秋埜

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4/28/2023, 1:43:18 PM

 たとえば、あなたが指をパチンと鳴らしたとしよう。私が指を弾いても皮膚の擦れ合う音しかしないが、あなたは小気味よく鳴らしてみせる。そのちょっとした動作の間に六十五の刹那が過ぎ去っていった。刹那とはそんなにも、呆れるほどに短い時間だ。
 その短い時間の過ぎる間にも、人の心は移り変わっていくのだと古人は説く。諸行は無常。変わらない気持ちなどあり得ない。
 故に私は言葉を綴る。この一刹那の感情が、それでも真実だったと証すために。刻一刻と変わりいく心が完全に違うものへとなってしまう前に。タブレットに触れた指先に、私の想いのすべてを乗せる。
 テキストだけで構成されたファイルを、私は私に振り分けられた個人フォルダの一番奥深い階層に埋めるだろう。厳重に鍵をかけて。
 古い地層に埋もれた骨が宝石質の鉱物に置き換わっていくように、私の言葉たちは人知れず結晶していく。私もあなたも過ぎいく時間の波に呑まれて消えてしまっても、言葉は残る。私は刹那を永遠にする。
 心は変わっていく。多くの言葉を費やすことはできない。ならば私が第一に記すべき言葉はひとつしかない。
 あなたを愛している。


 心は変わっていくと、貴女は言いました。きっと、それは正しいのでしょうね。貴女は歴史とか哲学とか沢山の本を読んでいて、色々なことを知っているから。
 貴女とそんな話をした後で、私は私の今の気持ちをノートに綴ることにしました。
 ペン先をインクにつける間にも、インクが紙に染み込んでいく間にも、心が変わっていってしまうとしたら。紙にペンで文字を書いていくなんて、非効率的だと貴女なら言うでしょう。それに、紙が水に濡れたりしたら、あるいはインクの瓶を倒してしまったら、文字は二度と読めなくなります。長い時が経てばインクは薄れ、紙は脆くなる。何かの弾みに火に投げ込まれてしまうことだって、ないとは言えない。
 でも、いいの。私が想いを綴るのは、長く残すためではないから。気持ちを言葉にして記すのは、証明するため。今の私より明日の私の方が、貴女をもっと大好きになってるってことを比較検討するためだもの。
 永遠なんていらないでしょう?貴女も私も世界のどこにもいないのに、気持ちだけ残るなんて無意味だと思いませんか。
 心は変わっていく。そうね、貴女は正しい。貴女に向かう私の気持ちは刻一刻と大きくなっていきます。際限なく膨らんでいって、いつかこの胸は破裂してしまうかもしれません。その時には世界も一緒に終わってしまえばいい。
 そんな気持ちを貴女はきっと、刹那主義だと笑うのでしょうけど。

4/28/2023, 8:37:07 AM

『生きる意味を探しに行く』と言って、この世に一人きりの一応家族であるところの兄貴が突然海外に旅立ってから半年が経った。
 先月の頭に名前も知らない土地から絵葉書が届いたけれど、それ以外は音信不通だ。絵葉書には元気だとも寂しいとも、何も書かれていなかった。まあ元気なのだろう。
 未成年の私にとって、兄がいなくて困ることと言えば主に経済的なことだったけれど、何とか高校は卒業したし就職もできた。親戚一同は奇行の多い兄に眉をひそめていた分、大人しい優等生の私には同情的で、せめて大学を出るまではと援助を申し出てもくれたけど、私はこの上なく礼儀正しい態度でお断り申し上げた。借り、というよりはしがらみを作りたくなかった。所詮、私は兄の妹なのだ。外側を取り繕うのが兄よりは少し得意なだけで。
 就職したことで、進学した級友たちと疎遠になっていくことも寂しいとは思わなくて、むしろ肩の荷が下りたようなほっとした気持ちでいるのだから、大概にろくでなしだ。連休中の誘いも適当に理由をつけて断ってしまった。
 休みの間は、一人で住むにはやや広すぎる家を掃除して、初めてのお給料で買ったちょっといい紅茶を淹れて、本を読んで過ごすと決めていた。掃除はそこそこに済ませて、お湯が沸くのを待つ間に、ふと「生きる意味ねえ……」と口から漏れた。
 そもそも、生きる『意味』って何ぞ。意味って、たとえば言葉とか、画像とか、ええと何て言うんだ、表象?そう、その表象が何を伝えようとしているか、ってことじゃないの。お前にとって生きるとは表象か兄よ。表象なら受け手が必要だ。誰に何を伝えたいんだろう、あの人。
 そういう話、好きそうな人がいたな。SNSでつながってた男の子。男の子って言っても二十歳過ぎてて大学生だった。会ったこともないから本当かどうか分からないけど。Nくんなら多分、皮肉たっぷり『生きる意味』とやらについて語ってくれただろう。今となっては、それは無理な話。彼はもう、この世に存在しない。
 最近、TLで見かけないなあと思って、何となく気になって、私とはつながっていないNくんの相互のアカウントを覗いてみて、自殺していたことを知った。確かめる方法はないけど、多分本当だろう。
 私が彼について知っていることと言えば、両親に虐待を受けていたこととか、家出して自力で働いて大学通ってたこととか、前にも一度自殺未遂をしていたこととか。一度じゃないかもしれないな。私が好きな漫画を彼も好きなことだとか。その程度。
 その程度、のつながりで、だけど時々思い出す。生きる意味とかわけ分からんこと言い出す兄のおかげで。
 お茶を淹れたら、彼が最後に薦めてくれた本を読む。古川日出男の『沈黙/アビシニアン』、アビシニアンなのに何で表紙はウサギ?な角川文庫版。古本屋の100円ワゴンで偶然見つけたのは運が良かった。何しろとっくの昔に絶版になってしまった本だから。電気ポットがカチッと音を立てて止まる。
 生きる意味とか分からないけど、読んでいる間は退屈しなくて済むだろう。



