月は年々少しずつ、地球から離れているのだと言う。古い絵画に描かれた月輪が大きく光輝いているのも誇張ではなく、当時の月は確かに今より大きくて明るかったのとか。
もしもそれが本当ならば、何万年か、何百万年か後には、誰かが夜空を見上げたとしてもそこに月の姿はもうないのだ。人類は月というものをはるか古代の記録で知るしかない。もっとも、それまで人類が存続していたとしての話だけど。
月はゆっくりと時間をかけて、だけど確実に地球から遁走できる。私は月を、堪らなく羨ましいと思う。孤独を好む個体は、生物としてどうしようもなく出来損ないだ。命は他の命なくして存在し得ない。人間ならば尚更、どれほど他者を疎み独りを愛そうとも、社会というインフラがなくては生きていけない。孤高で在れない自分を、私自身がどれほど蔑んでいることか。
月に願うことがあるのなら、私の孤独を一緒に連れて行って欲しい。そうして地球から何万光年も離れた先で、何もない虚空に放り出して欲しい。私の魂はそこでようやく安らぎを得るだろう。
遠く離れた青い星を見留めたその時には、故郷を懐かしく思うこともできるかもしれない。永久の孤独に微睡みながら。
夢の中で私は砂漠の街に住む女の子だった。
日々は眩く輝く太陽に支配されている。街はそれなりに豊かで上下水道も整備されていたのだけど、それでも雨が降れば皆沸き立った。
私はしゅっとした細身の猫を抱いて、砂にしみこむ雨粒を見つめる。砂漠は不毛の地ではない。わずかな水分を吸い上げて、植物は生い育つ。雨に濡れた小さな花々は、きらきらと輝いて硝子細工のようだ。猫は私の腕から逃れて、砂の上をすばしこっく駆け回る蜥蜴を追いかけ始めた。
やがて短い雨が上がると、空はいつにも増して突き抜けるように青く、雨粒が太陽の光を乱反射させた。
夢から覚めてベッドの上で起き上がった時、まだ眩しさに痛む目から涙が一粒落ちた。
夢の中で私は硝子ドームの都市に住んでいた。
ドームの厚い硝子の向こう側は、伝い流れる雨が不思議な模様を描いている。はるか昔に壊れた機械が降らせる雨は、どこかで循環し続けて降りやむことはない。
夢の中の私は写真や映像でしか太陽を見たことがない。けれど私は雨が嫌いではなかった。きれいだから。
都市は清潔で整然として、人の作り出したあらゆる美しいものが並んでいた。私はそれらを眺めることが好きで、音楽が好きで、本を読むことが好きで、いつか自分も何かを作り出すことを夢見ていた。
朝陽が眩く射し込んで、私は目を覚ます。夢の名残か、雨の雫がひとすじ頬を伝い落ちた。
夜の片隅にいる。
夜風が時折カーテンを翻し、遠く世界の中心で炸裂する光を見せた。たまにずうんと低い衝撃が伝わって部屋がわずかに揺れる。
何度目かの揺れの後、あなたは俺に聞こえるように溜め息を吐き、読み差しのエリスンの短編集をベッドサイドに置いた。俺を招く指は細く長く、麗しい。また光が閃いて、あなたの不機嫌な顔を一瞬照らし出した。
連中のことは仕方ない、ああすることが正しい表明の仕方だと思っているし、表明しなくてはいけないものだと頑なに思いこんでいる。秘める想いの美しさなど知る由もなく。
俺は俺を招く手に誘われて、あなたに寄り添う。夜の一部を切り取ったようなあなたの髪を指で梳き、そっと頬を寄せる。身の内から狂おしくこみ上げる叫びは、夜気をかすかにふるわす囁きに変える。それは、夜という頁に記された一篇の詩だ。
俺の首に腕を回したあなたの囁きが、俺の耳を濡らす。俺は武骨な手で精一杯に優しくあなたを奏で、あなたの唇は俺の指に応えて妙なる音を夜の中に紡ぐだろう。
光も振動も、もはや夜を妨げない。お前たちはせいぜい世界の中心で叫び続けるがいい、その愚かしさに世界が堪えきれなくなって崩れ落ちてしまうまで。
すべてが失くなった跡に、ただこの夜だけが在るだろう。
(書くまでもないこととは思いますが、“あなた”が読んでいた本はハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』です)
「におい」は大脳皮質にある言語野を経由せず、記憶や感情を司る領域にダイレクトに送りこまれる。故に、フラッシュバックを起こしやすい。
私は香りを纏う。甘く清らかな白い花の香りを。そうしてあなたとの夜に臨む。
汗に混じり立ち昇る香りは、私の脳に一夜の記憶を刻みこむ。春と夏の境、白い花のあえかに香る季節が訪れるたび、私はその夜を鮮やかに思い出す。
