秋埜

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11/6/2023, 7:10:42 PM

 雨はさわさわと、あるかなきかの音を立て、あなたの頬を静かに濡らした。
 綻び始めた桃の蕾、駐車場の車の列、斎場の灰色の建物、そして傘も持たず佇むあなたを、霧に似た雨が包みこむ。
 真っ白な喪服を纏い、あなたはひとり空を見上げている。旧式の煙突は今では使われなくなって、そこから煙が排出されることはない。今頃は白々と焼けた私の骨を、年老いた両親や親戚たちが骨壺に納めていることだろう。ただ血が繋がっているというだけの他人たち。まだ何も分からない幼い姪が、形ばかり私の骨を箸で掴むことを思えば、そればかりがくすぐったい。
 あなたは、長年私と共に暮らし連れ添ってきたあなたは、その場に居合わせることを許されなかった。通夜にも葬式にも出席を許されず、黒い喪服の群れに追い出されたあなたは、ただひとり雨の中に佇んでいる。この国では同性間の結婚が許されず、ささやかに、けれど確かに営んできた私たちの日々に、何の法的な保証もなされない。
 桃の蕾に溜まった雨が雫を結び、あなたの肩に落ちる。雨ばかりがやわらかに、あなたと私の怒りに降り注ぐ。

8/30/2023, 10:52:13 AM

 ムスクの香水はだめだと言う。
 華やかに甘い香りは本来、麝香鹿の雄が恋の季節に雌を呼ぶための、とは言え本物はとんでもない稀少品で、そんなものを気軽に身につけられる経済力は残念ながらない。
「合成でもだめ?」
「だめだ」
 君は不機嫌な声で短く答えるけど、息が荒い。野生も騙すとは合成香料もなかなかやる。
「君は雄なのになぁ…」
 たいそう、立派な雄だ。体格は良く、筋肉はしなやかに締まり、犬歯は大きく、毛並みは艶やか、尻尾はふさふさ。ただしふさふさの尻尾には滅多に触らせてくれない。
「発情しているわけじゃない!」
「もちろん冗談だ」
 大きな君が大きな身体をテーブルの下に押し込めて、不自然に小さく縮こまっている姿は、さすがに哀れを催す。そうやって君は、衝動のまま私に飛びかからないよう、必死に自分を抑えてくれている。
 仕方あるまい。獲物の、草食獣の匂いを撒き散らして、不用意に君を誘惑するのはやめよう。
「落としてくるから、少し待ちたまえ。あ、耳と尻尾はそのままで」
 と付け加えれば、君ははっとした顔で慌ててふさふさの耳と尻尾を隠してしまった。そのままで、と言うのに。
幸いと、試供品を手首に少しつけてもらっただけだ。いかに彼の鼻が鋭敏でも、シャワーで身体ごと洗えば何とかなるだろう。
 本当は少し、危険な気持ちを覚えなかったわけでもない。見境を失った君に飛びかかられてみたい、なんて。その結果、君はひとり取り残されて後悔と悲しみに沈むだろう。そうして一生、私に囚われる。
 うん、やめよう。こんなことを考えるのは。
 服を脱ぎながらもう一度だけ、合成香料の甘い匂いを嗅ぐ。
 思うのだけどね。香りに誘惑されているのは、君と私、いったいどちらなのだろう、って。