(Nへ。時々、君のことを思い出します。誰かが生きる意味とか言い出した時だとか、積み上がった本の塔が崩れてアビシニアンの文庫版が落ちてきた時だとかに)

4/24/2023, 4:04:33 AM

 蓮の花を描いたよ。
 花を描いた指先をふっと吹いて、絵師はまた万年床に潜ってしまった。怠け者の貧乏絵師め。蓮の花咲く胸中で毒づいたことを知ってか知らずか、仕事に出かけようとする背中を声が追ってきた。
「今日は早く帰っておいでね」

「あら兄さん、今日はいいのを咲かせておいでだ」
 蓮の花に最初に気付いたのは、取引先の宿の女将だった。
「いいねえ、あたしも久し振りにこんなの咲かせてみたくなっちゃったよ。どこの絵師さんだい」
 問われて、返事に窮する。何だかぽうっと胸が熱い。ふと女将が頬を赤らめた。
「あらやだよ、聞いちゃいけないやつだったかね」
 やだやだと、年齢不詳の女将は少女のように袖で顔を覆う。覗いた目元が婀娜っぽかった。

「あの、もうし」
 何とか注文を取って宿を後にしたところが、後ろから声をかけられた。振り返ってみれば宿の小間使いの娘だ。確か女将のお気に入りの、大人しいけれどよく目端のきく娘。
「兄さん、花びらを落とされましたよ」
 おずおずと両手を差し出してくる。
「おや。君はまだ若いのに、こいつが見えるのかい」
 からかうつもりはなく、ただ珍しいと思っただけなのだが、娘は火のついたように赤くなってしまった。ああ、そういうことか。
「娘さん、こいつは女将に渡してくれないか」
「あら、いいんですか」
「ああ、いつもお世話になってますからって」
  娘はぺこりと頭を下げた。女将の喜び顔を思ってか、帰っていく足取りは弾むようだ。その足の下に赤い睡蓮の花が浮かんでは消えていることに本人は気付いていまい。

花びらを人にあげたと伝えると、絵師は眉根を寄せて、もじゃもじゃの頭を掻いた。
「何かまずかったか」
「まずい……と言うか……ねえ」
 珍しく歯切れが悪い。
「何だ、はっきり言え」
「うーん……今頃、お熱い夜を過ごしてることだろうね、と」
「は?何を言って……っ」
 突然、こみ上げた衝動の強烈さに膝がくずおれた。目の前の相手をがむしゃらに掻き抱きたい。邪魔な着物など引き剥がして肌に手を這わせて、それから……。胸の花が熱い。こういうことか。
「お前、何てことを」
「今日はお布団干してあるよ」
 明後日の方向を向いてすっとぼけたことを言う。この野郎。
「……だって寂しかった」
 急にしおらしく頭を垂れて、その目元が赤く染まっていたりするのだからたちが悪い。
 取引先にヤバイものを持ち込んでしまったことは、とりあえず考えないことにしよう。他人の恋路を思い煩うのも後回しだ。
 今は心模様のままに。

