秋埜

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4/20/2023, 11:40:01 AM

 転がりこんで来た時には頭を抱えたものだけど、彼女との同居生活はそれほど悪いものではなかった。
 生活の場を共にしながら、互いの生活に不用意に踏み込まないということを、私たちはごく自然に守っていた。相手の私物には触れない、必要がなければ言葉も交わさない。うるさいのは問題外だが、沈黙が苦にならない相手というのもなかなかに希少なものだ。それでいて存在感が薄いということもない。
 雨の休日に私はソファで本を読み、彼女は絨毯に寝転がってゲームをしている、そんな時間は悪くなかった。楽しい、ではなく、嬉しい、でもなく、悪くはないとしか言いようのない感覚。
 もしも私が同性を恋愛や性愛の対象にする人間だったら、あるいは彼女の存在に心を悩ませたかもしれない。実際のところ私は同性にも異性にも、恋愛にも性愛にも興味がないからそんなことは起こらなかった。
 彼女の方はと言えば「これ、アタシのお姫様」と言って一度だけ見せてくれた写真には中性的な顔立ちの男性が写っていたので、多分異性愛者なのだろう。よく分からないが。
 雨の日にふらりと転がりこんで来た彼女は、やはり雨の日にふらりと去って行った。何が変わるわけでもなく、何が困るわけでもない。それでも雨の音がいつもよりほんの少し大きく感じるのは、互いに何もいらない関係がほんの少し心地よかったせいかもしれない。

4/19/2023, 12:15:33 PM

 アンナ・カヴァンの小説『氷』は、雪と氷に閉ざされ滅びいく世界で、一人の男が一人の少女をひたすらに追い求める物語だ。
 終末の光景は氷の破片に乱反射して目を突き刺す光のように、一片の容赦もなく美しい。現実と幻想は幾たびも反転し、やがて渾然一体となる。幾たびも、少女は暴力的な死を迎え、その都度男の手をすり抜けていく。
 邦訳は、まず1981年にサンリオSF文庫で発刊された。次いで2008年、同じ訳者による改訳版がバジリコより発刊されたが、これは重版することなく絶版になった。
 知る人ぞ知る伝説の作家アンナ・カヴァンの最後にして最高の名作という触れ込みに、希少価値も手伝って古書価は高騰した。私がカヴァンという作家を知り、バジリコ版の『氷』を図書館で手に取ったのはこの時期だった。読み終えてすぐ、購入するつもりでネット書店を探し、絶版に一度は絶望した後、古書に手を伸ばした。購入した時の値段をここには記さないけれど、まあ安くはなかった、とだけは書いておこう。さて、その翌々年。
 2015年の3月に、『氷』は筑摩書房から復刊された。この時にはSNS等でもいくらか話題になり、手に取りやすい文庫サイズということもあってか売れ行きは好調、現在に至るまで版を重ねに重ねている。
 ちくま文庫版の内容は概ねバジリコ版と変わらない。さて、もしも私に未来を見る力があって、ほんの1年数ヵ月待てば文庫で復刊されることを知っていたなら、バジリコ版を高値で買うことはなかったか。答えは No だ。
 当時の私にとって(そして今の私にも)、『氷』は今すぐ、この瞬間に自分の手元に置かなければいけない、そういう本だった。後悔はしていない。……それはまあ、復刊を知った時の正直な気持ちは「何ですと?」ではあったけれど。
 私の言葉を強がりや負け惜しみと疑うのならば、あなたも『氷』を手にとってみればいい。後悔は未来にするもの。その世界に過去を後悔し得る未来などない。
 そこにあるのは、未来のない安寧。
 そう、だから。未来なんて見なくていい。

