「梅雨なんて嫌い」
頬を膨らませそっぽを向く子供らしい仕草は、大人っぽい優等生の雰囲気とかけ離れていて妙な優越感を感じさせた。これを知っているのは自分だけなのだと。
「息が詰まる」
閉塞的。そんなふうに言いながら降り注ぐ比較的小さな雨粒に手を伸ばす。まるで光を求めるように、やけに淋しそうに。
押しつぶされそうな色に囲まれることを恵みには思えない。たとえ必要不可欠だとしても。手のひらに溜まった雫を紫陽花の葉に落としながら君は謳う。
「声も聞こえないぐらいに荒れればいいのに」
傘に隠された横顔。微かに見えた表情は言葉とは裏腹に、やたらと綺麗な笑みを乗せていた。
指先が動いて くるりとまわる大きな花びら。水しぶきを飛ばして軽やかなステップをふむ。
「早く帰ろっか。扉に隔たれらればこの音も悪くない」
よくわからなかった。嫌いだと言ったそれから楽しみを見い出せる理由が。文学的な言い回しを好む瞳に映る世界が、自分と同じものを見ているという事実が。
だって大概の人と同じように 梅雨を嫌う理由は不快だからで、家に入ろうと感想は同じだった。音は耳をさ奏でる騒音で気を滅入らせる要因以外の何でもなかった。
「哀しい音楽。匂いを連れて耳を撫でる」
不思議なメロディー きっと気に入る。なんていう君はいつだって知らない世界を見せてくれる。
どんな 香りも風景も空気すらも、いつもと違うように彩られていく。それはまるで魔法のようにすっと心に染み込んだ。
「嫌いだけど、たまにはいいかな」
そうやってまた景色が変わった。みずみずしい花弁が、揺らいだ姿を映し出す水たまりが きらめくコンクリートが特別になった。
テーマ: «梅雨» no.8 73
「怖いな」
「なにが?」
きょとん と擬音を当てたくなるような,キャラメル色の瞳に見つめられて,ようやく自分が声を出していたことに気がついた。
さっきまで読んでいたはずの小説は栞を挟まれ机の横に避けられている。
「いや。なんでもない」
「そう」
不満げな眼差しで数秒,納得できないと二三度 瞼が瞬く。それでもやがて引き下がった。
それから,次の瞬間にはまた何でもないように,本を手に取って視線を落とし口を噤んだ。
声が上げられることのない静寂の空間。ただただ呼吸とページをめくる音だけが響く。
一人と一人が重なった時間。それは日の差し込んだ図書館のような,どこか不可思議な特有の空気が流れる。
そんな空気に酔わされて 娯楽の為なはずの文章を紐解くようになぞる表情を眺めながら,問いかけられた言葉の返事を 一人考える。
怖い。なにが。『(真っ直ぐな)その視線が』
なんて言えるわけがない。理由を聞かれても説明できない。だって自分自身よくわからない。
わからない思いを無理やり あえて言語化するのなら,きっと僕が臆病だから なのだろう。隠している心の奥を覗かれるようで,互いが違う生き物だと まざまざと見せつけられるようで,どうしようもなく恐ろしくなる。
揺るぎない 不躾なほど真っ直ぐな 氷細工の太刀のような視線が。第三者のエキストラであることを許さないから。誰にも染まらない凛とした姿勢が。間違うことも躊躇うことも否定するから。なんでもないように核心をつく言葉が。正しさだけを示し続けるから。
今回の作品は気に入ったのか,柔らかく緩んだアーモンド型を見ながら思う。"瞳は心の鏡"いつかどこかで見たそんな表現が妙に腑に落ちる。そんな瞳の持ち主だと。
飾り気も誤魔化しもない そんな性質がとても好ましくて,酷く眩しくて やっぱり恐ろしい。
ああ,これはまるで。
「鏡みたいだから」
誰にも聞こえないように 空気だけを震わせるように呟いた端的な理由。聞こえているのか いないのか,今度は疑問が投げかけられることは無かった。
テーマ : «見つめられると» no.7 - 66
「あなたはいいね」
なんてことのないセリフだった。嫌味と呼べる精一杯の含みは,特別この心を切り裂いたりもすることはなく ただ投げつけられては消えた。何の変哲もない振動として。
そう。決して痛くはなかった。『そう? かもね』いい子と呼ばれる笑みと眼差しで返事できるくらいに 心を動かされない出来事だった。優しさは一欠片もない,マリアのような慈悲深さで。
