「黒太子のルビー」と呼ばれる宝石がある。
あなたや私の心に眠る中学二年生がむくりと起き出してきそうな名前だが、別にファンタジー小説やゲームのアイテムではない。実在する。
所有者は英国王室、王冠の中心に飾られた燃えるような深紅の石で、大きさも140カラットと堂々たるものである。ただしこの石、実はルビーではない。スピネルだ。
ルビーやサファイアはコランダムに属するが、スピネルはコランダムと同じ鉱床に産することが多く、モース硬度はコランダムの9に次ぐ8。素人目には判別も難しく、スピネルは歴史的にコランダムと混同され同じものとして扱われてきた。近代に入り科学的な鑑別方法が導入されたことで二者はようやく区別され、「黒太子のルビー」もその正体が明かされたというわけである。
韓国の映画『お嬢さん』(2016)でも、サファイアと偽られて贈られた青いスピネルのイヤリングが、二人のヒロインの行く先を象徴的に暗示する。
さて、ここまで読んでスピネルにルビーやサファイアの紛い物で低級な石という印象を抱いたとしたら、それは大きな間違いである。宝石の価格はその個体の品質によるところも大きく、また人気の変遷にも影響される。数千円で購入できるサファイアあれば、値札を見ただけで青ざめるようなスピネルだって存在する。価値の高低はなかなか一概にはいかない。
更にいうならばその価値なるものは人間が勝手につけたものであり、石はただ石としてそこにあるだけだ。たとえ間違えられようが混同されようが、石にしてみれば「知ったことか」てなものである。
所有者がいつか死んでしまっても、彼らはただ変わらずに存在する。あるいは人類が死に絶えた後でも。
人類が絶滅したはるか未来、かつて人間の居住地だった場所で、物陰できらりと光る何かに気付いたものがあったとしよう。それは猿に似た動物であるとしよう。
猿に似た動物(以後猿とする)は、初めは光を警戒するけれど、やがて動かない無害なものであることに気付く。勇気を出して拾い上げたものは、赤く光るきれいな石だった。
猿は石を気に入り、群れに戻って仲間に見せる。他の猿たちも石を気に入って、中の一匹が暴力をふるって石を奪い取ろうとする。石を拾ってきた猿も応戦し、興奮は周囲に広がって乱闘になる。やがて一番強い猿が石を手にする。
その猿の群れでは、赤い石が群れのボスの象徴になる。
時間を少し早送りしよう。
猿に似た動物は進化、あるいは退化して体毛も薄くなり、二足歩行をするようになるかもしれない。かつて喧嘩が強かったり頭が良かったりした猿の子孫が、王となって君臨していたりするかもしれない。
王は頭上に王冠を戴き、王冠の中心には大きな赤い宝石が燦然と輝いている。その宝石はちょっとかっこつけて「白太子のルビー」なんて呼ばれていたりするかもしれない。
本当はスピネルなんだけどね。
4/23/2023, 9:53:02 AM