夜闇を飛び交う光の中からひとすじ、すいとさ迷い出てきたと思えば、燐光は酒盃の上に降りた。向かいに座った彼は闖入者を追い払うでもなく、酒を満たした瑠璃の器がほのかに妖しく光るのを眺めている。
「おや。どうやら酒の味が分かるらしい。それとも澤の水が余程苦いのか」
戯れ言を、と思ったものだが、彼が盃を手に取ると光は飛び立っていき、尾を引くのがどうにもふらふらと酔っ払いめいている。本当に飲んだのだろうか。
「本当だとも。ごらん、酒代まで払っていった」
見れば螢は飛び去ったにも関わらず、淡い光は未だ酒の上で揺れている。止める間もなく、彼はそれを酒と一緒に飲み干してしまった。
「泣かぬ螢が身を焦がす、か。なるほど熱い」
酒豪が、らしくもなく白皙を朱に染めている。こちらの視線に返す笑みがやけに艶かしい。
目を逸らして澤を見やれば、螢はみな相方を得たらしく、飛び交うのをやめて水際の草のあちこちで命を燃やしていた。ただひとすじ、酔螢だけが相手を得られずにふらりふらりと闇の中をさ迷っている。
ああ、お前、届ける相手を間違えたねえ。
窓硝子は無惨に割られていた。散乱する破片の片付けと、窓の修繕にかかる手間を思って溜息をつく。
ガラスケースは床に転がされて、展示台の上にはもう何もなかった。窓の破れ目の向こう、暗色の空と海の間を、方舟は次第に遠ざかっていく。
小さくなっていく船影を見るともなしに見送ってから、室内の惨状に目を戻す。ふと、気付く。
何もないと思っていた展示台の上に、何かがあった。あまりに小さく、台と同じ色なので一見では見落としていた。
それは硝子で作られた、小さな白い猫だった。
神様へ。猫の影に隠れて、ただそれだけのメッセージが残されていた。鉛筆書きの薄い文字は、いずれ消えてしまうことだろう。
雨は四十日四十夜降り続いた。
珍しいことではない。今は薄くなった雲の向こうに日差しが滲んで見えるけれど、雲はまたすぐに黒く、厚みを増して、雷鳴を轟かせるだろう。やがて大粒の雨が世界に叩きつけられる。
僕は君に会いに行く。
硝子壁の通路の向こうの森は半ば水に沈んで、一メートルはあろうかという魚が樹々の間を悠々と泳いでいる。鈍い金色の鱗が不意にきらりと光った。雲の隙間から日が差している。
雲が切れて空が晴れ渡る時、世界は終わると君は笑った。ねえ、世界の終りをみたいと思う?別に、と僕は答えた。世界なんて終わろうと始まろうと。
僕は君に会いに行く。
古いアパートの錆びた階段を上る。滴った汗が首筋を伝う。いつもより気温が高い。古ぼけたドアをノックして返事を待つ。鍵がかかっていないことは知ってる。やがて僕は軋むドアノブを回し、室内に足を踏み入れる。振り向いた君の笑顔を、窓から刺した光が暗く覆った。
世界なんて終わろうと始まろうと。何度でも、僕は君に会いに行く。
君に、会いに