秋埜

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 蓮の花を描いたよ。
 花を描いた指先をふっと吹いて、絵師はまた万年床に潜ってしまった。怠け者の貧乏絵師め。蓮の花咲く胸中で毒づいたことを知ってか知らずか、仕事に出かけようとする背中を声が追ってきた。
「今日は早く帰っておいでね」

「あら兄さん、今日はいいのを咲かせておいでだ」
 蓮の花に最初に気付いたのは、取引先の宿の女将だった。
「いいねえ、あたしも久し振りにこんなの咲かせてみたくなっちゃったよ。どこの絵師さんだい」
 問われて、返事に窮する。何だかぽうっと胸が熱い。ふと女将が頬を赤らめた。
「あらやだよ、聞いちゃいけないやつだったかね」
 やだやだと、年齢不詳の女将は少女のように袖で顔を覆う。覗いた目元が婀娜っぽかった。

「あの、もうし」
 何とか注文を取って宿を後にしたところが、後ろから声をかけられた。振り返ってみれば宿の小間使いの娘だ。確か女将のお気に入りの、大人しいけれどよく目端のきく娘。
「兄さん、花びらを落とされましたよ」
 おずおずと両手を差し出してくる。
「おや。君はまだ若いのに、こいつが見えるのかい」
 からかうつもりはなく、ただ珍しいと思っただけなのだが、娘は火のついたように赤くなってしまった。ああ、そういうことか。
「娘さん、こいつは女将に渡してくれないか」
「あら、いいんですか」
「ああ、いつもお世話になってますからって」
  娘はぺこりと頭を下げた。女将の喜び顔を思ってか、帰っていく足取りは弾むようだ。その足の下に赤い睡蓮の花が浮かんでは消えていることに本人は気付いていまい。

花びらを人にあげたと伝えると、絵師は眉根を寄せて、もじゃもじゃの頭を掻いた。
「何かまずかったか」
「まずい……と言うか……ねえ」
 珍しく歯切れが悪い。
「何だ、はっきり言え」
「うーん……今頃、お熱い夜を過ごしてることだろうね、と」
「は?何を言って……っ」
 突然、こみ上げた衝動の強烈さに膝がくずおれた。目の前の相手をがむしゃらに掻き抱きたい。邪魔な着物など引き剥がして肌に手を這わせて、それから……。胸の花が熱い。こういうことか。
「お前、何てことを」
「今日はお布団干してあるよ」
 明後日の方向を向いてすっとぼけたことを言う。この野郎。
「……だって寂しかった」
 急にしおらしく頭を垂れて、その目元が赤く染まっていたりするのだからたちが悪い。
 取引先にヤバイものを持ち込んでしまったことは、とりあえず考えないことにしよう。他人の恋路を思い煩うのも後回しだ。
 今は心模様のままに。

4/24/2023, 4:04:33 AM