秋埜

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 アンナ・カヴァンの小説『氷』は、雪と氷に閉ざされ滅びいく世界で、一人の男が一人の少女をひたすらに追い求める物語だ。
 終末の光景は氷の破片に乱反射して目を突き刺す光のように、一片の容赦もなく美しい。現実と幻想は幾たびも反転し、やがて渾然一体となる。幾たびも、少女は暴力的な死を迎え、その都度男の手をすり抜けていく。
 邦訳は、まず1981年にサンリオSF文庫で発刊された。次いで2008年、同じ訳者による改訳版がバジリコより発刊されたが、これは重版することなく絶版になった。
 知る人ぞ知る伝説の作家アンナ・カヴァンの最後にして最高の名作という触れ込みに、希少価値も手伝って古書価は高騰した。私がカヴァンという作家を知り、バジリコ版の『氷』を図書館で手に取ったのはこの時期だった。読み終えてすぐ、購入するつもりでネット書店を探し、絶版に一度は絶望した後、古書に手を伸ばした。購入した時の値段をここには記さないけれど、まあ安くはなかった、とだけは書いておこう。さて、その翌々年。
 2015年の3月に、『氷』は筑摩書房から復刊された。この時にはSNS等でもいくらか話題になり、手に取りやすい文庫サイズということもあってか売れ行きは好調、現在に至るまで版を重ねに重ねている。
 ちくま文庫版の内容は概ねバジリコ版と変わらない。さて、もしも私に未来を見る力があって、ほんの1年数ヵ月待てば文庫で復刊されることを知っていたなら、バジリコ版を高値で買うことはなかったか。答えは No だ。
 当時の私にとって(そして今の私にも)、『氷』は今すぐ、この瞬間に自分の手元に置かなければいけない、そういう本だった。後悔はしていない。……それはまあ、復刊を知った時の正直な気持ちは「何ですと?」ではあったけれど。
 私の言葉を強がりや負け惜しみと疑うのならば、あなたも『氷』を手にとってみればいい。後悔は未来にするもの。その世界に過去を後悔し得る未来などない。
 そこにあるのは、未来のない安寧。
 そう、だから。未来なんて見なくていい。

4/19/2023, 12:15:33 PM