秋埜

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 ムスクの香水はだめだと言う。
 華やかに甘い香りは本来、麝香鹿の雄が恋の季節に雌を呼ぶための、とは言え本物はとんでもない稀少品で、そんなものを気軽に身につけられる経済力は残念ながらない。
「合成でもだめ?」
「だめだ」
 君は不機嫌な声で短く答えるけど、息が荒い。野生も騙すとは合成香料もなかなかやる。
「君は雄なのになぁ…」
 たいそう、立派な雄だ。体格は良く、筋肉はしなやかに締まり、犬歯は大きく、毛並みは艶やか、尻尾はふさふさ。ただしふさふさの尻尾には滅多に触らせてくれない。
「発情しているわけじゃない!」
「もちろん冗談だ」
 大きな君が大きな身体をテーブルの下に押し込めて、不自然に小さく縮こまっている姿は、さすがに哀れを催す。そうやって君は、衝動のまま私に飛びかからないよう、必死に自分を抑えてくれている。
 仕方あるまい。獲物の、草食獣の匂いを撒き散らして、不用意に君を誘惑するのはやめよう。
「落としてくるから、少し待ちたまえ。あ、耳と尻尾はそのままで」
 と付け加えれば、君ははっとした顔で慌ててふさふさの耳と尻尾を隠してしまった。そのままで、と言うのに。
幸いと、試供品を手首に少しつけてもらっただけだ。いかに彼の鼻が鋭敏でも、シャワーで身体ごと洗えば何とかなるだろう。
 本当は少し、危険な気持ちを覚えなかったわけでもない。見境を失った君に飛びかかられてみたい、なんて。その結果、君はひとり取り残されて後悔と悲しみに沈むだろう。そうして一生、私に囚われる。
 うん、やめよう。こんなことを考えるのは。
 服を脱ぎながらもう一度だけ、合成香料の甘い匂いを嗅ぐ。
 思うのだけどね。香りに誘惑されているのは、君と私、いったいどちらなのだろう、って。

8/30/2023, 10:52:13 AM