秋埜

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「におい」は大脳皮質にある言語野を経由せず、記憶や感情を司る領域にダイレクトに送りこまれる。故に、フラッシュバックを起こしやすい。
 私は香りを纏う。甘く清らかな白い花の香りを。そうしてあなたとの夜に臨む。
 汗に混じり立ち昇る香りは、私の脳に一夜の記憶を刻みこむ。春と夏の境、白い花のあえかに香る季節が訪れるたび、私はその夜を鮮やかに思い出す。
 暗がりに紛れて私はあなたの元を訪れる。宵闇を脱ぎされば、この身に纏うのは花の香りと白いドレス、ただそれだけ。
 あなたの指先は、蕾をこじ開けるようにして私の身体からドレスを剥いだ。花の香りが甘く立ちこめれば、言葉はもういらない。
 夜の記憶だけが鮮烈に、脳に焼きつけられる。
 私はあなたを忘れない。


「暗香」とは、どこからともなく密やかに漂ってくる香りのこと。日が暮れて視界がきかなくなると、代わりに嗅覚が鋭敏になる。
 ひとつだけ望みを聞いてやると言われて、私は牢獄の側に花を植えて欲しいと願い出た。春と夏の境で、甘く清らかな香りを放つ白い花の木を。
 ひとつきりの小さな窓は私の頭よりはるかに高い位置にあり、外を見ることはできないけれど、花の香りが季節の訪れを教えてくれた。彼女が私の元を訪れて、終身刑を告げたあの夜のように。
 記憶の宵闇に浮かび上がる花は、白いドレスを纏った少女の姿をしている。開きかけの蕾を無理矢理こじ開けるようにして、私は彼女に触れたのだった。
 一夜の記憶を脳に焼きつけたのは、彼女の肌から立ち昇った花の香り。甘く濃厚に纏わりつき、夜が明けるまで私を離さない。朝の光が夜を薄め始めると私は安堵の息を吐き、そして太陽を憎む。私の罪。私の夜。私の花。
 忘れられない。いつまでも。

5/9/2023, 2:31:51 PM