そっと両手のひらでカーブに沿って包み込んでみる。じんわりとした温かさが陶器を伝って熱を届けてくれた。ふんわりと茶葉の香りが鼻腔を撫でる。
それだけで少し笑顔と余裕が生まれる気がした。
紅茶をいれて飲む。
ただそれだけの時間にしたらたった10分の毎日のルーティーン。
お湯を沸かして、お茶を選んで、カップを温めて、茶葉に熱湯を注いで、砂時計をひっくり返す。慣れ親しんだ一連の動作。考えるより先に手が動くけれど、ふとした瞬間に広がる香りが心を癒してくれる。
いつから始めたことなのかは覚えていない。最初に丁寧なお茶の入れ方を知った。味の違いはそれほど分からないけれど、色味や飲んでいる最中の冷め具合が違う上に穏やかな心地になれるとそう思ったから。一日の1/480を費やすと決めた。
「今日もいい日になりそう」
そう、明るい気持ちで今日をスタートできるから。ちょっとした贅沢は私を前向きにさせてくれる。
月が綺麗と、かつての文豪はそう訳したらしい。
随分と文学的で情緒ある表現であると、ありきたりではあるけれど初めてそのフレーズとエピソードを知ったときに思った。
けれど、もし、もし。空に浮かぶその天体を好いた相手と見られるのだとすれば、どうしたって美しく忘れられない時間になるのではないかと、愛も恋も知らぬ幼いばかりの私は朧気ながらに夢想した。
とにかく、恋愛というものは混じり気のない純粋で洗礼された神秘的なものであると、疑いようもなくなんの根拠もなく盲目的な程に信じ込んでいた。
───
「無知で無垢であることは幸いね。醒めぬ夢なら酔ってもいられるのに」
リアリストのわりに夢見がちであった彼の人はやがて現実を知り、弾けた水泡はあとも残さず消え去るだけ。
見上げた空はあまりに遠く、届かぬ天体はただそこに在り続けるのみ。
「願ってしまったから」
誰しもに平等に降り注ぎ美しく佇むその姿を、妬ましいとそう感じてしまうから。
「綺麗だなんて、言いたく ない」
どこかに行きたいと願った。
どこか──
それが何処かはわからない。
いや、もしかして、そうきっと 場所は問わないのだろう。
ただ、今が、この場所が嫌で。ただ、それだけが真実で。いっそすべて放り出して身軽になってしまいたい。ただ、それだけの衝動。
知っている。どこか、なんて存在しない。逃げても何も変わらない。それでも…… 心が軽くなるから
「さぁ、いこう」
『──また……会おう、ね。絶対、だから』
あの時にした一方的な呪(まじな)い。
数時間後には呪(のろ)いとなったその切実な願いほど悲しい約束を、私は未だ知ることはない。
────
あの日、日が照っていたかどうかすらよく覚えていない。けれど確か傘を指した覚えもないからきっと太陽は顔を出していたのだと思う。
その時は、そんなことすら気に止まらなかった。ただひたすらに、あなたの傍に一刻も早く立ちたいと願った。初夏と言うには日の経ちすぎた7月の初めだと言うのに、暑さは感じず ゾッとしたようなさむけを感じたことを覚えている。
私があなたの元へ向かったとき、あなたは既に意識はなく。繋いだ手が随分と頼りなく冷たくなっていた事に、いやにリアリティーのある病巣の存在を意識した。
眠っているというよりはただ魘されるように目をつぶるその姿。しっかりと痛いほどに握られた手のひらと、忙しなく動き続けるグラフだけが あなたがまだこの場所に留まっていることを示していた。
「言いたいこと沢山、あるんだよ。早く起きてよ」
──叶えたかった夢が叶う準備が整った。ずっと行きたかった海外に行くことになった。オシャレな着物を予約した。研究発表を任された。
数え切れないほど伝えたいことがあった。これから見せたい姿があった。写真も映像も山のように持っている。そうでなくたって たわいもない話がしたい…… どれだけの望みを目をつぶり続けるあなたにしただろうか。
医師から一方的に伝えられた面会時間はたった10分。そのうちの9分間ずっと、留まることなく喋り続けた。
「お願い。お願いだから 目を覚ましてよ。約束してよ、また……会いに来るから」
病状が変わらない限り、あなたに会えるのはこれで最初で最後だとはじめに告げられていた。今日でお別れな可能性もあるのだと、そんなふざけた話を聞かされていた。けれど、受け入れられなかった。受け入れられるはずもなかった。
だから、返ってくることもない一方的な約束を無理やりに結ぶ。神でも悪魔でもなんでもいい。ただ、あなたを失いたくなかった。
「絶対、だから。また会いに来るから。手繋いでね」
呪いでもよかった。叶うのならなんでもよかった。
まったく、一々重いんだよ なんて笑い話にしてしまいたかった。そうすれば、あなたとずっと一緒にいられるって、そう信じていた。
今も……信じていた、かった。のに……
───あなたは、嘘つきにもなってくれない、残酷な人だった。
『叶わぬ夢』
その言葉はたぶん、世間一般的には負のイメージを持つフレーズなのだと思う。
── 挫折、失敗、無謀な高望み
どう言い繕ってみたところでプラスの響きなど存在しない、あまりに否定的な冷たい音。
けれど、
「あるだけ羨ましい、けどな」
個人的には夢を見られるだけ恵まれた環境であると、そうなにとなしに思った。
だって、少なくとも夢としたい目を焼くような光を映したことがなければ、理想がなければ潰えることすらない。初めから持たぬものなら失うはずもなし。羨むことすら叶わない、手を伸ばすことも許されない、そんな薄情な現実は世間にありふれているのだから。仮に掴めなかったところで挑戦する権利があっただけ幸せなのだと。
「そもそも、まだチャンスはある癖に」
簡単に諦めるその物分りの良さは、大っ嫌いだった。
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