6/7/2023, 12:21:03 PM

 閃く星が白い頬を赤く染めた。
「私と踊って下さる?」
 美しい人、と付け加えて彼女は僕に手を伸べた。断られるとは微塵も思っていない顔だった。にこりと微笑んで小首を傾げれば、緩く波うつ黒髪が頬の横で揺れる。若く、愛くるしく、スタイルもいい。そんな少女の誘いを誰が断るものかと自信に満ちて。
 断ったのだ。かつての僕は。
「それだけのために?」
「それだけのためよ」
 こともなげに彼女は答えた。窓の外で、また星が赤く閃いた。
 若く愛らしい女など愚かなものだと誰もが思っていた。思いこみを逆手にとれる程度には、彼女は賢かった。世界の手を取りひらひらと踊り続けて、とうとうここまでやって来た。
「それだけのことを許さない世界が悪いの。邪な世界は不幸になるべきでしょう」
「不幸かどうかも、もう分からないだろうね」
 星が閃く。星が。すべての生命を死滅させた毒の星が。
 僕は独りこの場所にいて、星が降るのをただ眺めていた。落ちた星が毒を流し、命が絶えていくのを、ただ見ていた。
 最初の星が降った時、僕はふと青いドレスの少女のことを思ったのだった。我ながら悪くない勘だ。
「本当は、あなたにうんと酷いことをしてやろうと思っていたのよ。そのためにいっぱい、色んなことを調べて」
 束の間、大きなあどけない目に淫らな色が浮かんだ。そんな視線なら散々向けられてきたから、今更何とも思わない。
「でも、もうどうでも良くなっちゃった。ねえ」
 私と踊って下さる、美しい人。彼女は歌うように繰り返す。
「喜んで」
儀礼的に答えて、僕は伸べられた手を取る。愛らしい顔に笑顔が満ち溢れる。
 閃く星が白い頬を赤く染めた。

5/29/2023, 9:38:06 AM

 制服が夏服に切り替わって、斜め向かいの席に座る彼女の腕にほくろが三つ、並んでいるのに気がついた。それが初恋。
 オリオン座の三ツ星みたいに、そりゃあきれいに並んでいたよね。星座詳しいのかって?全然。オリオン座と北斗七星しか分かんない。
 いや、何もなかったよ。だって、何て声かければいいのよ。あなたの腕のほくろが好きですって、変態か。……変態だな。
 あとまあ、正直苦手なタイプだった。あまり誰かと喋ってるの見たことなくて、いっつも何か分厚い本読んでる感じの。それでもさあ、恋する乙女としては何と言うかこの、少しでも相手のこと知りたかったりして、彼女が図書室で借りて読んでた本を自分でも借りてみたりしてさ。あ?ストーカー言うな。
そしたらこれがまた、クッソ難解で。あの頃に比べりゃ本も少しは読むようになったけど、多分今読んでも難しくて分かんないと思う。内容はさっぱりでもタイトルめちゃめちゃインパクトあったからそれだけ覚えてるんだけど。『夜のみだらな鳥』っての。
 本当に好きだったのかって言われてもさあ。恋ってそんなもんじゃない?理不尽で不公平で暴力的なの。人柄どころか顔でさえないのよ。オリオン座みたいなほくろがたまたま目についたとか、そんなふざけた理由で。それでも恋してた。
 あー、なぁに語っちゃてるかねえ。まあ要するにあれよ、半袖は罪って話。それだけ。

5/27/2023, 12:23:08 PM

 天国なら簡単さ。ここにある。
 君は骨格標本の胸あたりを指差してそう言った。天国は肋骨の内側。
 地獄は?と僕が聞けば、君は少し意地の悪い笑顔を浮かべて、銃口を押し当てる仕草で君自身の頭を指差してみせた。
 君の頭蓋から溢れ出した地獄は濁流のように世界を飲みこんでしまったのだけど、それはまだ二十年くらい先の話。
 僕たちは博物館のリノリウムの床を踏み、人類の歴史を逆さまに辿っていく。積み上げられた頭蓋骨の写真だとか、きらきらと輝く刀身だとかの間を縫って。
 君が何の躊躇もなく押したボタンは、僕の住んでいた街ごと、僕と僕の猫を焼き尽くした。だけどそれはまだ先の話。
 天国は肋骨の内側、地獄は頭蓋骨の中。
 君の天国は君の肋の中固く閉じたまま、誰にも、君自身にも開かれることはなかった。今この瞬間に僕が君の手を取れば、何かが変わるだろうか。
 だけど残念ながら僕は未来を知り得ない。数日後に君と喧嘩をして物別れに終わることも、それ以来肋骨の内側に君の形の空洞を抱き続けることも、未だ知らない。

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