4/18/2023, 12:48:17 PM

 チタニアダイヤモンド。
 妖精の女王の名を冠したこの宝石の正体はしかし、ダイヤモンド C ではなく酸化チタン TiO2 、ルチルである。
 自然界において生成されるルチルは金紅石の和名のとおり、金や赤褐色、時には黒色を呈する。色の差は鉄分の含有量による。無色透明のルチルが自然下で産出されることはまずないと言っていい。なお筆者は褐色のルチルを透過光に当てることで現れる妖艶な紅色を好み、これを収集しているというのは蛇足。
 チタニアの正式名称は合成ルチル、人の手に為る人造石であり天然のルチルよりも高い透明度を誇る。ダイヤモンドの模造品として産み出されたが、識別が比較的容易であること、またその強すぎる輝きが忌避され、模造石としての地位は早々に退くこととなった。現在では宝飾品としてよりも、愛好家のコレクターズアイテムとして出回っている。
 ルチルの屈折率は 2.62-2.90、これはダイヤモンドの 2.42 を上回る数値だが、前述したように天然のルチルは濃色を呈し透明度が低いため光の分散を見ることはできない。合成の無色透明のルチルだけが本来の輝きを有するわけだが、その故に「ギラギラして下品」との評価を下されてしまったというのは皮肉な話だ。
 人造の女王は瞋恚の炎を七色に身に纏い、如何に覗き込もうとも内側に秘めた純粋無色の世界を人の目に晒そうとはしない。


(素人が齧った程度の知識で書いた文章です。鵜呑みにされませんよう)
(本文とは関係ありませんが、丁度昼間にラヴクラフトの『宇宙からの色』を読んだばかりだったのでお題を見た瞬間にちょっとドキリとしました)

4/17/2023, 1:08:54 PM

 蕩けるように滑らかな膚だった。淡く紅を溶かした背中に今を盛りと花の咲き誇り、花びらがはらはらと散り落ちた。掌に受け止めるとちりと冷たく、手の熱で儚く溶けてしまった。わずかばかり残ったしずくを戯れ舐めてみれば、芳香が鼻に抜ける。
「雪桜、と呼ぶのだそうです」
花に似て品の良い声だった。顔は知らない。室に招き入れられてこの方、こちらに背を向けたままだ。
「花が溶けてしまうので実を結ばず、種を成さず、挿し木しようにも伐られた枝は即座に枯れてしまう。おまけに宿主を選り好みするものだから、今はもうこの背に咲いているので最後なのだとか……ああ」
 吐息が熱を帯びれば膚はいっそう紅く染まり、花の白さを引き立てた。紅と白と、二色の花のようじゃないか。耳元に囁きかければ、喉を鳴らして笑う。
「いけませんよ、そんなに熱い息をかけては。花が全部溶けてしまう。……それとも、あなた、この忌々しい花を散らしてくれますか。憑かれて以来、寒くて寒くて、仕方がないのです」
 今までに九百九十九人と寝たのだと言う。
 皆、凍えて死んだと言う。
「あなたさまで千人目、この度こそは悲願の叶う気がいたします」
 成就するのは花だろう。千人目の肥やしを得て、ますます美しく咲くだろう。この身は既に凍え始めている。
 嘲笑うように花吹雪が舞った。

4/16/2023, 12:24:03 PM

 物心つくより以前から、女は旅の空にあった。街から街へと渡り歩き、歌や踊りを披露することもあれば、鋳かけ屋の真似事もした。稼いだ金は次の旅の資金だ。旅暮らしは性に合ってもいたし、今更他の生き方ができようとも思っていない。
 草を枕に星の真下で眠ることもあれば、気が向けば誰かの寝床に潜りこむこともある。共寝の駄賃に金銭を受け取ったことはない。女は誇り高くあった。
 燃えるような恋を一度だけした。没落した貴族の娘だった。笑うと木の花の咲きこぼれるような娘だった。滅多に笑うことはなかったけれど。
 娘は何もかもを諦めきっていて、女が差し伸べた手も決して取ろうとはしなかった。
『どこへ行こうとも、私の居る場所が常に“ここ”になってしまうのだわ。貴女、私にせめて憧れる自由をちょうだい』
 女の与えた自由を携え、娘は顔も知らない許嫁の元に嫁いで行った。
 女は今日も旅の空にある。古い恋のため、遠い憧れのため、ここではないどこかであり続ける。 

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