暗がりに紛れて私はあなたの元を訪れる。宵闇を脱ぎされば、この身に纏うのは花の香りと白いドレス、ただそれだけ。
あなたの指先は、蕾をこじ開けるようにして私の身体からドレスを剥いだ。花の香りが甘く立ちこめれば、言葉はもういらない。
夜の記憶だけが鮮烈に、脳に焼きつけられる。
私はあなたを忘れない。
「暗香」とは、どこからともなく密やかに漂ってくる香りのこと。日が暮れて視界がきかなくなると、代わりに嗅覚が鋭敏になる。
ひとつだけ望みを聞いてやると言われて、私は牢獄の側に花を植えて欲しいと願い出た。春と夏の境で、甘く清らかな香りを放つ白い花の木を。
ひとつきりの小さな窓は私の頭よりはるかに高い位置にあり、外を見ることはできないけれど、花の香りが季節の訪れを教えてくれた。彼女が私の元を訪れて、終身刑を告げたあの夜のように。
記憶の宵闇に浮かび上がる花は、白いドレスを纏った少女の姿をしている。開きかけの蕾を無理矢理こじ開けるようにして、私は彼女に触れたのだった。
一夜の記憶を脳に焼きつけたのは、彼女の肌から立ち昇った花の香り。甘く濃厚に纏わりつき、夜が明けるまで私を離さない。朝の光が夜を薄め始めると私は安堵の息を吐き、そして太陽を憎む。私の罪。私の夜。私の花。
忘れられない。いつまでも。
そうね……あれはざっと四千、それとも五千年前だったかしら?あたくしはまだ三百余歳のうら若き乙女でしたわ。妖としてはまだまだ駆け出しの小妖怪というところ。
悪事と言ってもせいぜいが人間の女の子に取り憑いて、村中の男という男の精気を搾り取って廃人にしてやった程度の、かわいいものです。小さな成功でいい気になって油断してしまうのは、若者にはまあよくあることですわね。調子こいたあたくしは、迂闊にも道士の罠にはまって捕らわれてしまったというわけ。
毛皮を剥がれるくらいのことは覚悟しましたわ。あたくしのこの尻尾を見て欲にかられない人間などいて?いたのですよ。
あの方は、取り憑いた少女から離れればあたくしに害はなさないと約束されたのです。その言葉にあたくしはうち震えました。そして言われるままに少女の体を離れたのですわ。
その日から、あたくしは一時たりともあの方のことが忘れられず、あの方の行く後を追いかけました。それはもう情熱のすべてを傾けて。
どこへ行こうとも付きまとい、ありとあらゆる手を尽くして嫌がらせしてやりましてよ。
だって許せます?あたくしのこのフサフサのピカピカの尻尾に目が眩まないどころか、たかが人間の分際であたくしに情けをかけやがりましたのよ?許せないでしょう、もう絶対許さないんだから。如何なる手を使ってもこの人間を屈服させてあたくしの足元に跪かせてやる、と。あたくし、心に固く誓いましたの。
ああ、あの頃は本当に楽しゅうございましたわ、あたくしとあの方と、本気で命の奪い合い。あと一手というところまであの方を追い詰めもしましたし、逆に危うく封印される手前までいきかけたこともありました。
あたくしはあの方だけを見つめ、あの方はあたくしだけを見つめる。余所見なんて許しません、早くあたくしだけにかかりきりになって欲しくて、時にはあの方のお仕事を手伝いもいたしました。そんな時にはあたくしたち二人、不思議とピタリと息が合ったものですわ。『あんたもまったく分からん奴だな』あの方は呆れた様子でそんな風に仰って、それからにやりと笑ってあたくしに斬りかかって下さったものです。
至福の時でしたわ。
だけど楽しいことって長く続きませんのね。
あの方は優れた道士で、だけどただの人間で、やがて年老いて亡くなりましたわ。最後の最後まであたくしを追いかけて。
『あんたのせいで婚期も逃したし隠居もできなかった。……でもまあ、楽しかったよ』そう言って皺ばんだ手をあたくしに伸ばして、その手がぱたりと落ちて、あの方は逝ってしまわれました。
美形だったか、ですって?さあ、普通だったんじゃないかしら。何しろ六千年も昔のことですもの、その辺はさすがに大分朧になってしまいましたわねえ。
そんなぼんやりした昔のお話を不意に思い出したりしたのはね、ふふ、何故かしら。確かに言えるのは、あなたと出会った瞬間に、あの方に感じたのと同じ、胸のときめきを覚えたってこと。あたくし、今とてもぞくぞくしてるわ。初恋のあの日々のように、ね。
さあ、あなた。鬼ごっこを始めましょう。