寒い。月並みな言葉だけれども、その言葉しか出ないほどに部屋は南極にいるみたいに凍え死んでしまいそうだ。
寒い。
寒い、と思いながら目覚まし時計を見ればすでに九時を回っていた。これが、まともな会社員だったなら遅刻確定だ。こういうときばかりは自身の職業に安堵する。
煙草を吸おうとベランダに出ると、趣味の園芸であるハーブに霜が降りている。特価品だからすぐに枯れると思っていたのに、俺の予想に反して、ピンっと元気よく葉を伸ばす。
「あ、起きました?」
ひょっこりと少女が寝室に顔を出した。誰だ、こいつ。訝しげな顔をしていたせいか、少女は両手を口元に当てて叫ぶ。
「酷いわ、お兄さんっ!昨晩はあんなに愛し合ってくれたと言うのに!」
「ふざけた真似抜かしてっと叩き出すぞ、小娘」
「なんだ、覚えているんじゃないですか」
家のアパートのごみ捨て場で膝を抱えていた高校生高校生ぐらいの娘。警察を呼ぼうとしたら、嫌がられたので、自分の家に招き入れた。ガキを男の家に入れる時点で倫理観的にどうかと思うが、まぁ、仕方がない。どのみち、今日で追い出す。
ライターで火をつけようとポケットを探るが見当たらない。しまった。仕事部屋だ。
パチン、と彼女は指を鳴らすと、左手の親指に火が灯る。
「煙草の火が欲しいんでしょ?」
「どーも」
俺は彼女に火をもらいながら、最近のニュースが頭に流れる。連続放火事件。田舎の聞いたことがない村からだんだんと自分が住む東京へと近づいてきていた。犠牲者は大体、一人暮らしの男性。俺はドンピシャに当てはまる。
「安心してよ、まだ殺さないから」
ベランダの柵に持たれた幼い少女の顔をした放火魔は、不気味なぐらいゆったりと首を傾げて微笑んだ。
誰もいない和室の真ん中に糸電話が落ちている。紙コップに繋がれた糸は私がいる反対側の庭の廊下まで伸びているというのに、もう片方の紙コップはどこにも見当たらない。
私はそれを拾い上げ、耳に当てた。ほんの好奇心と暇潰し。
もしもし、と声をかけた先で息を呑む男の人がした。聞いたことのない声だったけれど、この家は普段から人の出入りが激しいから、その誰かなのだろう。
「この糸電話を作ったのはお兄さん?」
男は言い淀むばかりで返事らしい返事がない。
変なお兄さん。変なお兄さんの後ろで堪えきれないようにぷっ、と吹き出す女の人の声がした。その女の人の声はどこか懐かしい気がしたけれど、誰なのかが分からない。私が声の主を推測している間にも、紙コップの向こう側から男女のやり取りが漏れ聞こえている。何を言っているのかは分からないけれどそのやり取りは気安い。
「ねぇねぇ」
そこから始まった質問責めタイム。あれこれと根掘り葉掘り問いかける私と女の人に挟まれたお兄さんはワタワタと落ち着きなく、だけど、真摯に質問に答えてくれた。
ごはんよー、とお母さんの声が遠くからした。
「またな」
その一言を最後に、手のひらにあった糸電話は跡形もなくなってしまった。
□
「······と言うことがあったのよ」
昔話を披露していると、目の前にいる神様は首を傾げた。神様らしからぬ金髪碧眼の彼は日本の神というよりも異国の王子様のようだ。黙っていれば、という枕詞がつくけれど。
「でーきた」
私は紙コップに糸を通しただけの糸電話を完成させると、片方を庭へと放り投げた。
「何してんだ、アンタ」
「もうすぐ分かるよ」
私が彼に糸電話を渡す。
「耳に当ててみて」
「なんでそんなことを」
「いいから、いいから」
私の言葉に彼はしぶしぶ紙コップを片側の耳に当てた。
『もしもし?』
息を呑む彼は驚いたように私を見た。
「だから言ったでしょう?」
絨毯のように敷き詰められた紅葉の上を歩く。平日の真っ昼間なこととそれなりに有名な観光スポットであるにも関わらず、私以外、人はいなかった。平見頃はとうに過ぎ去ってしまった紅葉の木はしがみつくように残った三、四枚を残し、あとは裸ん坊だ。
手が冷たい。文字通り、氷水の中に突っ込んだみたいに冷えた指先はささくれと爪の間から血が滲む。
ほぅ、と手のひらに向かって息を吐く。白い煙が熱っぽく、悴んだ指先の冷えがほんの少しだけマシになった。
「手袋ぐらいしたらどうだ?」
「邪魔だもん」
狐面をしているせいで顔は分からないけれど、彼が呆れているような空気だけは分かった。私が出会った日から見た目が何一つ変わらず、二十代後半のままのお兄さんは、私がこの辺りに来ると決まって顔を出してくれた。