4/23/2023, 9:53:02 AM

「黒太子のルビー」と呼ばれる宝石がある。
 あなたや私の心に眠る中学二年生がむくりと起き出してきそうな名前だが、別にファンタジー小説やゲームのアイテムではない。実在する。
 所有者は英国王室、王冠の中心に飾られた燃えるような深紅の石で、大きさも140カラットと堂々たるものである。ただしこの石、実はルビーではない。スピネルだ。
 ルビーやサファイアはコランダムに属するが、スピネルはコランダムと同じ鉱床に産することが多く、モース硬度はコランダムの9に次ぐ8。素人目には判別も難しく、スピネルは歴史的にコランダムと混同され同じものとして扱われてきた。近代に入り科学的な鑑別方法が導入されたことで二者はようやく区別され、「黒太子のルビー」もその正体が明かされたというわけである。
 韓国の映画『お嬢さん』(2016)でも、サファイアと偽られて贈られた青いスピネルのイヤリングが、二人のヒロインの行く先を象徴的に暗示する。
 さて、ここまで読んでスピネルにルビーやサファイアの紛い物で低級な石という印象を抱いたとしたら、それは大きな間違いである。宝石の価格はその個体の品質によるところも大きく、また人気の変遷にも影響される。数千円で購入できるサファイアあれば、値札を見ただけで青ざめるようなスピネルだって存在する。価値の高低はなかなか一概にはいかない。
 更にいうならばその価値なるものは人間が勝手につけたものであり、石はただ石としてそこにあるだけだ。たとえ間違えられようが混同されようが、石にしてみれば「知ったことか」てなものである。
 所有者がいつか死んでしまっても、彼らはただ変わらずに存在する。あるいは人類が死に絶えた後でも。
 人類が絶滅したはるか未来、かつて人間の居住地だった場所で、物陰できらりと光る何かに気付いたものがあったとしよう。それは猿に似た動物であるとしよう。
 猿に似た動物(以後猿とする)は、初めは光を警戒するけれど、やがて動かない無害なものであることに気付く。勇気を出して拾い上げたものは、赤く光るきれいな石だった。
 猿は石を気に入り、群れに戻って仲間に見せる。他の猿たちも石を気に入って、中の一匹が暴力をふるって石を奪い取ろうとする。石を拾ってきた猿も応戦し、興奮は周囲に広がって乱闘になる。やがて一番強い猿が石を手にする。
 その猿の群れでは、赤い石が群れのボスの象徴になる。
 時間を少し早送りしよう。
 猿に似た動物は進化、あるいは退化して体毛も薄くなり、二足歩行をするようになるかもしれない。かつて喧嘩が強かったり頭が良かったりした猿の子孫が、王となって君臨していたりするかもしれない。
 王は頭上に王冠を戴き、王冠の中心には大きな赤い宝石が燦然と輝いている。その宝石はちょっとかっこつけて「白太子のルビー」なんて呼ばれていたりするかもしれない。
 本当はスピネルなんだけどね。

4/21/2023, 2:38:53 PM

 ピアノの鍵盤をひとつ、ふたつと叩くように、雨はゆっくりと降り始めた。降ってきたねと呟いて、あなたはふたつ並んだカップにお茶を注ぐ。ティーポットを掴む指は細く長く、適度に節の立って美しい。
 携帯の画面に目を落とすふりをしながら、その優美な手をシーツに縫いつけることを考える。やがて注ぎ口からぽたりぽたりと滴る琥珀色。目の前に置かれたカップから香り高い湯気が立ち昇る。
「今、何か変なことを考えていなかった?」
 あなたは意外に勘がいい。
「変なことってなあに?」
 アタシはすっとぼけてニヤリと笑い、カップに口をつけた。口中に広がる芳しさを楽しみながら、ゆっくりと飲み下す。何を考えていたかって?そうね、例えば。これからあなたの頬を濡らす涙について。それとも上気した肌を伝う汗について。これからゆっくり教えてあげる、アタシのお姫様。
 窓硝子を淫らに這う雨が、とろとろと官能をなぞる。ピアノの鍵盤を叩くように、アタシの指はあなたを奏でるだろう。あなたのこぼす雫は地面に染みこむ雨のように、アタシの耳を濡らすだろう。
 

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