"大した意味も意図もない,苛立ち紛れの八つ当たり"あの人の行動を言葉にするならそう言えたから。
……自分の感情もコントロールできない子供の戯言
そんなものは琴線に触れなかったから。
きっとそれは,傲慢な余裕に似ていた。自分は恵まれているのだと相手を下に見るが故の 余裕。それは,ある意味で揺るぎない自身の価値を見出すきっかけのひとつだった。
あるものを 与えられたものを 数える性質。この身を心をつくるそれ。幸せに生きる為の小さな鍵。
むかし誰かに尋ねたことがあった。'何故羨むの'と。答えは覚えていない。それと同じシーンは幾度となく繰り返されて,今に至る。
『悲しい人だね あなた』
幸も不幸も紙一重。表も裏も見方次第。結局どれも同じこと。 そう伝えても詮無きこと。その事実はもう知っているから。
『ないものねだり なんて』
意味がない とは言わないよ。
テーマ : «ないものねだり» no.6 - 55
大っ嫌いだった。憎んでると言っても過言ではないくらい。ただただ嫌悪していた。そこに一欠片の嘘も誤魔化しもない。本当に疎んでいた。
けれど,それは きっと誰よりも。ほかのどんな人物よりもずっと,心の奥底 一番深く仄暗い感情の在処に居座る存在。
忘れたくても忘れられない。必要不可欠で,この身を形づくる要素。それ無しで語ることが出来ないくらい絡みついて纏わり付いた呪縛。一生解けない鎖。
僕が毒と名付けたそれを あなたは愛と呼んだ。罰と呟けば祝福と囁いた。不幸の種と笑えば春の風だと微笑んだ。
いつもいつも隣にあった。熱を感じるほど傍に。きっとどこまで行っても交わらない。ねじれた関係。永遠に触れられない,同一平面上にすらあれない関係。
……知ってたのに。
終わりが嫌いだった。始まりを恐れた。別れを嫌った。出会いを避けた。手を伸ばせなかった。
「なんでだろう」
零れ落ちた生暖かい何か。揺らぐ視界と淡い色の世界。冷たい空気が喉を塞ぐ。
「好きじゃないのに」
はじめて吐いた嘘は,心無い強がりは 空気を震わせて消えゆく。誰にも拾われずに意味もなく。
「……一緒に,見たかったな」
飾り気のない本音を,叶わない願いを 攫うように薄紅色が吹雪く。責め立てるようにも慰めるようにも思えるそんな風。
一人の幼子は月明かりが射すそのときまでただそこに。
3/25
テーマ : «好きじゃないのに»
芯まで冷やすような風が吹きつける昼下がり君と連れ立って歩く。春立つといえど寒々しさが残るそんな季節。隣合う体温が微かな熱を伝え合う。
視線を上へとあげてゆっくりと立ち止まる。ふるり と小さな身震いをしながら君は呟いた。
「こんな時期に来るものじゃないね」
視線の先にあるのは裸の木々といくつかの遊具。なごり雪がかすかにある地面はところどころ白く色づいていた。
3月も間近に迫ってはいても桜だけが植えられた公園に春の色はまだ薄い。
「彩も賑やかさもないから侘しくなる」
枝の伸びた桜の木の幹に寄りかかるようにして囁いた。それはまるで誰にも視線を向けられないその桜の声のようにも聞こえて。
「またすぐに鮮やかな姿を見せるのでしょうけど。なんか物悲しいよね」
壊れ物を扱うかのように冬芽にそっと手を伸ばしながら,笑みを浮かべた。愛し子を見つめるようにも 観察する学者のようにも見える入り交じった感情を写す瞳。
「人の心に残り続ける姿はほんの3週間もありはしないのに。連想されるのはその様子だけなんて」
小さな命を慈しみ憐れむように言葉を紡ぐ。哀を乗せた声色はどこまでも透明で温度がない。
真っ直ぐな視線が見ているものは桜だけではなくてきっと他の何かで。それがどうしようもなく悲しかった。
「……帰ろっか」
君がそう言って笑みを見せたのは僕がいたから。君一人なら空の色が変わるまでずっとそこに立っていたのだと思う。桜の精のように佇んで。
寄りかかった体をふわりと動かして歩を進める。視線は既に前を向いていて何かを見つめてはいなかった。
柔らかな風が春の訪れを予言する。すぐ側までやってきたそれは儚げな美しさをはらむ。
刹那に消えて思い出だけを残す薄紅。それは目の前を歩く君に似ていた。
テーマ : «小さな命»