しかたないな、と呟いて彼は私の右手を握った。
「これなら、マシだろ」
「ありがとう」
「ん」
お兄さんと一緒に来た道へとUターンする。
「祠、ちゃんとした人に直してもらう?」
彼の住み処である祠。昔、子供が悪戯で壊した祠をまだ、幼かった私は捨て置け、と言った彼の言葉を無視して、結局、お兄さんと一緒に直した。祠はあまりにも不恰好で、廃墟と呼んでも差し支えないほどにボロボロだ。
「いい。······あれがいい」
「なら、良いけど」
話をしているとあっという間に出口へと辿り着く。
「また、今度くるね」
はは、と笑う彼は明確に線を引く。
「もう、二度と来んな」
ーーーー私の宝物が入った鍵をこの書斎に隠したわ。探してご覧なさい。
遺言らしからぬ言葉を残して亡くなった母の『宝物』は未だに見つかっていない。
仕事を終え、母の離れへ向かう。本好きの母が父の反対を押し切って建てた本邸の角に建てられた書斎は、図書館といって差し支えないほどに国中のありとあらゆる書物が揃っている。田畑以外何もない田舎の村であったこの書斎は村人の憩いの場であり、母が生きていた頃は読書会や朗読会で賑やかだったこの場所は今では閑古鳥が鳴いている。母がいなくなったということと、もうひとつは。
チッ、と内心舌を打つ。普段、立ち寄りもしないくせに。
ドアノブを回して書斎に入った瞬間、目の前に飛び込んできたのは、床に散乱した本の山。引き抜きに失敗したというよりも適当に引き抜いて床に落としたのだ。聖域とも呼べる空間をぶち壊した光景にカッと頭に血が昇る。母と負けず劣らず本好きの僕には堪えきれない光景だ。
「おい、あのバカが遺した『魔道書』はどこに隠した?!」
「知らないよ」
知っていたとしても、おまえなんかに教えるものか。僕は叔父が落とした本を拾い、痛んでいないことに安堵する。
叔父さんは、はっ、と小馬鹿にしたように笑う。
「そんな古びた何もない本に執着するなんて、本当に姉そっくりだな。まぁ、よい。明日、この本はすべて引き払う」
「母さんの本だぞ!?」
「今は俺のものだ」
「ふざけるな!」
叔父さんに掴みかかろうとした僕は呆気なく床に転がされた。殴られた左頬がズキズキと痛み、口の中は血の味がする。
「ガキが大人に逆らうんじゃない!」
吐き捨てるように出ていった叔父さんに背を向けた僕は膝をついて本を抱えたまま涙を溢す。
何もできない無力な自分がいやだった。
ーーーー助けてあげようか?
声がする。少年のような、僕よりも幼い子供の声。
僕は声に導かれるように、声がしたその本を手に取った。
「ねえ、知ってる?秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード」
桜を見上げていた彼女は、僕へと振り向き、そんなセリフを吐いた。
「映画の予告セリフじゃん」
ちぇっ、バレたか。と舌を出す彼女は長くて艶やかな髪を掻き上げた。
「きみは知らないと思っていたのに」
「いや、CMでちょくちょく流れていたし」
とはいえ、興味ない人間には知らないままだろう。現に僕は肝心の映画を観ていない。あらすじは知っているけれど。ネタバレなしで感想を言うならば、子どもだな、ということだ。僕らはとうに子どもでいられる時間は過ぎてしまったけれど。
「お互い三十歳越えても独り身なら、結婚しちゃおうか」
「また、映画のセリフ?」
「映画ではないね」
たぶん、と続ける。なんて、曖昧な。
「ここにいたら、本か映画ぐらいしか楽しみがないんだよ」
だろうな、と思う。彼女の人生の半分は真っ白な無菌室で過ごしている。病院の個室だなんて、彼女の家が金持ちなのか、余りがここしかなかったのかなんて考え自体、頭の隅へ追いやった。興味ないし。
「結婚の話なんだけど。俺、そんな気が長くないんだわ」
やべ。緊張しすぎて一人称ミスった。彼女は怪訝な顔をする。腹を括って、僕は彼女に告げる。
「退院したら、結婚しよう」
「正気か?」
「正気だけど」
ずっと、手放し続けてきた人生だった。
なら、手を離したくない時間がひとつぐらい合っても良いじゃないか。
「ふつーに、おまえを他のヤツに獲られんのヤダ」
彼女は顔を両手で覆う。心なしか、耳が真っ赤だ。
「クソッ、死ねなくなった」
「それは、良かった」
逃げられないように明日、婚姻届を用意しておこう。反応が楽しみだな。