零れた。文芸に興味がある人物にとっては有名すぎるほど有名な台詞。
使い古されたその言葉に先輩はチラリとだけ視線を寄越し,すぐにまた空を眺める。何事も無かったかのように。
「アーシャには穏やかな感覚。その名は知らないけれど」
数十秒の沈黙の後 月を見つめたまま君は呟く。いつもと同じ声色で,気色も嫌悪も感じさせない淡々として耳障りの良い響き。
正直に言えば返事の意味は理解できなかった。ただその雰囲気から一蹴された訳でも無視された訳でもないことだけは伝わってくる。
「知ってた? 真昼には薄らと青みがかって見える」
そんなことを囁きながら微笑を浮かべた。儚げな美しさに妖しげな魅力を宿し,揶揄うようなそんな笑み。
どういう意味だと問うたところで答える気などないのだと,自由気ままな先輩は言外に伝えてくる。何処か挑発的で愉しげな瞳に捕われた。
「答え合わせはまた今度。じゃあね」
くすり と小さな笑みを落として,ひらりとその場を後にする先輩。真っ直ぐな視線は振り返ることも無く扉に手をかけていた。
それにかける言葉もなくただ見つめていれば,くるりと身を翻した先輩と視線が混じり合う。
「ひとつだけヒントあげる。直接的な言葉は好きじゃないかな。命は惜しいし」
「どういう……」
続きは笑顔ひとつで黙殺される。自分で考えろと笑顔が語る。
「要するに勉強不足ってこと。嫌いではないフレーズだけど」
話しすぎたかな なんて言いながら今度こそ先輩は扉の向こう側へと消える。
ヒントだという言葉の意味すらわからない。けれど先輩は意味の無い言葉は好まないうえに,かけられた言葉には真面目に向き合う人だから 何かしらの意味があるはずで。
一人きりの空間でただひたすら思考に耽ける。酷く意地の悪い謎掛けのようななにかを解き明かす為に。
'アーシャ'に'青い月' 唐突に紡がれた言葉にも関連があるはず。
'嫌いではないけど勉強不足' それはきっと"月が綺麗ですね"に対する感想。先輩なら間違いなく言葉の意味も由来も,返事についてだって知っているはずだから。
基本的な返しは"死んでもいいわ" 二葉亭四迷の翻訳から来ているはずで,作品の名前が確か'片恋'
だとしたら'命は惜しいし' '直接的な言葉は好きじゃない' っていうのはその返しはしてないって意味。
片恋の原作はロシア文学で作品名が'アーシャ'。
'青い月'はBlue moon 滅多にないことを意味するから, "青くはない"で告白を受け入れないの意。'青みがかって見える'のならそうじゃないってこと。
そこまで考えてようやく気がついた。
「……なにそれ」
今鏡を見れば耳も顔も真っ赤に染められているのだろう。いやに主張する脈が煩い。
とんだ返しをされていたものだ。確かに勉強不足と言われたところで仕方がない。
文学には文学で。それも有名どころを自分の言葉でアレンジして答えてくれただけ。たとえすぐ意味がわからなくても,考えれば調べればわかるぐらいの難易度で。
「愛してる」
「愛してるっていうには穏やかだけど,でも好きだよ。心の底から」
そんな風になんでもない顔で答えていた。素直なくせに素直じゃない人間が二人いたって ただそれだけの話。
テーマ : «Love You»
「特技はなんですか」
昔からその質問が嫌いだった。自分をアピールすることは苦手ではない。趣味だって数多くある。人並みには出来ることだってそれなりには。けれど'特技'そう問われると口が重くなる。
誰かに自慢するほど特別な何かは持っていない。自分より秀でた人がいるものを特技と言えるほどの傲慢さや自信はない。
『物事を多方面から眺めることです』
用意していた答えを,事実になりきらない真実を本当のように見せること。嘘ではないことを信じさせること。それは苦手ではない。
明確な嘘をつかないで,望む方向へと誘導する。欺瞞に充ちた不誠実な行為。
……そもそもこの質問に大した意味などないけれど。
『思考停止せずに冷静に,客観的に考えること。答えを一つに絞らず要素ごとに捉え直すこと』
ほら。さも立派な事のように聞こえる。ただの揚げ足取りの捻くれ者が。
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「言葉遣いも返事も行動も完璧。これなら本番も大丈夫」
『ありがとうございます。なにか直すべきことはありますか?』
方にはまった言葉に,セオリー通りの回答。本当にくだらない。人間性がとかいう採用方法もその練習も,仮面を纏う己も。
本音などありもしない。建前とお世辞と演技の世界。きっと互いに何もわからない。
誰もが自分を隠し偽りながら生きている。それが社会というものでそこに疑問も異議もない。
けれど,やはり虚しくはなる。自分を見てほしい。言葉だけではなくて,上辺の振る舞いではなくて もっと深い臆病な心の奥を。
なんて言うわけもないけれど。
そんな我儘言えるわけがない。
'特技' 考えることもなく言える何かがあるのなら,もう少し楽に生きれたのかな。
本当は,誰よりも自分の特技を知りたいのは ガラスに反射して歪に微笑む自分だと。そう知っていたから。
『特技 なんて嫌い』
テーマ : «誰よりも»